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知られざる名石 小豆島の吉野石
石の島 小豆島
小豆島は古くより、良質な石材の産出地として栄えてきた場所である。江戸時代には大阪城再築に際し、多くの石が島から切り出され、石垣として利用されたのは有名な話である。また島の石は皇居の石橋や、地図作成の際に重要となる三角点の標石に使われるなど、日本近代化の歴史においても重要な役割を果たしてきた。近年ではその歴史的・文化的価値が高く評価され、小豆島を含む備讃諸島が、「石の島」として日本遺産に認定されている。
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そんな輝かしい経歴を持つ小豆島の石ではあるが、その名声に反し、人知れず忘れられようとしている石がある。それが今回紹介する「吉野石」である。
吉野石とは
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吉野石はかつて小豆島三都半島の、吉野地区で産出されていた石材である。材質は比較的柔らかく、色は灰色や小豆色を帯びているのが特徴である。
文献によると、その採掘は明治時代に始まったとされ、彫刻がしやすいことから、大正時代には仏石(墓石)として相当な需要があったようである。また庭石や建築用材として阪神方面にも移出されていたが、大戦をきっかけに本格的な採掘は一時休止されていたようである。その後戦争が終結すると、再び採掘が行われるようになるが、石材加工業は昭和40年頃まで。庭石の搬出は昭和50年頃を最後に行われなくなったようである。
このように吉野石は、産出されていた場所や期間が限られていたこともあり、島民にすらその存在を認知されていないのが実状である。また上記の要因以外にも、この石が島の石として認知されていない理由が存在する。それは、石の種類が異なるという点である。
小豆島の地質は、主に花崗岩という岩石によって形成されており、日本遺産に認定されている他の島々も同様となっている。一方吉野石は安山岩という種類の岩石であり、こちらは小豆島産の石材として、ほとんど活用されていない。事実、先述した大阪城の石垣や、皇居の石橋、三角点の標石に使われた石は全て花崗岩であり、日本遺産である「石の島」のストーリーも、花崗岩を中心に構成されているのである。そのため島の安山岩(吉野石)は花崗岩の名声の影に隠れ、目立たない存在になっているのである。
吉野石の魅力
明治から昭和中期にかけ、小豆島の限られた場所で産出されていた吉野石は、時代の流れとともに、その活用の場を失っていった。当然これからも、この石が活用されることはないだろう。
ただ、このまま吉野石の歴史が失われてしまうのは、何としても避けたいと筆者は考えている。なぜならこの石の歴史に触れれば触れるほど、いかに地元の人々に愛された存在であったか、うかがい知ることができるからである。
現在、吉野石が使われた石造品は吉野地区を中心に三都半島各地で見ることができ、その数も千を優に超えていると思われる。また何よりも驚かされるのは、その活用の幅が非常に広いということで、私が知るだけでも、庭石、石碑、灯篭、墓石、お地蔵さん、鳥居、氏神、手洗石、外壁、玉垣、石垣、縁石、礎石、階段、井戸囲い石、石臼といったものがある。そして忘れてはならないのは、これらが全て人々の生活に近い場所で使われてきたという事実なのである。
そこには大阪城の石垣のような華やかさこそないものの、島民の暮らしを支えてきたという歴史が、確かに刻まれているのである。
各地に残る吉野石の石造品
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鳥居が建立された年号は、享保十七年(西暦1732年)と刻まれているように見えるが、吉野石の産出時期とは全く合致しない。おそらく元々あった鳥居を何らかの事情で作り替える必要が生じたため、吉野石製のものを新調したのではないかと推察される。
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日露戦争の開戦を記念して作られた石橋。開戦は明治37年であり、時代的には合致している。水路に使われている石も全て吉野石である。
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吉野石の石造品のなかで、最も頻繁に見かけるのがこの石臼である。吉野石は花崗岩と比べ柔らかいことから、餅をつくと砂が混じるのではないかと筆者は思ったが、そのようなことは全く無かったと地元の人が教えてくれた。
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吉野地区から神浦地区に至るまでの峠に置かれたお地蔵さん。昔の人々は悪霊の侵入を防ぐ目的で賽の神を置いていたが、このお地蔵さんも同様の目的があったと考えられる。
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豊漁の神である恵比寿様の石像は三都半島各地で祀られている。そのなかでも蒲野地区のものだけが、吉野石製となっている。作りに素人っぽさが感じられることから、石工ではなく地元の人が製作した可能性もある。
