極私的散歩ダイジェスト 【巣鴨~板橋】
世の中がコロナになるすこし前、高校の同級生が近所に遊びに来て、いい歳をした男二人で平日の昼間から散歩したことがある。
今回は、その記録。個人的に何となく思い出しながら何となく書きます。だから有用な情報とかエモい感動など別にないと思います、すいませんごめんなさい。個人的な文章の練習とかリハビリ、あるいは習慣化の為の記事ですね。何かもっと気楽にnoteも更新していいんじゃないかと思ったわけで。さあ、だから気楽にダラダラ書くぞ。書きます。 あとこれもとくに書く意味がないけど、現在の自分は板橋の仲宿商店街のチェーン喫茶でモーニングを食べ終えた所ですね。ツナメルトサンド。メルトが付くとグッと魅力的になる不思議。
……いや、やっぱり平日の昼間からそんな事して無為に過ごしている納税率の低い男が綴るダラダラした文章に全く興味ないし日経新聞の電子版でも読むかソシャゲでもするわ……って人が恐らく半数以上を占めるであろう、そんな味気のない世の中だね? でも言いたい事も言えないうちに言いたいこともなくなっていく……それってポイズンだよねって、あの頃の反町は歌ってたね……そんな思いを抱きながらも同調圧力でやっぱり息苦しい、それが日本社会? 納税率が低いから? しかしそんな事を気にしていたら文章綴ったりもできないので、さて本旨に戻ります。
¥ ¥
平日の昼間、ふいに遊びに来た友達——ここでは仮にMとでも呼称する——は自営業をしていて、普段はずっと忙しそうにしている。しかしその日は何かズル休み的な感じで唐突にやって来たのだと思う。そのときは自分も会社勤めをしていたはずだけど、やっぱり何かズル休みとか代休とかで家でダラダラして暇だった。そんなふうに記憶している。まあとにかく仕事、とくに会社なんてサボれるときにはサボるに限ります。これは真理です。
とりあえず巣鴨の大仏の前で待ち合わせた。巣鴨と言えばとげ抜き地蔵が有名だけど、あの辺はいつも混んでるし、テレビ局のスタッフが道行く老人たちにやたら街頭インタビューしてたり、まあとにかく騒がしくて人が多い。一方こっちの方はそこまで混んでいない。でも意外とダイナミックなヴィジュアルで迫力もあり、それでいて慈愛に満ちているような有り難い佇まい。さぞや御利益もありそうですなあ……といつも思ってた。その大仏の前で待ち合わせ、そしてお参り。
じつは数年前からMはやたら信心深い……というか、あからさまにスピリチュアルに傾いており、だから大仏を参拝する姿勢もやたらピシッとして、それを横で見ていると妙に気恥ずかしくて落ち着かなかった。別の機会に神社に参拝したときも二礼二拍手一礼、その柏手がやたらとデカく大仰で、そしてお辞儀の姿勢はこれまた異様にビシッと角度がついていた。横にいた自分はやっぱり落ち着かない気分になった。他人のそういう姿を見ると、とにかく何だか恥ずかしい。だから自分が拝礼するときは殊更ぎこちなく、不自然な所作になったりする。それもどうかと自分でも思うけれど。
と、こんなふうに大仏参拝した後、しばらく地蔵通りを練り歩き、商店街に立ち並ぶ巣鴨の三大塩大福について偉そうに解説したり、中山道の歴史についても語った。そうした知識の大体は自分の彼女からの受け売りなのだが、Mは素直に感心している様子だった。
(コロナ禍を経て、現在では三大塩大福のうち一件が閉店。それに関連して、以前ヘンな探偵小説も書いた)
とげ抜き地蔵で有名な高岩寺の横の路地を抜け、青果市場の近くにある小さな食堂に入った。時間は昼すこし前だったかと思われるが、店の奥にあるカウンターとカウンターの前にあるソファ席みたいな所には酔っ払いのオッサンがダマになっていた。ここはどうやら女の人が一人でやっていて、朝から酒を飲ませるヘンな食堂というコンセプトというかスタイルの店らしい。以前からちょっと気になっていた所だった。
