雑考:奇祭「平方のどろいんきょ」
イントロダクション
埼玉県在住の知人から、おもしろい祭礼について教えていただいた。
「平方祇園祭 どろいんきょ行事」
平成23年 埼玉県指定無形民俗文化財に指定されたものだ。
関東大震災以降、この祭りは行われていなかったが、1970年代に復活し現在にいたる。この祭りが、どのように奇祭なのか?そして、その歴史について少しだけ雑考していきたいと思う。
※書き言葉とした際「どろいんきょ」「ドロインキョ」「泥隠居」と、表記揺れがあることがわかっている。以降、視認しやすさ読みやすさを考慮し、引用元を除き、カタカナ表記にすることを、先にお断りとして入れさせていただきます。
どろいんきょ祭りの概要
ドロインキョは、埼玉県上尾市で行われている。
その概要は、上尾市教育委員会のホームページに以下のように記されている
この中で、注目するべきは以下の点である
・平方上宿に鎮座する八枝神社を中心とする祭り
・以前は平方の上宿・下宿・南・新田の4地区合同で行われた
・「いんきょ神輿」と呼ばれる装飾のない白木の神輿で、神具であるのにもかかわらず、かなり乱暴に扱う。
・あらかじめ地面に水を撒いておき、その泥の地面の上で神輿を転がすことを「どろいんきょ」と呼ぶ
では、なぜドロインキョと呼ぶのか?
この呼称に関して詳しいことはわかっていないが、一説によると【古くなった神輿(隠居した神輿)を、祭りに担ぎ出し、泥にまみれさせたのが始まり】だと言われている。
八枝神社の基本情報
まず祭りの中心となる八枝神社についてみてみよう。
公式ホームページによると、このようなことが書かれている
祭神はスサノオである。
八枝神社は「牛頭天王社(天台宗正覚寺の持寺)」という名の寺院が起源だとされる。この寺院は除地の対象とされていたことから、当時、手厚い待遇を受けられるほど信仰を高かったことが伺える。
※除地とは、本来年貢を納める必要性がある土地にも拘らず、なんらかの理由で免除された土地のことをさす。
しかし、明治維新後、神仏習合が廃止される神仏分離令が出されると、正覚寺は廃寺となり、八坂神社の枝社という意味を込め「八枝神社」となったとされる。
八坂神社もまた、神仏習合の頃は感神院祇園社というなの寺院であった。そして祭神は同様に、牛頭天王である。同様に、神仏分離令が出され、現在の八坂神社となった。
牛頭天王とスサノオは同一神とされており、共に疫病除けとされている。
二つの隠居
さて、八枝神社の歴史についてはこれくらいにし、次に注目すべき『狛狗大神』に目を向けてみよう。その化身は「獅子頭」とされ、祭神だといわれている。
荒川周辺の習俗等をまとめられた【荒川 : 荒川総合調査報告書 4 (人文 3)】には、この八枝神社とは別の「玉敷神社」の獅子頭について、以下のようなことが記述されている
この獅子頭を借り受ける範囲は、玉敷神社を中止に半径15~20km以内の190村である。
八枝神社の御獅子も借りることができ、以前は、平方の上宿・下宿・南・新田(半径15~20km)の4地区合同で「どろいんきょ祭り」が行われており、獅子頭の有効範囲とも共通する。
獅子頭を日帰りで借り受ける。という点については、村落の数が多いため不文律があるためである。しかし、日帰りが出来ず、借り受け期間が二日間に及ぶケースもあり、その場合、獅子頭のことを「御隠居様」と呼び、丁重に扱ったとされる。
神輿のことを「いんきょ」と呼称している八枝神社との関連性を考えるうえで、無視できない要素であることは明白である。
しかし、両者の明確な関係は明らかではない。と、いうことで創建から、この二つの神社の関連性を見ていくことにしよう。
玉敷神社:大宝3年(703年) 社伝より
八枝神社:元禄年中(1688~1703年) 社伝より
1000年以上、玉敷神社のほうが古いことになる。ちなみに、玉敷神社の祭神は「大己貴命」である。大己貴命は大国主命の別名の一つとされ、同一視されている。