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二面地区の小規模な神社に設置されていた祠。このタイプのものは三都半島各地で見られることから、まとまった数が既製品として販売されていた可能性がある。氏神を祀る祠としてもよく使われている。
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井戸囲い石も既製品として相当な数が作られていたと思われる。小豆島では同様の形をした花崗岩製のものもよく見られる為、技術的なつながりがあった可能性もある。
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吉野石の石段も三都半島各地で見ることができる。聞いた話によると、このような石材は木馬(きんま)と呼ばれる木製のソリを使い、人力で丁場から運び出していたという。
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花崗岩製と吉野石製の支柱が巨大な蘇鉄を支えている。支柱には個人名が彫られており、一本一本が寄進されたものとわかる。
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神浦の富士地区は冬場になると季節風の影響を強く受けるため、複数の民家に吉野石製の防風壁が設置されている。この地区の防風壁は明治時代に設置されたとされ、吉野石採掘当初からこのような使い方がされていたとわかる。同地は吉野石の丁場からも近く、石造品の得意先だった可能性もある。
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旧池田町(室生地区)に設置された民家の石壁。こちらも神浦地区の石壁とほぼ同じものである。地権者に話を聞いたところ、先祖が神浦地区出身であり、同地と同じ石壁を船で運んで持ってきたとのことであった。この石壁に特別な愛着があったことが窺える。
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淵崎地区は吉野地区や神浦地区からかなり離れた場所に位置しているが、ここにも全く同じ石壁が設置されている。おそらく船で運んで来たと考えられるが、設置経緯に関しては確認することができなかった。同様の石壁がまだどこかに存在する可能性がある。
吉野石の丁場跡
この数年間、吉野石に関する調査を進めるなかで、丁場跡に関する記録が全く残されていないことに気づいた。そこで地元住民への聞き込みと現地調査により、おおよその場所を特定するに至った。以下に写真と地図を掲載し、丁場跡の記録としたい。
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赤丸のポイントが丁場跡だったと思われる場所。オレンジの線が石を搬出していたと考えられる搬出経路。
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北部は当時の様子がわからないほど荒れてしまっている。辺りには石を加工する際に出たと思われる端材が散乱していた。
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トラックが余裕で通れる幅があり、庭石などはここを経由して運搬されていたと考えられる。尚地元住民の話によると、トラック等が無かった時代には、全て人力で石材を運んでいたという。石材一個につき、決まった報酬が支払われていたようで、地元の子供もお小遣いの為に石を運んでいたようである。
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南部丁場跡は、頂上付近以外全て急峻な場所に位置している。現地に訪れると採石途中と思われる石が残されていた。
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急峻な場所に端材が積み重なっている。崩壊の危険があるため、訪れる際には注意が必要。
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頂上付近に高さ5メートル程度の大岩が鎮座している。写真に写る人物は小豆島の知の巨人、N氏。
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南部には端材を使って作られた石垣が複数存在する。足場や作業スペースを確保するために作られたと考えられる。
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いつ誰が何のために設置したのか、全てが謎の祠。南部は急峻な場所が多い為、安全を願って山の神を勧請したのかもしれない。この祠にも吉野石が使われている。
最後に
以上、これまで注目されることのなかった吉野石について紹介してきたが、この記事を見た方々は是非現地を訪れ、吉野石の歴史に触れてみてほしい。各地に残された石造品を目にすれば、この石がいかに地元の人々に愛され、身近な存在であったか感じ取ることができるだろう。そしてもしご存じの方がいれば、島外に運び出された吉野石について、情報を提供してほしい。まだ知られていない吉野石の歴史が、今もどこかに眠っていると、筆者は信じている。