レディ・プレイヤー1を観てきた (ネタバレ微少)
昨日の夜、新宿のTOHOシネマズで観てきた。メガネの上にメガネかけて3D上映。字幕版。映画館の場所は歌舞伎町の真ん中、コマ劇場の跡地だった。ゴジラのところ。初めて入った。
いまから感想を備忘録代わりにさらっと書いていく。一応ネタバレなど避けるつもりだけど、細かいところでしてたらすいません。他の人のnoteとかTwitter、SNSでの感想・考察もまだほとんど見ていない。拾いきれなかった細かい元ネタとか「ここにあのキャラが」とか気になるので、そのうち検索すると思う。でも、とりあえず観てきた感想そのまま書く。
ただ事前に『シャイニング』だけは観ておいた方がいいよ、と言われていたので10年ぶりくらいに鑑賞した。
結果的にはやはり「観ておいた方がいい」と思った。観なくてもまあ大丈夫。でも『シャイニング』がどんな作品なのか知ってたら、さらに楽しめる。普通に面白いキューブリック作品だし、この機会に触れておいて損はない。ただ自分はAmazonプライムで通常版を再生したけど、どうも特別編がいいらしい。そこはちょっと残念。
印象に残ったシーンなど
序盤で「好きなFPSは?」という質問に主人公が「ゴールデンアイ。キャラはオッドジョブ、チョップ縛りのデスマッチで……」と即答するシーン、そこで急激に興奮した。
自分も64のゴールデンアイを友達4人で死ぬほどやって、対戦では同じキャラを使っていた。オッドジョブは東洋人で背が低いから攻撃が当たりにくいのだ。それで「ズルい」とよく非難されるものだから、男の科学者を使うこともあった。科学者はダメージを食らうと白衣が血に染まってスプラッタ風味になる。工場のステージでカラシニコフを乱射したり、リモコン爆弾を人に貼り付けたり……そんな楽しい思い出の数々が残っている。
あくまでゲームの思い出なんだけど、実際にそれを体験して、さらに友達と共有しているわけだから、例えば野球部である試合の思い出(そんな体験は自分にはないが)を当時のレギュラーで語り合うというのとあまり変わらない。「お前さ、あんとき柱の陰からスナイパーでおれの頭をさあ……」みたいに、あの頃、榎木の部屋で『007 ゴールデンアイ』をやっていたメンバーなら同じ熱量で語りあえる。それとまあ『007』もいいんだけど、なんといっても初代の『スマッシュブラザーズ』ですね。これはもうコントローラーを何台もぶっ壊すくらいやり込んだ。3Dスティックの感触がこの手によみがえる……おれはマリオであいつがリンク、そこにカービィ、ファルコン……。
おっといけない。ニンテンドー64の思い出を語る記事ではなかった。
とにかく主人公が『ゴールデンアイ』と口にした瞬間から、彼に対して好感を覚えた。「お前、分かってるね」というような。そこから彼に強く感情移入。だって『ゴールデンアイ』だぜ。こいつも工場のトイレで待ち伏せとかしたんだろうな、っていう激しい共感が湧き上がる。そして、これは作中において主人公がヒロインにメロメロになる構図と一緒だ。「好きなFPS」という質問から勝手に展開して「好きな映画の台詞」を語りはじめる主人公。そこにヒロインが唱和する。
「え、これ知ってるんだ。……やばいぜ、この子。すごく分かってる。彼女とは通じ合える」みたいに完全にフォーリンラブ。ああ、オタク気質ですぐにやられちゃうボーイのチェリーハートよ。
・仮想現実では、嗜好と言動だけがその人を規定する
主人公が初対面のヒロインにそうしたように、そこにおいては「自分が好きなもの」を相手に語る行為が、より大きな意味を持つのだろう。それが自分自身の存在に直結するのだから。
仮想現実では、現実世界のキャリアも容姿も個人から切り離される。名前はただのアカウント、身体はアバターだから性別・年齢・容姿はなんとでもなる。そうすると真の意味での固有性を提示しようとしたときに、重要になるのは、その人の主体、中身である心とか精神。物事の判断基準や言動に自ずと表れる形のないものだ。それは趣味嗜好、その蓄積の具合とも言い換えられる。どんな情報を、どのように、どれくらいの熱量で選び取ってきたのか。その結果として、個人の主体が規定されている。
……と、このように書いていくと、精神や心というものをスピリチュアル的に「魂」という概念で捉えてみたくなる。そうすると、やっぱりこの前書いたサマーランド的な仮想現実観に辿り着く。サマーランドというのは、限りなく仮想現実に近いような死後の世界。天国、あるいは天国的な空間。そういう概念がスピリチュアルであるらしい。まあ考えてみると、天国って案外オタクとかニート向けなんだろうなって思う。ワーカホリックなビジネスパーソンとか、耐えられないんじゃないのか、天国に。でも死後のライフハックって、ちょっと面白いな。ポスト人生、魂の永遠のなかで、一体なにを効率化したらいいのだろう。いまふと思いついた。