大国主は、因幡の白兎を助けたことから、医療の神という側面を見せることもあるため、疫病に関するスサノオを祀る八枝神社と関係があるようにも見える。
しかし、玉敷神社の「騎西のおしっさま」は、五穀豊穣・家内安全だとされている。
一方、八枝神社の御獅子。「平方のおししさま」は、疫病退散・災厄消除である。
ただ、おしっさま自体は、年中行事のようなもので、春は災害除けと豊作。秋は無病息災を願うという。つまり、その霊験としての役割が一つではないという事だ。
ふたつの獅子頭
それでは、ふたつの御獅子。この起源について見ていこう。
玉敷神社のホームページには、由来は以下のように書かれている
詳しい起源はわからないが、少なくとも19世紀初頭以前から、獅子頭があったことが確認できる。
では、八枝神社はどうか?こちらは天保13年(1841)に配られた「千座護摩募縁誌」と題する木版刷りのチラシには、こう記されている。
このことから、八枝神社では、少なくとも1841年から獅子頭があったことが確認できる。
玉敷神社の1828年と八枝神社の1841年。20年と違いがない。
もう少し詳しく見ていこう。
加須インターネット博物館に「玉敷神社のオシッ様」という昔ばなしが掲載されている。昔ばなしの内容を要約すると以下のようになる
オシッ様の先導役に猿田彦がいるわけだが、これには一定の理解が示せる。というのも、猿田彦は瓊瓊杵尊が天孫降臨した際の先導役であった。
獅子舞とは「ケモノの舞」であり、その起源には「邪視の舞」の神事という事が言われている。獅子は「にらむ」ことで厄を払う。猿田彦も先導役として、進む先にある災厄払うとされ、思想上同一視されることがある。
また、宮代町立図書館 宮代町デジタル郷土資料 にも、玉敷神社の獅子頭のことが掲載されており、以下のようなことが書かれている。
猿田彦は、天狗と同一視される傾向にある。以上のことから推測するに、玉敷神社の獅子頭の本質的な役割は、五穀豊穣・家内安全等を祈願したものではなく、八枝神社同様に、悪疫退散の意だったのではないかと予想される。
では、八枝神社の獅子頭についても、詳しく見てみよう。
このことについては、田中 正明(1976)にて、すでに論考されており、由来については二つの説話が記されている。
・荒川を流れてきて河岸に止まり、以後、正覚寺で祀るようになった説
・旅の修験者が正覚寺に一夜の宿を乞うたことがあり、その時、夜半に所持していた獅子頭が梁の上を走り回ってこの地に留まることを希求した説
ともに、別の土地から八枝神社に持ち込まれたものということがわかる。玉敷神社と八枝神社の位置関係は、玉敷神社が上流に八枝神社は下流に位置するため、獅子頭の伝承が河川経由で入ってきた可能性は大いに考えられる。と、いうのも、荒川は舟運が行われていた歴史がある。
この二つ目の説に関し田中氏は
と、話を結び、修験者が持ち込んだという説に難色を示している。
時代は少しずれるが、室町時代、村落の中で信仰の厚かった寺院では、例年正月に、その寺院の村人だけではない、どこの出身のものかもわからない者にも餅を配っていたのだが、飢饉の際は寺院の門戸を固く閉じ、村人だけに餅を配った。という記録が残されている。飢饉の際、民衆の暴徒化に恐れていたことがよくわかる逸話である。
小氷期による飢饉と疫病
しかし、博識な読者のかたには、この田中氏の指摘に、いささか違和感を覚えるのではなかろうか?
この場合の大飢饉は言うまでもなく江戸の4大飢饉の一つ「天保の大飢饉」を指すわけだが、この大飢饉は天保4年(1833)~天保10年(1839) または、天保8年(1837)年とするのが一般的である。
「千座護摩募縁誌」は天保13年(1841)に配られたものであるから、少なくとも2~4年は経過している。しかし、田中氏は「大飢饉が打ち続いている」と記した。じつはこれこそが、玉敷神社と八枝神社とをつなぐ部分ではないかと、私は考えている。
話を八枝神社の獅子頭に戻そう。獅子頭の記録として「千座護摩募縁誌」をあげているが、そもそも、千座護摩とはなにか?