そこで自分たちはビールやハイボールにチューハイなどをひとしきり飲み、たしかシャケのハラス焼きとか軽い物を適当につまんだのだと思う。昼から結構しっかりと酔った。女主人や店の雰囲気はごく気さくで、主な客層は近くの市場で働く人たちのようだった。「どうだ? 平日の昼間から飲むのは最高だろう?」なんて自分はそこでMにまた偉そうに語った……ような気がする。酔っていたので、あまり覚えていない。しかし多分だが会計はほとんどMが持ったのだと思う。ここ数年、どうやら景気が良いらしい。
店を出て、またすこし歩き、次は食券制のそば屋に入った。それなりに酒を飲み、つまみも食べていたわけで「かけ蕎麦でも軽くたぐっていこう」くらいの気持ちだった。いわゆる路麺店、しかしチェーン系ではなくインディペンデント系で、以前から知っている店だったのだが、しばらく振りに来てみると丼系のセットメニューがやたら増えていた。そうなると食い意地というか経験値至上主義である自分としてはそれが気になって仕方がなく、結局そのセットを注文。Mもそれに追従した。
「すごいボリュームだ……」
「ああ。おれはやっとここまできた」
ようやくソバを啜り終わり、セットの天丼を半分まで食べ進めた所で思わず自分がつぶやくと、Mもそれに同意する。眉間に深く皺が寄っていた。いかにも苦しそうだ。
「——やっぱり量多いかしらね?」
自分たちのやり取りに反応して、カウンターの中にいた中年女性が声をかけてきた。
彼女が言うには、こうしたセットのボリュームが多くて怒り出す客もいるらしい。なんじゃそりゃ。ここの店長は確か、如何にもこだわりが強そうな職人らしいおじさんで、このとき話しかけてきた恰幅の良い彼女は多分パートさんだろうと思われる。しかしとにかく「客商売何でも来いや!」みたいな無敵の接客オーラが全身から放たれ、それから「食べるの大好き……♡」という雰囲気も濃厚で、きっと彼女の独自裁量によってセットメニューがやたらに増え、さらに盛り付け量もどんどん増加しているのだろうな……と勝手に予想した。とにかく腹一杯。そして蕎麦も丼もちゃんと美味い。流石だ。しかし腹一杯。はち切れそう。
ふくれきった腹を抱えるようにそば屋から転がり出て、何とか歩を進めるが、すぐに限界……苦しい……と二人してなった所で丁度カフェに辿り着く。交差点の辻にある、スタンド形式の喫茶店。ここは半セルフ形式で値段が安い。それでアイスコーヒーのLサイズを頼むと、異様にデカいのが来たりする。以前一緒に来た彼女がLを注文して、その余りの大きさに驚いて「……大きい」と思わず呟くと、カウンターの向こうにいたマスターらしき長身の壮年男性が「……ええ。これは格別大きいのですよ」と言ってニタリ……と微笑んだ。そういうお得なカフェ。しかし今回は腹一杯なので、Mはごく普通にブレンドのMサイズ、自分は優雅に紅茶を注文した。紅茶はポットサービスだった。お得だ。
「どうだ? ここは何ていうか、ゴッホだろう」おれはまたMに講釈を垂れる。「……言われてみれば、たしかにそうかもしれない」また眉間に皺を寄せながら、Mはズズっと珈琲をすすった。
さっきも書いたけれど、このカフェは大きい道路が二つ交わる辻にあり、目の前の道路は車が結構ひっきりなしにビュンビュン通るのだが店先の空間が妙に開けていて、そこにオープン席がある。夜に通りかかると、その辺りがぼんやりオレンジ色の照明で照らされていて、何というかゴッホのカフェテラス感がある。だから自分はこの店はゴッホだ」とよく人に説明しているわけで、Mにもそれを力説した。
「なるほど、たしかに……何て言うか、絵画的? ……時間の流れ方が……とにかく、こうやってゆったりとした時間と空間……ああ、最近のおれは」
「……おい、どうした?」
自分たちはゴッホぽいオープンカフェのテーブル席に座り、目の前の歩道を行き交う人々、その向こうの道路を走るバスや一般車両に何となく視線を向けていた。道路を挟んで向かい側には安いが売りのスーパーマーケットがあり、店先にはキャベツや玉葱が雑然と詰まれていて、買い物にきた主婦などで賑わっている。そんな風景を眺めているうち、Mは急速に内省モードに入ったらしく、しきりと何か感じ入っている様子だった。頭がおかしくなったのかと思った。
