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都会への憧れはどこから来たか

ふと、いまは無き、地元のデパートを懐かしく振り返ってみて思ったこと。

離れた地元はそれだけで懐かしいけれど、二度と行けない場所への郷愁は格別。

北海道の地方都市に育った私は、田舎特有の「地元サイコー論を振りかざす、その土地で何らかの優位性のある人たち」に抑圧される環境に馴染めず、私を知らない人ばかりがいる場所へ、と逃避願望が募った。

そういう窮屈さはあったけど、都会かどうか、という点は様々な第三者も「都会だ」と言っている事実もあるし、多様に彩られていた記憶からも実感。

で、それでも生活の上での人間関係における窮屈さはストレスフルなので、あの時地元を離れて良かったという思いは今でも変わらないのだけど、そこそこ良い都会だったからか、逃避先もやっぱり都会がいいな、という思いが強かった、そして、念願叶って良い感じの都会に来れた今も、都会は良いなと漠然と思って生きている。まあ都会といっても色々あるから、お前は都会の良いところしか知らないのだ、と言われるとその通りだと思う。

(じゃあ所謂、田舎には無関心なのかという問いには、10年間住んだ、とある田舎町が最高に良かったと答えたい。その話はまた別の機会に)

さて、自分のこの、都会への謎の拘りは何なのだろう、と前々から思っていた。原点となった地元が良い都会だったから、と雑な分析でも間違ってないけど、冒頭のデパートの記憶を深掘りして調べて行くうちに、この失われたデパートこそ根源だったのかも、と思い当たった。

1980年代、このデパートには様々なテナントが入ってて、小学校時代は、大好きな亡き祖父が2階で呉服店を経営していた。

1階は入り口に花屋、真ん中はエスカレーター、そして毎日歩き回っても退屈しなそうなくらいありとあらゆる物で溢れた広い食料品や化粧品コーナー、右に、異様に臭いトイレ(他の階にはなく、用を足したければそこへ行くしかなかったw)あとこれは調べるまで思い出さなかったが奥はペットショップと、薬局もあったか?
2階は競合の服屋や手芸店、鍵屋?
そして3階はファンシー雑貨店とゲーセン!あとこれも全く記憶に無いが、アイドル写真店などもあった模様。

母は家で手に職を持っており、時々、土曜午後や日曜、その仕事関連で不在の時は、祖父が迎えに来てくれて、エスカレーターで2階に昇り、呉服店で母の帰りを待った。その時間が天国だった。というのは両親の仲が悪く、子どもにも火の粉が飛んで来たりと、家の居心地は良くなかったから。また学校でもコミュ障のため、友達は居なかった。

従業員さんたちが皆優しく話しかけてくれたり、時々おやつを貰ったり、紙とボールペンを貰って絵を描いたりして過ごした。客間(オーダーメイド呉服店なので接待用のソファとお茶を出すテーブルがあった)に誰も居ない時は皆でテレビを観て、高校野球で盛り上がった記憶も。既製品の服も売っていたが、主に服を作るための布地を展示していて、通路側には見切り品のハギレのセールワゴンが置いてあった。不届者の私は弟と一緒によくそのワゴンに乗っていた。
クリスマス頃の特別な時などは、3階の雑貨店で何か買ってくれたり、ゲーセンに同伴してくれたりした。コインゲームとピンボールを沢山やった覚えがある。

そんな風に、時々しか来れなくても、かけがえのない居場所、かけがえのない思い出となった。孫可愛さにワゴンに乗っても怒らなかった(従業員さんに、ちょっとだけだよ?と言われてそれは守った)という甘々対応で我儘が増長したというマイナス面もあったかも知れないが、後あと、悲願叶えて地元を抜け出すまでの心の支えの一つに確実になったと思う。

時代の流れにより、確か中1のとき、2階と3階が閉鎖されることになり、祖父の店舗も撤退を余儀なくされた。白い布が掛けられた展示資材を、最後の蛍の光と、従業員さんたちの「もうお終い、バイバイ〜」を聴きながら大事に撫でて回った記憶がある。彼女たちが、開店当初から長年(不明だけど10年20年は堅かったと思う)勤務した職場に愛着がそれなりあったのを感じたし、子どもの前で暗い顔を見せまいと思っているだろうことも何となく分かった。