ところで『レディ・プレイヤー1』における仮想現実「オアシス」だと、どうやら課金制度もあるようで、リアルマネーも大きく物を言わす。オアシスでの活動にも貧富の差がもろに影響する。まあその辺はリアル。今日の現実的。でも貧民街で暮らす主人公や仲間たちは、己の才覚とスキルでトップクラスにのし上がってるみたいだから、やっぱりリアルより夢のある世界なんだろう。ちなみに敵役は課金制度を担う企業のトップだ。
リアルなディストピア観は、数十年後の板橋もしくは北区に通じる
さて「オアシス」のオタク万歳世界も大変に面白いけど、作中の現実世界、ディストピア的な描写も好きだった。
20〜30年くらい先の未来には、日本だってこうなっているかもしれないと思えた。例えば板橋とか北区の辺り。これが足立区になると獰猛なイタチ憑きの男が日中からうろついているとか、『北斗の拳』みたいな荒涼した風景が思い浮かぶ。ちょっと違う種類のディストピア。やっぱり板橋、北区の辺りがちょうどよさそうに思う。
さて主人公が現実で暮らしているのは、剥き出しの鉄骨にコンテナを積み上げたみたいな集合住宅。ある意味で最新のタワーマンション。土地が限られてるから、どんどん立体的に積み重なっていくのだろう。そして実際に都内周辺、そうなってきてないか。あのマンション群がそのままスラム化したら、ほぼそのままあれじゃん。
作品の舞台は、大企業が台頭して現在よりさらに経済格差が固定化された社会。ほとんどの大衆は貧民街でその日暮らし。もちろん悲惨ではあるだろうが、スクリーンの前で眺めている分には、それでもどこか楽しそうにも見えてしまうのが不思議だ。人ごとだと割り切れるからだろうか。
すっかり老朽化したマンションのベランダで、各世帯一斉に七輪でサンマを焼いている夕方。オレンジの空に煙がもくもくと立ち上っていく。例えば、そんな情景はいいじゃないかと思う。誰も彼もがみんなそうやってるので苦情も出ない。ただし、たまにいい肉なんか焼いてると手が伸びてきてスティールされる。油断も隙もありゃしない乱雑アジア的コソ泥天国みたいな。しかしそれもお互い様で、ナンプラーと醤油の貸し借りしたり、各国漬物の奪い合い味比べとか。……あ、これは映画のシーンじゃなく個人的なイメージね。これから訪れるかもしれない貧民社会を希望的に捉えた。
ところで板橋で飲むのは楽しい。現時点で路上バーベキューやり放題みたいな無法地帯には別になっていないけど、所々そういう匂いはある。基本的にゴチャゴチャ小さい個人店が並んで、価格設定や雰囲気にも気取りがない。平日の夕方から、みんな実によく飲み歩いてる。駅前なんか毎日が縁日みたいだ。そして庶民的な神話、つまり民話的ストーリーがそこかしこにあふれてる。赤羽と違って、そんなに有名じゃない。そこがいい。まあ最近少しフューチャーされてきた感もあるけど。とにかくこの数年、そんな板橋にどっぷりマイブーム。そういうことも今後ここで書いていきたい。
と、長々とまた横道にそれた。映画の話に戻る。
プランターのなかの自然
話の中盤に差し掛かるくらいで、マンション屋上(それかベランダ)のささやかな家庭菜園が「生きていること」を感じさせるネイチャーとして機能していた。それには少し驚かされた。
他の映画だったら、例えばダイナミックな滝つぼに隠された洞窟。あるいは山の際にせり出した巨大な一枚岩、その蔭にある仲間の住処。そこでピンチを逃れた主人公がダメージを回復させ、その自然を前にして「生きている」ことを強く感じさせられる。そういう映画的な物語の機能するシーン。それが今作では、プランターの植物だよ。まるで貧民窟のエアポケット、オアシスめいた隠れ家になっているマンション。ピンチに陥った主人公は、そんな場所に匿われるわけです。
もはや森とか湖とか山であるとか、本物の自然環境に触れることも貧民には叶わないのかもしれない。そんな悲惨な現状だということだろうか。しかし人工的なほんの少しの緑であっても「自然」と安らぎを感じさせるそのシーンには、やはり楽しげな雰囲気が漂っていた。それが印象深い。
仮想現実を扱った映画における「リアル」について