「……つまり、やっぱり先生と過ごす時間は、いまのおれにとってひどく重要だって事かな」
「ふん、そうか。まあそうだろうさ」
Mは高校時代から、自分の事を「先生」と呼んでくる。如何にもからかわれているようで最初こそ落ち着かなかったが、長年のうちにそれが馴染んだというか、現在ではごく自然で当たり前のように「なるほど、こいつにとっておれは事実『先生』なのだろう。きっと何かしら優れて、偉いのだな」とそんな自覚も出てきて、こちらも先生然と振る舞うようになっていた。
「最近は無駄に悩んで、何か息苦しくってな」
「その悩みはだな……」
だからそのときの自分も先生としてMの抱える悩みの本質に深く切り込んでやろうとした。さっきそば屋を出たくらいから急に天気が悪くなり、そろそろ日も落ちつつあった。いつの間にか辺りは薄暗い。Mの眉間には皺が深く刻まれて、そこが一際暗くなっているように見えた。何か黒くて悪いものが、Mの眉間を中心に黒く溜まっているようにも思われた。そこで自分は霊能力者よろしく、その眉間の暗黒目がけて聖なる気を送るような心つもりで語りかける。
「つまり要するに、女だろう。まず、その女と手を切ればいいんだ。どう考えても性質が悪い」
「……まあ、それも確かにそうなんだが、しかし」
と見事に核心を射抜かれたMは急に口ごもる。Mは既婚で、子供もまだ小さい。しかし仕事関係で知り合ったという絵に描いたようなメンヘラ年上女性とグズグズした不倫関係に陥っているらしかった。グズグズで熟熟の不倫関係……すこしだけ、羨ましいような気もしていた。つまり人生における経験値として、不倫をしている心境だったり状況を味わってみたいような気はした。しかしまずは婚姻関係を結ばない事には不倫も不貞も不可能なわけで、いつまでも自堕落で進歩発展に乏しい自分とは違って人生の階段を着実に上り、さらにはお約束のような踏み外し方までしそうになっている、いま目の前にいる高校時代の同級生。このMという男に対する自分の感情には、あるいは嫉妬も含まれているのではないか。そんな気もしていた。
「だから女と手を切れ」
「いや、まあいまはそんなに会ってもいないが」
「とにかく良くはない」
「良くはないのは分かっているが」
この「良くない」というのは社会的良識や倫理的な観点、また自分の嫉妬感情からしてもそうなのではあるが、ここで自分が言わんとしているのは主として迷信的且つ根本的魂的な……云うなればスピリチュアルな縁起話であった。何でも、その不倫相手の前世は本所深川辺りのお女郎であり、そしてM自身は岡っ引きか同心で……と、そんな突飛な魂の物語設定を、この頃のMは殆ど確信している様子だった。
「仮にその設定を信じるにしても、結局はそのお女郎がお前を愛欲とか情死とか……とにかく破綻方面に持っていくんだろう?」
「まあそうだな」
「じゃあやっぱり、どうしたって良くはないだろ」
「たしかにそうだ」
「よし、じゃあ手を切れ」
「しかし」
そんなにそのお女郎がいいのかよと、ゴッホ的なカフェを出て旧中山道を北に向かい歩きながら、自分は呆れてみせる。「可哀想たぁ、惚れたって事よ」とか本人は粋でいなせなつもりだが、やはり基本的には野暮ったそうなMの前世である同心だか岡っ引きの姿が頭に浮かんだ。とにかくその不倫関係で愛欲にまみれてからのMはあからさまに様子がおかしいというか眉間の皺が深く、やはりそこに黒く呪いのようなものが滞っているのだろう。これは宜しくない。Mにとって立派な先生である自分としては、これを何とか救済してやらなくてはならない。そう思っていた。
「ところで」
「何だ?」
ある店に通りかかった所で、おれは話題の切り口をシフトさせた。
「この店は元々は看板通りに仕出しの寿司屋だが、いまは紆余曲折あって、お持ち帰りのオムライスを売っている」
「へえ」
「すこし前に寿司職人の旦那さんが亡くなって、いまは残された奥さんが、ずっとオムライスを売っている。寿司はない。オムライスはなかなか美味しいから、おれはよく買う。そしてこの店のおばさんは、声優の野沢雅子に何となく似ている。すごく元気がいい。だからおれはこの店を『オムライス雅子』と密かに呼んでいるのだ」
