山怪バンライフ ③
朝霧の食魔
次に目が覚めると、辺りはぼんやり明るい。リクライニングにしていたシートを起こして、車の外に出てみる。 明け方の空気が頬を一瞬で冷やす。濃い霧が出ている。かなり山深い所まで来ているのだ。
「ほら、やっぱり何もない」
車の周囲をぐるっと見て回ったが、人間や野生動物の足跡らしきものは見当たらない。けれどもバンの車体には小さな手形がべたべた付いている……といった怖い話的な痕跡もなかった。
「あれはただの夢だよ。幽霊なんていない」
助手席に置いた骨壺に語りかける。そうかな、と何かが応えるような気がした。
「……何でここにあるんだ」
骨壺の上に、白いレジ袋が乗っている事に気がついた。中身は昨日、道の駅の売店で押し売りされた稲荷寿司だ。
「もしかして寝てる間に食べた?」
パックには大きめの稲荷寿司が二個入っていたはずだ。それが一個に減っている。食欲はずっとなかったので、寝ぼけた自分が夢うつつに食べたとは考えにくい。 ならば妻がそれを食べたに違いなかった。
車の中は結界の様になっていて、野生動物だろうが物の怪だろうが、勝手に入っては来られないのだから。
「美味い」
つい声に出してしまう。パックに残された一個の稲荷寿司を見ていると急に生唾がわいてきて、自分はそれを一気に平らげてしまった。
彼女が死んでから、食欲などまったくなかったのに。
「美味すぎる」
おそろしく美味かった。しょう油で煮染めた茸類と山菜といった具と少し固めに炊かれた酢飯、それらをぎゅっと包む油揚げの甘塩っぱさ……味と食感のバランスが共に絶妙だった。
「何だこれは」
まずは何とも素朴でやさしい旨味がじんわりと広がり、しかしそれが突如として味蕾から脳へ衝撃的に駆け抜ける百万ボルトの電流に変換され……その刺激と余韻に、自分はもはや痺れ震えていた。
「駄目だこりゃ」
もっと食いたい。一つでは全然足りない。きっと二つでも足りなかっただろう。昨夜の彼女はよく一つきりで我慢したなと思った。少し食い意地が張った所があるのだが、これは相当な我慢をして自分の分を残してくれたのだろう。ありがとう。そしてもっと食いたい。
異様な飢餓感に駆られた自分は、気がつけば震える手で車のキーを回していた。
そしてカレー屋へ
「あら、また来たのね。……ああ、昨日の御稲荷さん? あれ美味しかったでしょう。でもごめん、今日はもう全部売れちゃった」
ええ、何で!? まだ午前中、さっきオープンしたばっかだろう。そんなに人気の一品だったのか。でも分かる、あれ死ぬほど美味かったもんな……ああちくしょう、もっと早く来ればよかった。でも食いたい。食いたくて仕方ない。きっと妻も同じ想いでいる。
「すぐ隣にカレー屋さんがあるんだけどね、ちょっと本式で、スパイスとかもすごいの。こんな田舎の山の中なのに。そこも美味しいから、行ってみたらいいよ」
レジのおばさんが隣の店の案内をしてくれた。自分の様子が相当な飢餓状態、もしくは何かの禁断症状のように見えたのかもしれない。ふらふらと覚束ない足取りで売店を出ていく背中に、さらに声をかけられる。
「あんたね、ちょっと痩せすぎだから沢山食べなさいよ! ご飯も大盛りにしなさい。五十円増しだけど」
そのカレーは果たしてあの稲荷寿司より美味いのだろうか。満たされぬ飢餓感と併走して期待も膨んでいく。……でもやっぱり食いたかった。普通に田舎で作ってるのに、わざわざ「田舎風」とか言っていた、あのお稲荷さん。
「美味い!」
すぐ隣のバラックのような店舗に入り、あわただしく注文したカレーを一口食べた途端に悶絶、思わず声を漏らす。かなり大きく漏れ出たらしい。
「そうでしょう。あとね、この豚カツも美味しいよ。それからチーズもよく合うの。後載せトッピングもいけるけど、どうする?」
奥の厨房から、中年女性が気さくに声をかけてくる。またいきなり距離感が近い「田舎風」の接客に戸惑いつつ、しかし自分はすぐに大きく頷いた。 もはや食欲の奴隷だ。そんなトッピング、絶対美味いに決まってる。まったくけしからん。
「……ああ! なんでこんなに美味いのか」
さっき聞いた「本式」というよりは、むしろ独自性がつよく漂うスパイスの効かせ方。注文したのはキーマとポークの相掛けで、前者はやや辛口で後者は逆に甘めの味付け。そのコントラストが見事だった。付け合せの野菜も色鮮やかで目にも楽しく、しかし一つ一つが鮮烈で存在感を放つ食感と味わい。単なる添え物に留まらない。ご飯はもちろん大盛りで、そして追加のトッピングも含め、あっという間に完食。カレーに豚カツとチーズという悪魔的な組み合わせに我を忘れる食欲魔界無限地獄……まさに皿まで舐める勢い、飢えた野犬の様な喰いっぷりに自分でも驚いてしまった。