この作品に限らず、仮想現実を扱ったものは多い。映画だけでなく小説、マンガにアニメを含めるとそれこそ膨大な量になる。みんなこのテーマ好きなわけだ。そして自分ももれなく大好きなわけですよ。むかしから。
そういうわけで今回の『レディ・プレイヤー1』である。それも「VR的に雰囲気出るから」と3D上映で。そこで改めて考えさせられたことがある。
それは作中における「仮想現実」に対する「リアル」の優位性についてだ。
その取り扱い方によって作品のメッセージ性だったりSF度合いだったりが規定される。もちろん作品によって設定など様々で、一概にこうとは本当は言えないだろう。しかし個別に例を挙げて細かく言及していくとキリがなさそうだし考えはじめた瞬間にややこしくて面倒臭くなってきたので、ここではしない。
とにかくざっくりと言って、その作品でどれだけ仮想現実が魅力的に描かれようとも、やはり「リアル」が基本的に優位なのだ。
これは間違いない。言わば当たり前のことだ。まずもって、その作品は現実世界において人々が鑑賞するためにプロダクトされている。だから結論としては「やはり現実が大事だ」というところに収まる。ただ、それを安易にやられてると観ていて大変に白ける。これはちょっと前までの映画やドラマなんかの映像作品に多いような。マーケティングの弊害だろうか。あとは小説だと地の文章でもっと理屈をこねくり回せるし、読み手も充分にひねくれていることが多い。だから定石外の結末も受容されたりするのかも。
とにかく主人公たちは「リアル」がどれだけ荒廃していようが、仮想現実での冒険や活躍を経て、結局は現実に回帰していく。そもそも物語の根本構造は「往きて復りし物語」。それが自然なのだ。たまに主人公が現実ではなく仮想現実、虚構、夢幻などを選択して終わることもあるけど、そこにはビターテイスト、バッドエンド臭が漂う。つまり「リアルの優位」なんじゃないかな。
そして今作『レディ・プレイヤー1』も、やはり「リアルの優位性」から決して外れないところで帰着する。まあこれはネタバレでもなんでもなく、必然的にそうなのだから、書いちゃっても問題ないかな。ないですよね。
しかし、である。ここ数年、その「リアルの優位性」が大きく揺らいでいる……とまではいわないまでも、最初の立ち位置、軸足のようなものに変化が見られてきたように思う。今回、改めてそれを感じた。だからこうして長々としつこく文章を書いているのです。すいません。
現実の揺らぎ、そしてラストの台詞について
例えばインターネットが普及する以前、仮想現実はもっとはっきりと仮想で、現実はあまり疑いようもなくリアルだった。
だから仮想現実に入れ込むスタンスには愚かしさだったり、どこか背徳的なものを感じさせた。そのような描写が、必ずといっていいほど含まれていたように思う。
しかし最近では、そうした「仮想現実」の暗黒面がどんどん薄れてきてはいないだろうか。「いやー、仮想世界ってリアルだね。たーのしー」っていうサーバルちゃんめいたのどかな肯定感。全体として、その割合が高くなっているように思う。無邪気な「いいね!」「スキ」「ひゃっほー」というトーンが、以前に比べ強くなってきている。まあ物語の帰着として現実世界に回帰するにしても。
やはり技術の進歩と、それにともなう現代人の意識の変化がそこに影響しているのかもしれない。先日「この世界が仮想現実であると証明された」という記事を書いたけど、まあそういうようなことによるものだろう。改めて説明が大変だから、よければリンクをクリック(マルチでも宗教でもないですよ!)してください。
映画のラスト直前。「オアシス」制作者であり、死後に意識がデータ化されゲームマスターのようになっている老人ハリデーが、はっきりと「現実の優位性」について言及していた。
「飯が美味い。そんなマジな現実がリアルで尊い。だから大切にしろ」
そんなようなことを(本当はもっと真摯な感じで)パーシヴァル(主人公のアバター)に語った後、老人は何処へ去っていく。
「なんだ、やっぱりその結論で終わるのね」と一瞬ちょっと落胆したのだが、後になってその言葉をよく考えてみると(実際どのようにハリデーが言ったのかは劇場で)、決して安易な結論ではなかった気がしてきた。
つまり単純で、どこか道徳的な「リアルの優位性」を語っているのではなく、もっと根本的な現実という世界について語ったのだろうかと。ハリデーの言葉は、そう解釈することも可能だ。
つまり「仮想現実というものは、リアルな現実という物理的な世界が存在しないと成り立たない。だからそっちも大事にしなよ」っていう、身も蓋もない当たり前の事実についての言葉ではある。しかし、それによって語られるのは当たり前の「リアルの優位性」ではなく「仮想現実と現実世界の並列性」ではないだろうか。