「そうなのか」
「ああ、そうなんだ。……何かこう、感じるものはないか?」
「え、何が?」
自分としては、ここで長年連れ添った夫婦者の尊さ切なさ、積み重なった人生の何たるか……この店の存在や佇まいを通して、とにかくそんなような事を尤もらしく講釈してやろうと思った。しかしただ漫然と隣を歩いているMはそんな事を微塵も感じ取らず、また自分としても結局上手く説明できないような気もしてきて「ああ、まあ何となく色々な……」とか適当に口ごもり、その話題は終わった。
残念ながら、その日はオムライス雅子の定休日でシャッターが閉まっていた。そこで実際に「オッス! オラ、オムライス」というような界王拳並のオーラが漂っている雅子から元気玉みたいなオムライスを買い求めて土産にでも持たせてやれば、ただそれだけでMの眉間に溜まる黒呪は雲散霧消して厄介な因縁からも解き放たれる……かもしれなかったのだが。
宵闇迫る旧中山道をさらに歩き、JR板橋駅近くの飲み屋通りまでやって来た。ここには自分の行きつけの居酒屋があった。店は狭く、混んでいる事も多いのだが、その日はすんなりと入る事が出来た。暖簾を潜ると、自分の顔を見た老店主が「お、今日は奥さんとやないんか?」と訊いてくる。この店にも以前から彼女とよく来ていた。「いやあ、今日は友達と」曖昧に応えて席に着く。彼女とはいつも一緒で、実質ほぼ同居していたのだが、現実に籍を入れていたわけでもない。その辺の事情を説明するのが面倒で、何となくそのまま「奥さん」と「旦那さん」という事で通していた。
「……ここも何だか面白い店だな」
「そうだろう」
「さすが先生だ」
「そうだ。先生だからな」
その辺の壁にベタベタと貼られた独自色の強いメニューを眺めて、Mが感心している。その雑多なメニューの中から「飲めば分かる」という如何にもよく分からない名前の飲み物を注文すると、それは要するに氷彩サワーとビールを半々で割ったものなのだが、店主のおじさんは初めてのMの為に「これなあ、風呂上がりにでも飲んだらな、クーいうて一気に飲み干せる。これホンマ、飲めば分かるで」いちいち説明してくれる。その解説はこれまで何度も聞いているのだが、関西弁のテンポや語り口が面白くて、自分としては中々飽きないのだった。
「じゃあ次はお前『赤と黒のブルース』にしろよ」
「何だ、それは」
「それも飲めば分かる……いや、分からないかも」
実際に出てきたのは丸いグラスに入った名前の通り赤黒い液体で、それを一口飲んだMが「ん、何だこれ? ……濃いな」と言った。その様子を見ていたおじさんは「でも飲みやすいやろ? そやから飲み過ぎて危ない」と楽しそうに言って、酒豪で鳴らした常連客たちがこれに次々やられて店先でもんどり打って倒れたり、店の狭い便所で転げて便器を破壊したエピソードなどを披露する。ボロくて小さいこの店と、関東圏ではあまり耳にする事がない天然の泥臭さが漂う老店主の河内弁を聞いていると、まるで戦後すぐの闇市の片隅の酒場で危険なメチルアルコールを飲まされているような気分にもなるのだが、実際はまたオリジナルブレンドで、中身は普通の赤ワインと黒霧島なのだった。
「うん、たしかに飲みやすい。でも濃い」
「そうだろう」
「次は先生もこれいけよ」
「じゃあそうするか」
「はいよ、串カツセットお待ち」
中央にあるカウンターの中から、揚げたての串カツの盛り合わせが出てくる。値段のわりに量が多く、そして美味い。「いい店だな」とMが言い「いい店だろう」と自分が返す。先生である自分は、やはりいい店を知っているなと自分で思う。そうして飲んでいるうちに、またすっかり酔いが進んだ。やはり酒が濃い。赤と黒のブルースは一杯で止めておいたが、おばさんが「はい、ちょっとサービス」と作ってくれる他のサワーやホッピーのセットも焼酎の割合がいつも異様に高くて、とにかく酔う。いつも酔っているせいで余計にいい店だなといつも思うのかもしれないが、やっぱりいい店だなと自分は毎回思う。そういうトートロジーにも陥る店だった。
「もしかすると、おれが悪いのかもしれない」