突然炎の如く燃え上がった食欲もそれでようやく治まり、一転して水の如く落ちついた自分は会計をすませ、大人しく店を出る。
「ありがとうね。またどうぞー」
調理や会計もすべて一人でこなした中年女性が、わざわざ外まで見送ってくれる。ついさっきまで強烈な食魔に支配されていた自分は周りがろくに見えておらず、だからそれまで気がつかなかったのだが、そのカレー屋の女店主は隣接する売店のおばさんによく似ていた。
いや、どうにも似すぎている。
もしや同一人物だろうかと歩きながら思ったが、さすがにそんなわけはない。きっと姉妹か親戚だろう。服装だって微妙に違っていた。エプロンの柄が少し違っていた……ような気がする。まあとにかくほぼそっくり、おそろしく似ていた事はたしかだ。そういえば「田舎のおばさんは大体みんな同じ様に見える」と以前妻が言っていた。きっとそういう事なんだろう。
「ああ、腹一杯」
車に戻ると、助手席の骨壺からも満足そうな気配が伝わってくる。そこでまた急に眠くなって、抗えない重力に私という意識がまた遠のいていく。
宵闇迫れば
昨夜過ごした林道脇のスペースに自分の車は戻っていて、窓の外には早くも夕暮れの気配が漂っていた。 妻を亡くして以来、時間の感覚もずっと希薄で曖昧にはなっていたが、日が落ちるのが随分と早い気がした。ついさっき起きたばかりのように思えた。 日付と時刻を確認しようとスマホを探したが、どこにも見当たらない。どうやら家に置いてきてしまったようだ。
そのままぼんやりしているうちに、あっという間に夜が迫ってくる。そこで自分は外に出て、バンのバックドアを開けた。
後列のシートは常に倒してあり、荷室の床は少し上げ底になっている。それは床面をフラットに、つまり車中泊仕様にするためイレクターパイプと板材を組んでDIYしたもので、副次的に出来た床下の空間がちょっとした収納にもなっていた。そこから小型のバーベキュー用コンロを引っ張り出す。
車から少し離れた所でコンロを組み立て、昨日売店で買った練炭を並べた。着火剤を使って火をつけ、炭火が安定するまで見守る。同じく荷室に収納していたキャンピングチェアに腰を落ち着けた。
クーラーボックスの中で半分以上溶けかかっていた冷凍のホルモンが、網の上でじんわり炙られていく。肉の脂が炭火に直接落ちて、ジュッという音を立てる。そこから煙が立ち上り、早くも食欲を刺激する香りが鼻をくすぐる。 辺りは次第に暗く肌寒くもなってきたが、その分だけ火の周りが明るく温かい。
……なかなか良い感じの夕べになってきたじゃないか。
ついつい自分で感心していると、急に尿意をもよおした。 人里離れた山中にトイレのような設備はもちろんなく、すぐ側の木の茂みまで歩いて、そこでズボンのチャックを下ろした。
もよおしたのが尿意の方で、とりあえずは良かったなと思う。 しばらく固形物を食べた覚えがなく、なので便通も長い間なかった。しかしここに来て急にものを食べ出したので、いつそれが来てもおかしくはなかった。
それにしても、本当にいきなり食欲がよみがえったものだ。コンロにのせた網の上では、そろそろホルモンが頃合いの焼き加減だ。冷凍ではあるが、きっと地場産のものだろう。あの売店で買ったものだから、これもかなり期待ができた。思わず生唾がわいてくる。ビールも一緒に買ってくるべきだったなと少し後悔もする。ホルモンにはビールが定番じゃないか。
いや、待て待て。
よく考えてみれば、ホルモンなんて買った覚えがない。買った覚えはないが、売店でおばさんにおすすめされた覚えは何となくある。するとやはり言われるがままに買っていたのだろうか。
そもそも何でこんな山奥で一人「THE男のソロキャンプ」みたいな事やって悦に浸っているんだ? どうもこれは自分の柄ではない。
長い放尿の間に考えていると、尿が振りかかっている茂みの辺りがガサガサと揺れ、そこから何かが飛び出してきた。
「うわっ」 吃驚して声が出て、それで逆に尿がぴたりと止まってしまう。
茂みから飛び出した影はそのまま自分の横をサッと通り抜け、暗くてよくは見えなかったが、どうやら野生動物ではない。すくなくとも二足歩行ではあった。立ち上がった熊かとも一瞬思ったが、やはり人間のようだ。
「おや、肉を焼いてる。……これはホルモンだね。牛ではなく豚かな?」
炭火台の側に立った人影が、男の声でしゃべる。 ランタンと炭火の灯りに照らされた姿をよく確認すると、メタルフレームの眼鏡をかけた初老くらいの男のように見えた。
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