仮想と現実が入り混じる。あるいは逆転の発想。仮想世界があることによって現実世界も存在している。この物質世界も数ある仮想現実の一つなのでは、という恐れ。そのような思考も一般に浸透して、ときとして肌で感じられる現実の世界。
そこでは仮想現実とリアルは並列に存在している。
そのように言えないだろうか。
AIか神のような存在になってしまったハリデー(スピルバーグ自身の投影なのかな)は、それを踏まえて語っていたのかもしれない。
ハリデーの作った仮想現実にどっぷり耽溺、そこで「自分にとってリアルで大切なもの」を手に入れた主人公。そんな彼だからこそ、その言葉の意味を魂で理解した。そして一筋の涙を流した……。
以上、こんなふうに妄想を展開したけど、どうなのだろう。
本当のところは、やっぱり娯楽映画的に定番の「リアル優位」の帰着なのかもしれない。ある意味「自然を守ろう」的な道徳的なメッセージ。それはそれで別にいい。ふつうによくまとまっているし。
しかしハリデーの人物像だったり、監督自身の経歴など鑑みても、さっきの台詞解釈だって成り立ちそうだ。
つい長々としつこく書いてしまった。読んでくれた方はお疲れ様でした。ありがとうございます。とにかく、このように色々考えさせるということは、つまり面白い映画だったということですね。
まだ観ていない方は、劇場に足を運んではどうでしょう。3Dもよく飛び出すし。
最後に蛇足:膨れ上がる世界が数多ある
ところで現在『アベンジャーズ』最新作も上映中だ。
いまのところそれは観る予定ないけど『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー・リミックス』をこの前Huluで観た。マーベル映画の最高傑作といわれているけど、たしかに面白かった。
次にまた映画について書くのなら、これについて書いてみたい。そして私小説的なレビューを展開したいのだ。「私小説的なレビュー」って、いま自分でもよく分からないんだけど、そんなメモ書きがノートに残っている。なにか思いついたのだろう。
マーベル映画の共有世界はM・C・U(マーベル・シネマティック・ユニバース)である。現在進行形で数々のシリーズ作を飲みこんではどんどん膨れ上がり、それらがクロスオーバーしてスケールの大きな宇宙の歴史を紡いでいく。それが今後も続いていきそう。
さらに原作では複雑に諸事情が絡み合い、それにより幾多のパラレルワールドが生まれては、さらにそれがまたクロスオーバー。
「一体どうなってんだよ」とウィキペディアを調べ出すと瞬く間に8時間くらいが経過して吃驚する。
「一体どうなってんだよ」とそんな自分を責めて落ち込んだりもしたけれど、私は元気です。
あとバッドマンとかスーパーマンのDCユニバースもあるし、それともクロスオーバーしてるんだぜ。マジでどうなってんの?
さて最後に『レディ・プレイヤー1』に話を戻す。
やっぱり原作も気になる。ハリデーの言葉と存在(意味深なやり取りがあった)についても、もっと理解が深まるかもしれない。評判もいい。読んでみたい。しかし上下巻か。いろいろ読みかけの本が何冊もあるしな……。
あとやりかけのゲームもたまってる。『ファークライ5』のカルトに支配されたモンタナの田舎街。そろそろ解放してやらなければ。あとswitchの『ゼルダの伝説』。寄り道ばかりで魔王にはほど遠い。ゼルダ姫に怒られる。そして最近思いっきり怠けてるけど職探しも一応は継続中だ。ゼルダ姫にも愛想を尽かされそうだ。あははは、現実という仮想現実で生活がピンチ。本当はこんな長文を綴ってる場合じゃない? ゲームだと経済活動は簡単に回るもんなのにな。町の周りで雑魚モンスター倒して回るだけで、わりといい暮らしができるのに。現実の労働ときたら。あはは……。あ、それから『ウィッチャー3』と『スカイリムHD』それから『フォールアウト4』だってやりかけ。どれも面白いオープンワールドゲームだが。いろいろ手を出して、どんどん溜め込んで。おれは、おれは……。いけない、ちょっと落ち込んできた。あははは……。
とにかく世界って、とっても沢山あるわけです。
そんな救いきれないくらいの世界の数々が、あなたや私や君や彼と彼女を待っている。
一気に書いてへたばってきたので、ここで終わります。
了
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