いまさら説明はいらないかもしれないが、護摩行とは「願いを成就するための修行」ではなく「願いの妨げとなる煩悩を焼き払う」ことである。
そして、千座護摩募縁誌の中には、このようなことも書かれている。
年々と盛なるニ至 の二至いうのは、夏至と冬至である。つまり、異常気象のことである。
じつは、天保元年から明治13年頃まで、第4小氷期とよばれる時期に入っている。小氷期と聞くと「氷河期」を連想し、気候が寒冷だったかのように思われがちだが、実際のところはというと、第4小氷期はそこまで寒冷ではなかったといわれている。一方で、春と夏が低温多雨であったといわれ、どちらにしろ異常気象には変わりはない。
問題なのは、先の時代に起きていた第3小氷期のほうである。第3小氷期の期間は天明元年(1781)~文政12年(1829)までの約50年とされ、この時期に起きているのが、江戸の4大飢饉のひとつ「天明の飢饉(1782-1787)」である。天明の飢饉の爪痕が癒え始めた頃に「天保の飢饉」はやってきたのである。
※天明の飢饉は浅間山の噴火も大きく影響しているため、気候変動だけが原因ではない。
以下、あくまでも私の仮説だが、八枝神社の祭神として崇められている『狛狗大神』というのは、100年近く続いた第3-4小氷期によって引き起こされた凶作と飢饉、そして疫病。これらを鎮めるために現れた、平方の救世主だったのではなかろうか?
玉敷神社は式内社であり、江戸時代までは「久伊豆大明神」と称され、埼玉郡の総鎮守として尊崇されており、しかも、「千座護摩募縁誌」が配られる以前から、獅子頭が存在していたことを考えれば、その獅子頭の霊験の高さは、広く民衆の間に広まっていたことは明白である。
そして、千座護摩募縁誌の記述のなかに、このようなものがある。
これを要約すると
正覚寺には、昔から獅子頭はあった。これが、牛頭天王に千座護摩祈念をした結果、疫病に特化した霊験をもった獅子頭となった。と、いうことであるが、先にも述べた通り、この獅子頭は「荒川から流れてきた」という説が濃厚である。
じつは、この上流から獅子頭が流れやってくるという話は、同県ときがわ町にある獅子頭「ルスイジシ」でも語られている
つまり、現在八枝神社に祀られている獅子頭というのは、玉敷神社で悪疫退散に失敗した獅子頭(御隠居様)だったのではないだろうか?
そして、その悪疫退散に失敗した原因こそが煩悩であり、それを千座護摩にて打ち払い、再び悪疫退散の霊験を得、平方を守護する獅子頭になったとは考えられないだろうか?
田中(1976)・荒川総合調査報告書4においては、八枝神社の獅子頭のことを、水神と関連があるのではないか?と考察をおこなっている。たしかに荒川流域に、水神に関する神社が多くあることから、水神関連とみることは自然だと思うが、いくつかの記録、また当時の時代背景を考慮し再考察してみると、水神に関する象徴というよりかは、やはり、悪疫退散としてのウェイトがかなり高いと思われる。
どろいんきょ祭り
玉敷神社と八枝神社の間に共通する「インキョ」という言葉には、一定の関係性があることがみえてきた。かなり長くなってしまったが、最後にこの祭りの核となる部分「ドロまみれにする行為」について見ていき、ドロインキョとはいったいなんだったのか?についてまとめていきたい。
明治42年(1909)から大正7年(1918)まで書かれた「八枝神社日記」によれば、明治42年ドロインキョという文字はないが「隠居輿」という名でドロインキョを行う神輿のことが記述されていることが確認できる。
現在ドロインキョは7月の第3日曜日に行われている。以前は7月7日に祭りの準備、お仮屋(提灯の点灯・お囃子の演奏)を行い、7月14日に祭りが行われていた。旧暦の頃は6月14日を祭りの日としていた。
この旧暦の6月は水神を祀る月とされ、とりわけ6月15日は水神祭や川まつりが行われるのが一般的なため、ドロインキョは水神と関係があるとする説は、ここから出てきたものであろう。
こうした6月15日に行われている水神祭りについて、大島建彦(1959)は、このような指摘をされている。
天王信仰とは牛頭天王のことである。神仏分離令以降は、スサノオ信仰へとかわる。つまりそれは「荒神信仰」を意味する。
中部圏以東の天王信仰の根拠地となっている、愛知県津島市の津島天王社では、6月15日を中心に盛大な祭りを催した。この祭りは「御葭流しの神事」と「車楽船の川祭」の二つの要素から成立している。
御葭流しの神事は、葭 数千本を束ね、これに疫神を託して川に流す。これが流れ寄るところには疫病が起こるといわれ、神葭が漂着した場所では、直ちに着岸祭を営み、川端の村ではかがり火を焚き、花火をあげる。
車楽船の川祭は「岸和田だんじり」の川版だと思っていただければイメージがしやすいだろう。
実は、近年のドロインキョの記録にはないのだが、古くは隔年、ドロインキョとは別に「カワマツリ」と呼ばれる祭りごとが行われていたことが分かっている。
しかし、その詳細は現在残されていないのだが、花火をあげていたことだけはわかっている。この花火という要素だけで、これが御葭流しの神事と断定するにはいささか乱暴であるため、他地域に川祭の要素をもった祭りがないかと調べてみると、同県秩父郡横瀬町の津島講は天王祭の川祭りを引き継いでいるものだということがわかった。
この横瀬町は「テンノウサマをしたのに、疫病が流行って獅子頭を捨てた」という逸話が残されている五明地区と、直線距離にして19kmしか離れていない。五明地区のルスイジンの説話と横瀬地区の川祭りが、平方地区に伝播されていった可能性は大いにある。
では、現在行われているドロインキョのなかに、車楽船の川祭の要素はあるだろうか?冒頭に述べた一節に
これなどは断片的に残されたカワマツリではなかろうか?