その後は1階の真ん中に鎮座していたエスカレーターが撤去され、陳列品が少なめのスーパーに生まれ変わった。スペースの広さは変わらない、むしろエスカレーターが無くなった分、広くなったはずなのに、あんなにだだっ広く見えた店内が別の場所のように小さく見えた。これは私が大人になったせいとか、鏡で広く見せてた効果などもあるのだろう。ちなみに臭いトイレも撤去され、トイレ自体が無くなった。

あの楽しい時間はもう終わった。
残っているスーパーは、前とは似ても似つかないひっそりしたものになったけど、まだ建物として残っている。
その事実に少し救われながら、中学以降、一人で時々買い物に行った。もうそこに居なくなった祖父母は家で隠居生活の傍ら、時々我が家にも遊びに来たけど、段々と覇気を失って行くのは見ていて少し辛かった。

確か、その後、スーパーの閉鎖までは意外と長かった。15年くらいだった気がする。その間に祖父は他界。スーパー閉鎖と祖母の他界がどっちが早かったかは定かじゃないけど、閉鎖後もシャッターが下ろされた建物自体は更に10年数年くらい存在していた。

そして、、

今も年に一度は帰省している私の記憶では、つい数年前のことに思えるが、建物自体が壊され、新しい施設に変わったのも、かれこれもう8年ほど前だったらしい。その頃、忙しくてその辺りに立ち寄る暇が無かったせいもあるだろうけど、壊され、もう無いんだと認知した時、どうして沢山写真を撮っておかなかったのだろう!と寂しさが込み上げた。(写真がありさえすれば良いわけじゃ無いけど)

その時点からあのデパートは祖父と相まって私の中で奇妙に神格化されて行った気がする。

デパートは都会の象徴の一つ。

都会への憧れの正体は、二度と訪れることの出来ない天国としてのデパートだった。

浜崎あゆみさんの歌の歌詞に「憧れているものは未来にあるとみんな思っているけど、本当は過去にある」とあるけど、本当にそうなのだなと思う。

今目の前に当たり前にあるこの景色も人も、いつか無くなる、居なくなる、当たり前じゃないものたち。だったら思い出と同じ熱量で大切に思い、飽きるほど写真に納めれば、と、今でこそ思えるので私のフォルダは今住んでいる地域や同居猫の写真で溢れている。子ども時代に気付かなかったゆえの失敗を繰り返さぬよう。

ちなみにこのデパートの最盛期はやはり80年代までだったようで、その頃に高校生だった方々などの証言から、自分の知らなかった事実を知れて興味深い。オレンジジュースの噴水がデモンストレーションされている紙コップ自販機もあったという…えっ、それは記憶に無い…。だけどそういうの一つ取っても遊び心溢れる店内だったし、郊外住みの高校生もゲーセンに遊びに来てたり、正月には盛大な初売りと福引、とのことで、そういうバブル期の高揚感も「天国」を感じる一つだったのかも。

それから、この記事を書くくらいに郷愁が募るもう一つの理由が、ネットに出てる情報が少なかった。当時の写真も、特に店内は殆ど無く、開店や閉店などの年情報も今は上がってないので、その事実にまた懐かしさが強化される。

次に帰省したら、図書館の地元コーナーで記録でも探してみようか。

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追記。

改めて、とある方が公開している、そのデパート内部の写真を見ると、記憶が曖昧過ぎるというか、脳内に刻まれている一瞬の光景がそれとは違う角度の風景なので「あーこれこれ!」という嬉しさよりも「あ、こういう感じだっけ、、まあ言われてみれば、、」みたいなズレが(笑)。

でも、たとえ自分の記憶と全く同じ景色の当時の写真が見られたとしても、幼少期の記憶って全てが大きく、かつ、眩しいようなフィルター掛かってて、大人の目で客観視する写真にはそれが無い。なので、絵こそ記憶を再現し、他人に伝える最適な手段なのかも。と思い至った。そこに、絵が絵である最大の真価がある。このデパートを絵に表す予定は今のところまだ無いけど、私だけが持っている心象風景を描くために絵を描いて来たのだな、と、ふと思えた。

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