「何がだ」
「いや前世で」
ひとしきり酔って、そこでMの前世話を蒸し返す自分。考えてみれば自分はこの現世において先生なわけだから、きっと前世においてもMにとってそういった立場だったと予想される。江戸時代におけるMが同心とか岡っ引きだと言うのなら、自分はきっと与力または奉行といった上役の立場には違いないだろうし、事によったら直接Mに指示を出して調査だか密偵をさせていたのかもしれない。 なので「おう、Mの字。オメエよお、ちょっくら深川の女郎連中の所に潜って、あらまし調べてこい」とか命じたのは前世における自分であり、それを切っ掛けにMがお女郎と深い仲になり、そうした因縁により今世のMは不貞行為を働いている。つまり因果の元は自分という事になるのではないか。恐ろしい事である。
そんな真実に思い当たり、ともかく自分はMに詫びた。「すまぬ」「何がだ?」Mは不審がる。分かっていない。こいつは魂と因果の連続性を何も分かっていない。「とにかくすまん」「だから何が?」魂の先生であり上役でもあった自分の何らかの不指導や不首尾によって、こいつは今世このような無明にいるのだ。「まことにすまん」そうとしか思えない。詫びずにはいられない。「すまねえ、許してくれ」こいつの奥さん、まだ幼い子供にも悪い。「本当にすまん」自分が代わりに頭を下げるべきだとも思った。
「……それに、幻覚も見るんだ」
「前世のビジョンとか、そういうの?」
「いや、それとはまた別の話だ」
「とにかく話が怪しくなるな」
「じつは最近、統合が失調しているのかもしれない。自覚がある」
「そうなのか」
「ああ、明らかにおかしい。見えるんだ」
それでいて実際に何が見えるのか、Mは決して言わなかった。幻覚が見えるというのはどういう事か。自分も夢うつつだったり、かつて経験した極端な状況下において、それらしいものを見たような記憶はある。しかしそれは常に後から思い出す曖昧にぼやけた記憶映像であって、たとえばリアルタイムで即認識される通常の視覚映像と同じようなものでは決してない。幻覚や幽霊といった類いのものは大体そういうものではないか。「あれは……○○だった/だったのかも」と認識は遅れてやってくる。意味は後から付与される。自分としてはそういう認識でいる。だからハッキリと「見える」「見えた」と名言する人間に出会すとまず驚き、そして好奇心から出来る限り詳しくその感覚を聞き出そうと本人の説明をしつこく求めるのが自分の常である。
「何が見えた? どう見えた? いつ見えた?」
「うん、まあそれは」
まさか高校時代から付き合いのある人間がそうやって「見える」「見えた」と言い出すとは思っていなかったので余分に驚き、ここぞとばかりに自分は質問攻めにする。しかしMは具体的には答えない。実際に何が、どのように、いつ見えるのか。そういう核心を決して言わない。しかし「おれはおかしくなっている。自分で分かる。とにかく見えるんだよ」そんな曖昧な事を繰り返し主張する。自分はひたすらに焦れったく、いたずらに濃い酒をどんどん飲む。そうして際限なく酔ってきて、そのうち自分が何を言っているのか分からなくなる。でもやっぱり自分は先生であるし深川辺りを縄張りとする与力か奉行でもあるので、何とかその「見えたもの」を暴き出し、そして「見える」という感覚をつまびらかにしてMの統合を復調させねばならない……そんな義務感や使命感があったのだが「見える。そしておれはおかしい」とだけ繰り返すMの眉間に刻まれた苦悩の深い皺——そこに滞る闇のような呪いを見つめていると、自分自身そこに引き込まれていくような感覚もあった。段々と、そうしたものが自分にもまた「見える」あるいは「聞こえる」ような気がしてきた。しかしそこにまた抗うべく、さらに支離滅裂に自分は話し続け酒を飲み続けた。
「おれの彼女は……ハナコってほら、実際はスマホのアプリで実在してるのかも曖昧で」呂律の回らぬ口で説明して、そこから何か重要な要素を抽出、それを援用してMの眉間の闇の本質を看破しようとしてみるのだが、結局自分でも何を言いたいのか益々分からなくなる。そういうわけで「見える……」というMの主張は結局最後まで揺るがず、何が実際どう見えるのか、その真相も不明なまま終わったのだった。