以上の事から、
どろいんきょ祭り:祇園会(荒神祭)
カワマツリ:御葭流しの神事・車楽船の川祭
こう仮定することができるのではないか。すると、ある疑問を解消する見通しがたつ。それは、現在行われているドロインキョ巡行のなかでおこなわれている、荒川に隠居神輿を入水させるという行為についてである。
これは、泥だらけになったインキョ神輿を逆さまの向きに担ぎ、周りからの静止を振り切って、荒川へと投げ込むという行為である。神輿の巡業は、先に進んだら後戻りはできない。しかし、逆さにすることで「これは正式な巡行ではない」ということを示し、元の経路に戻ることができるとしているのだが、じつは、田中(1976)・埼玉県立歴史資料館 研究紀要 (12)(1990)の中に、インキョ神輿を荒川に入水させる。ということについて、一言も触れられていないのである。これほどにインパクトのあることに、一言も触れられないのはいささか違和感がある。その理由を考えてみると
・1976-1990の期間において、インキョ神輿を荒川に入水するという行為、そのものが行われていなかった。
・カワマツリの要素を引き継ぐ別の祭事があり、そこで荒川に関することが行われていた。
ざっと調べてみただけではあるが、後者に該当するような祭礼を見つけることはできなかった。では、前者はどうかというと、祭りの最中に気分が高揚し、勢い余って荒川へ入水、それが恒例行事となった。と、という可能性は大いにある。
その逆に、古い記録にはあるが、現在の記録にはないものというものもある。田中(1976)・研究紀要(1990)のなかには
とある。が、上尾文化遺産ガイドの普及篇映像(2014)のなかには、そういった行為が行われていることは確認できない。
サキバライの神輿には、狛狗大神の獅子頭が載せられている。この獅子頭は先にも述べたように、千座護摩により悪疫退散の霊験を取り戻した獅子頭である。その獅子頭と、まるで争うかのようにぶつかり合うインキョ神輿とはいったい何なのか?
これ以降は大胆な仮説であるため、あくまでも、わたしの戯言だと思って読んでいただければ幸いなのだが、八枝神社には、元々は二つの獅子頭があったのではないだろうか?というのも、ルスイジシをもつ多くの地区では、ムラ廻り用のシシと2対セットで所有していることが多いからである。2対の獅子頭を持つに至った理由を、いずれも「どんなに暴れても壊れないように、後日ケヤキ製の丈夫な獅子頭をムラ廻り専用に入手した」と説明している。
この発言で、暴れるのはムラ廻り用の獅子頭だと思いがちだが、現実は逆で、暴れるのはルスイジシのほうである。これは、ルスイジシは牛頭天王・スサノオとし、この神仏の特徴である「荒ぶる神」としての性質を表現するためだといわれる。名は体を表すではないが、荒神は暴れるほどに喜ぶと考えられている。
つまり、暴れに暴れるインキョ神輿というのは、元々はルスイジシであって、荒神なのだといえよう。そしてルスイジシは、元をただせば上流の村落の疫神を依り代に入れて流したもの。この場合の依り代は獅子頭になる。
八枝神社の上流は玉敷神社である。そこで借り受けされている獅子頭の名前の通称は「御隠居」である。が、インキョ神輿に獅子頭は載せられてはいない。おそらくだが、この御隠居と呼ばれていたルスイジシは、関東大震災で破損してしまった。もしくは、それ以前に破損してしまっていたのではないか?
