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孤独とユニゾン
先日情けない文章を書きましたけれども、まだ続いています。
限りない孤独。何をしても消えない孤独感。これと一生付き合うのか。
自分は自分であり、この視線は他の誰も持ち得ず、自分しか持てない。
これが孤独の根本原因で、恐ろしいほどに当然で、そして恐ろしいほどに逃れられない。他者との関わりは緩和剤でしかない。
どこまでいっても、今受け取っている感覚は全て自分しか味わえない。
それが孤独の根本原因である。
だから酒を代表とするドラッグにハマる人がいる。
あれは自我を忘れさせる。
セッションもそうだ。一瞬孤独を忘れられる、だから病みつきになる。
しかしドラッグと同じで副作用もある:ミスると我に返るのである。
セッションの副作用は、ポジティブな作用と表裏一体なのである。
その点でソロでの即興はセッションとは全く違うように見えて、
共通点もある:観客と一体になれると、セッションと同様の効果がある。
要は他者が共演者から観客に移るのである。
だから家で一人でソロをやっても、逃避には値しないのである。
世界にたった一人しかいないと仮定した時、音楽は救いにはならないのだ。
他の人間がいるという救いが大前提にあって、その上で音楽は補助としての救いになりうる。
しかし先述の通り、他の人間と五感を共有できないというのが
孤独の根本原因なのであった。なんだこれは。堂々巡りだ。
他の人間がいなくなれば孤独が消えるのか。いやそうではない。
それは物理的な意味での孤独だ。
ということは、孤独と感じるのは欲の一種なのか。
そう考えると辻褄があう。
要は、他の人間と五感を共有したいという欲望があり、
それができていない時は常にストレスを感じるということか。
これなら納得がいく。しかし人間は社会的な生き物であって、
この欲を消したらそれはもう人間ではないだろう。
そうだろうか?この欲を消したら人間ではなくなるのだろうか?
わからない。
▼孤独からの逃避方法
全く糸口が見えない。糸口が見えないのが人生なのだろうか。
このカオスに一体どう立ち向かったらいいのだろうか。
何をしたらこのストレスから逃れられるのだろうか。
まず一つは死ぬことだろう。死ねば逃れられる。それは間違いない。
一時的な死の疑似体験としては眠りがある。
夢を見たらそれはまたストレスの種となるかもしれないが、夢さえ見なければそれは一時的な完璧な逃避となる。シャットアウト。
忘れるどころではなくて、無になる、自我が消える。
↑なるほど、自我を消せばストレスからの逃避の条件を満たせるのか。
他に自我を消す方法は?自我消滅の疑似体験は?
先述の通り、ドラッグや即興演奏での高揚感である。
これも一時的とはいえストレスから逃避できる。あとは…なんだ。
あとは、孤独であるということを他の人間と共有するということか。
「あなたは孤独ですか?」「はい」←これも救いの一つになりうる。
自分だけじゃない、という感覚によって和らげられるかもしれない。
自分だけじゃないという感覚を他にも得る方法は?その疑似体験は?
コミュニティに属することだ。孤独の共有ではないけど、
同じ趣味嗜好を共有することで、自分の行為を他の人も行っているという事実が緩和剤になる。
あとは…真の意味で立ち向かうことから逃避することだ。孤独という概念自体を忘れるということ。「自分は今孤独である」という考え、心理的状態にならないようにする。
それは可能か?記憶喪失、脳損傷等で孤独の感覚を完全に切り離して捨てることは可能なのだろうか。
▼ユニゾン
あるフレーズを他者とユニゾンするとき、そこでは孤独の回避が発生する。この広い世界で、他者と部分的にでも全く同じフレーズを弾いているという孤独からの回避。
しかしそこには同時にストレスもある。それはミスだ。
その決まったフレーズを弾き損ねた時、孤独が生まれる。
自分はこの人とは違う、という断絶。
結局自分は孤独なんだと。もし他者も全く同じミスをしたら、
それはまさしく運命的である。
それは一生の友人、あるいはそれ以上になりうる。
ミスを共有した時のあのハッとした感じ、運命的な感じ、
あれは、あらかじめ決められた一定のフレーズを示し合わせて弾いている
場合とは種類も心理的なエネルギー量も異なる。
気恥ずかしさもあるだろう。
あれは人間の何か深いところに到達できる瞬間の一つである。