【件名:今日のツアー 本文:すげえ楽しかった。やっぱ先生の言う事は参考になるな! ありがとう!】
すぐ近くの板橋駅の改札でMを見送った後、こんなメールが来ていた。自分はすっかりベロベロに酔っていたのだが、どうにも気分が落ち着かず、すこし駅から離れたバーに入って一人で飲み直していた。Mが言うことは結局よく分からなかったし、自分が何を話したのかもよく覚えていない。すべては曖昧だ。しかしMはこうして馬鹿丁寧に礼のメールを送ってくる。一体、何が参考になったというのだろうか。そう考えると、いまさらだが本気でMの事が心配になってきて「お前、大丈夫か? 本当に辛かったりおかしいと思うなら、そういう医者にかかってみるとか」などと常識的に普通に心配するような返信をした。すると間を置かずに「いや、大丈夫だ。先生のおかげで色々と……」というようなメールがまた返ってくる。
果たして本当に大丈夫なのだろうかと結構本気で心配しながら、先生である自分は旧中山道を千鳥足で歩いて帰った。
¥ ¥
そして現在に話が戻る。自分は身体を壊して今年の夏前に会社を辞めた。だから最近は平日の昼間から喫茶店でウダウダしたり、週に一回は板橋の温泉サウナに通い、たまには酒を飲みにも行く。どうやらコロナも落ち着いてきた。しかし自分は落ち着かず、とにかく相変わらず平日の昼間からその辺をブラブラと、何とも過酷な療養生活を送っている。
それでこないだ、Mにも久しぶりに会った。
あれだけ深かった眉間の皺も消えて、何だか憑き物が落ちたような、小ざっぱりとした表情をしていた。「深川の女郎はどうした。オメエの統合はもう回復したのか」と聞くと「何の話だ?」と、そんな事は何もなかったとでも言いたげに、逆にこちらを心配してくる。そして仕事の方は相変わらず順調らしく、定期収入の途絶えている自分に小遣い稼ぎの仕事を恵んでくれた。ブログの代筆。もちろん在宅で結構適当にやっているが、その割にギャラはいい。良過ぎるようにも思う。Mがかなり太っ腹に払ってくれている。その金を使って自分はまた平日の昼間からブラブラしているのだった。
「先生、次のブログのテーマは」
「悪い、ちょっと今週分アップするの遅れそう」
「お、そうか。全然構わないぞ」
「うん」
「しかし金の方は、とりあえず振り込んでおく」
「そうか。すまねえな、Mの字」
相変わらず先生と呼ばれているのだが現実にギャランティも支払われているわけで、いわば向こうが顧客だ。なので油断すると、つい腰が低くなったり卑屈な態度になったりしそうにもなる。しかしそれをグッとこらえて、やはり自分はあくまで偉い先生のように振るまっている。これも中々辛い。そして来年度の納税率は限りなく低くなるだろう。しかし自分は先生である。色々と堪えねばならない。
というわけで、一先ずは小遣い稼ぎも成り立っており、いま別に衣食住に困窮してはいないのだが、毎月の収支としたら確実にマイナスである。やがては貯金も社会保障も絶える事は明白で、やはりどうにかする必要はある。
そこで自分としては「レンタル散歩先生」というサービスを開始しようと思います。時給は都内の最低賃金くらい。飲食などの諸経費は別途。
基本的には巣鴨とか板橋とか、自分=先生のテリトリー内で落ち合い(できたら平日の昼間。どこも週末は混んでる)、何となく散歩しながら人生のアドバイス的な事を口走ったり、あるいは何も言えずただ話を聞いて下を向いて曖昧に笑ったりと、そういう事をします。
自分の人生の先行きが不明な迷える偉い先生の人柄にふれて余計に不安になったり、あるいは逆に前向きになったりするかもしれません。ご依頼は、この記事のコメント欄またはTwitterの方まで。本当にこれで依頼が来たら、まず自分は吃驚して戸惑います。
おわり
お読みいただき、ありがとうございます。他にも色々書いてます。スキやフォローにコメント、課金に拡散、すべて歓迎。よろしく哀愁お願いします。