祭りを再開させる際、小ぶりの神輿に作り替えたのもそういうことで、本来は、ルスイジシを入れるためにサキバライの神輿と同等のサイズだったのだが、ルスイジシが修復できないほどの損傷を受けてしまったor同等サイズにこだわる理由がわからなかった。かつ、荒神神輿であることから、暴れさせるための軽量化、小型化、物理的な損傷の修繕等がしやすいように、現在の白木作りの神輿になったのではなかろうか?
では、なぜドロをつけるのか?まさにこのドロこそが、疫病の象徴的存在。なのではなかろうか?
この図は、荒川が氾濫した際の上尾市のハザードマップである。祭りが行われるようになった頃の治水レベルの詳細がわからないのだが、現在でもひとたび氾濫するかなり広範に影響が出ることが想定される。
つまり、あのドロいうのは、河川氾濫によってもたらされた土砂そのものを表しているのではなかろうか?
現代でも、集中豪雨や河川氾濫等の災害にあった際などの復興作業中に言われることは「素手で汚染物を触らない」ということである。
水害が起きると、河川から運ばれたドロによる感染症リスクが高まる。
先にも上げた飢饉の話にもどるのだが、大規模な飢饉によって餓死者が増えると、その遺体の腐敗によって感染症が増加することを感覚的に知っており、亡骸の埋葬地を村落とは別の場所。埋葬専用の共同墓地のようなものを設定し、埋葬地としての墓、参拝用の墓というのを別々に設定していたことがわかっている。
つまり、疫神としてのインキョ神輿に、疫病の原因となる泥をまとわせ、狛狗大神の獅子頭と争わせることによって、疫病を倒すという意味があったのではないかと考えられる。
しかし、現在、二つの神輿が争うということはされていない(されているのであれば、謹んで訂正させていただきたい)というのは、おそらく、サキバライ獅子の修繕費という金銭的な問題によるものではないかと、下世話な推測をしてしまう。
カワマツリがなくなってしまった理由は、おそらく、どろいんきょ祭りを行ったのにもかかわらず、疫病が流行した際に追加で行われていた悪疫払いだったのではなかろうか?
どろいんきょ祭りを敢行するにあたっては、以前は上尾市の4地区すべての合意が必要だったといわれている。現在疫病の兆しがあるのか、ないのか。どろいんきょ祭りよりも、カワマツリをしたほうがいいのか、どうなのか。しかしこれも、関東大震災以降の長期の休眠期間によって、それを行う理由が失念され、再開するにあたって祭りとして盛り上がるどろいんきょ祭りだけが復活したのではないだろうか?
しかし、幸か不幸か、サキバライの神輿とインキョ神輿が競い合うことがなくなり、退治されない疫神がインキョ神輿には存在されたままの状態になっていたのだが、神輿を逆さまにすることを「正式な巡行ではない」としていたが、私の目には「これからカワマツリを敢行する」というふうに写ってしかたがない。なぜなら、荒川に入水することで、インキョ神輿に付帯した疫神は御葭流しされていくのだから。
どろいんきょ祭りは、関東大震災という災害によって一時は途絶えてしまったために、同時に行われていた祭礼ごと、また、その本質的な意味が薄れてしまったかのように見えるが、今現在の形式の要素を一つ一つ丁寧に観察してみると、祇園会・御葭流しの神事・車楽船の川祭 これらの大事な要素を濃縮し一つにまとめ上げたものだということが分かった。
そして、埼玉県内に類型の獅子頭、思想があったという事も忘れてはいけない大事なことである。疫病とどう向き合っていたのか、大切な埼玉の歴史として未来永劫続いていくことを願い、このような素敵な祭礼を教えていただき、これを書くにあたって祭りの詳細を教えていただいた知人、ここまで読んでいただいたすべての方に深く感謝の気持ちを申し上げ、雑考を終了させていただきたいとおもう。
参考文献
平方のどろいんきょ公式 X(旧Twitter)
上尾文化遺産ガイド
上尾市教育委員会
加須インターネット博物館
宮代町立図書館 宮代町デジタル郷土資料
八枝神社公式ホームページ
玉敷神社公式ホームページ
田中 正明 「武州八枝神社の御獅子の巡行とドロインキョ 」(1976)
大島建彦 「御霊信仰と水神信仰」 (1959)
荒川 : 荒川総合調査報告書 4 (人文 3)
埼玉県立歴史資料館 研究紀要(12)
蟹江町史 本編