見出し画像

苦しみから抜け出す思考修正・転換法やり方まとめ-応用編

先日に、
「苦しみから抜け出す思考修正・転換法やり方まとめ-実践編-」
をご紹介しました。

思考修正方法をたっぷりと、
出来るだけやりやすくなるように、例付きで紹介しています。
⏬️

今回は、
物事が起こるしくみの気づきを元に、
「思考修正・転換法のやり方-応用編」をまとめていきたいと思います。



🌱良い気分は良いことを引き寄せる。ネガティブはよくないことを引き寄せる。は、本当か?


良い気分は良いことを引き寄せる。
ネガティブだとよくないことを引き寄せる。

と、よく言われますよね。

実際に自身の体験からも、そうだなぁと思うことがあります。

しかし、ある日、
この定義が崩壊する事象が起きたんですね。

・気分の切り替えや良い気分を意識していたら、連続で最悪な事が重なって起きた。

・恐怖心や不安やネガティブを感じていたら、奇跡的にうまくいく事態に見舞われた。

因果の法則とは真逆です。

「良い気分でいたら良くないことが起きた」
「ネガティブでいたら良いことが起きた」

物事は因果の法則で成り立っているとよく言われる中、
それを覆す事象が起こったことに、
疑問や謎が芽生えます。

自分がポジティブだろうとネガティブだろうと、自分は人生を全くもってコントロールできていなくて、

ただ現実が勝手にやってきては、それに合わせて反応したり、対応しているだけ。

自分が「こうしたい!あぁしたい!こうなったらいい。」なんて思うのもまるで無意味で、

人生は、勝手に何者かに操作されているみたいに動かされている。

まるでゲームの中のマリオみたいだよ!🫤🪙
そんな気分なのでした。


🌱その出来事は本当に最悪なのか?


そん中、

自分の最悪な出来事とほぼ似たような体験をしている真っ最中のAさんが、

「よかった!これで大丈夫だー」と、なんの変哲もなく、安心したかのようにさらっと呟いている光景が飛び込んできました。

人によって、こうも捉え方が違うものなのか?と、
その状況をありがたく思えて安堵している人がいることに、衝撃を受けたのです。

さらに次は、

自分の最悪な出来事のまさに真逆な位置にいる、
うまくいっている人の話や話題を、やたらと見聞きすることが起きたのです。

この方たちをBさんたちとします。

Bさんたちが話していた内容は、
それがうまくいっていると、逆に苦しいデメリットがある。
というものばかりでした。

こようなAさんとBさんたちの様子から、

今の自分の状況のメリット面や、
うまくいっていた場合のデメリット面が見えてきて、

「この最悪と思われる出来事は、もしかしたら自分が思ってるほど最悪でもないのかもしれない。

少なくとも、例え最悪だとしても、自分が思ってるほどには最悪ではないのかもしれない。」

そう思えてきたんですね。

これは、視点の変換だと気づき、

試しに、
自分の最悪な出来事の良い面を見てみると、
Aさんはこの視点から物事をみているんだな。と気づき、  

そして、
それらがうまくいったと仮定して、その状況のマイナス面を見てみると、
Bさんたはちは、この視点から物事をみているんだなと気づいたのでした。


例え、まだ惰性でネガティブ視点が残っていて、
「この状況は最悪だ」という思いは完全に消えていなかったとしても、

視点が増えると、気持ちは少しラクになるんですね。


ポジティブ視点にすぐに完全には移行できなくてもよい。
ポジティブ視点のみを頑張って見るようにしなきゃ。採用しなきゃ。
としなくてもいい。

もちろん、採用したければしてもいい。

しかし、
「ネガティブ視点」と「ポジティブ視点」

この両方を「知っている」という立ち位置に立つこと。
これ自体が、窮屈な檻からの脱出でもあるんですね。


🌱パラレルワールドの移行


パラレルワールドとは、
別々の次元が同時に存在していることを示すものです。

同じ今を生きていても、
どの次元にいるかで全く違った世界になるというものなんですね。

思考修正をしてみると、

考え方や視点の移行で世界が少し違ってみえたり、
何より自分の日常の過ごし方が変わっていったり、
そこから生まれてくる思考も若干違ってきている。

ということに気づき、
そして、
思考修正は、パラレルワールドの移行なのだと気づいたわけです。

先程の私が体験した、

・気分の切り替えや良い気分を意識していたら、うまくいかなかった。

・恐怖心や不安やネガティブを感じていたら、うまくいく事態に見舞われた。

この因果関係がめちゃくちゃな体験は、このパラレルワールドが関係していたことがわかってきました。

つまり、
因果関係は、存在しないということです。


「ない・マイナスを元にした世界の思考」から
「ある・プラスを元にした世界の思考」に移行したとき。

「歪んだ見方を正常位置に修正した」とき。

その瞬間にパラレルワールドの移行が起きるんですね。

・ないを元にした世界には、永遠にないしか存在しない。

・あるを元にした世界には、永遠にあるしか存在しない。

・ニュートラルな世界には、永遠にニュートラルな世界しか存在しない。


🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌
ただその時々に、どの世界にいたのか?
今、どちらのワールドにいるのか?
今どの視点から物事を見ているか?
🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌

それだけなんですね。
今この瞬時なんです。

⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐

たまたまある物事に対して、マイナス面(ない視点)から見る習性があるとします。
(雨の日は嫌い。特にどしゃぶりの日は移動がしんどい。憂うつになるよ😕☔️)
⏬️

そんな中、
良い気分を心がけて過ごすようにしていました。
(今日は大好きなケーキを買って自分にご褒美🧁🙂ちょっと自然の中でお散歩もして気分転換もしよう😙)
⏬️

しかし、突然元々マイナス面(ない視点)で捉えている物事が発生すると、瞬時に「ないワールド」にワープする。
(突然、どしゃぶりの雨が降ってきた⛈️最悪〜😬せっかく良い気分でいたのに、なんでこんな目に合うのだ!?😐)

⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐

これまでの気分と因果関係はなく、

これまでネガティブでいようがポジティブでいようが、

その時々に「ない世界の視点」で物事を見ていたら、ネガティブな出来事に見えるし、

「ある世界の視点」で物事を見ていたら、良い出来事に見えるのです。

あるいは、ニュートラルな視点から見たら、「ただ、たまたま自然界の働きによって雨が降っただけ」です。

この「良い・悪い」の判断づけは、それぞれの環境や経験やこれまでの思考習慣などから、ラベリングされてきたものであるかと思います。

そして、

私はその後、連続で訪れた最悪と思えるものたちを、思考修正してみることにしました。

すると、どれも

・極度に過剰にネガティブに捉えていた

・マイナス面しか見ていなかった

・まだ結果はどうなるかわからないのに、勝手に最悪な結果を妄想して決めつけて、最悪な出来事だと思い込んでいた

・世の中の多くは、このような状況を嫌なものとするから、自分も嫌なものと決めつけていた(他人軸・世間軸で考えていた)
(自分個人の人生状況として見たら、世間から見る視点とは、全く違った視点が存在していた)

このようなことが判明したのでした。

ここで、

はじめにお話した
「最悪な状況が重なった。」というお話は、嘘に変わります。

視点を広げる中でそれらの状況は、決して最悪とは言い切れないものであることがわかってきました。

初めに定義していた現実・事象とは、全く別の現実・現象がそこにあります。

そもそも、初めに定義していた「最悪の出来事」は、元々なかった。
とも言えるんですね。

「ない視点」と「ある視点」の両方を知っている時、
それは「最悪な出来事」ではなく、

少なくとも、

「どっちともいえる出来事」
「どっちでも良い出来事」
「どっちでもない出来事」
「よくわからない出来事」

「良いとか悪いとか、ラベリングする必要のない出来事」
「良い悪いと決めつけなくてもいい出来事」
「良いか悪いかは、まだわからない出来事」

なんです。

「ある」と「ない」を天秤にかけて、バランスよく捉えた視点。
これが、「ニュートラル視点」でもあります。

すると、

当初ほどは出来事を深刻に捉えなくなったり、
冷静さを取り戻し、少しずつ今出来ることや、やるべきことが見えてきたり、

「最悪な出来事」ではなくなったため問題意識が消滅し、問題解決をする必要がなくなる。

ということも出てくるんですね。

🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌

思考修正とは、

今この瞬間に
「ある世界」を体験し、
今あるあるワールドに移行するためのもの。

または、

今この瞬間に、
「ない世界」と「ある世界」をバランスよく見て、「正常な見方で物事を見ること」を体験するもの。
今ニュートラルワールドに移行するためのもの。

🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌

であって、

それが自然と先の幸せにもつながっていく。というものなんですね。


決して
「これから先の幸せのために行うもの」ではなく、
「これから先に良いことを起こすために行うこと」
ではないということです。

🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌

今この瞬時の幸せのため、
今あるあるワールドやニュートラルワールドを体験するためのもの。
🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌
なのです。

「世界は瞬時に変えられる」
「ネガティブでも悪いことが起きるとは限らない」
「ネガティブでも良いことは起きる」
「ネガティブでも大丈夫」
「ネガでもボジでもどっちでもよい」
「因果はない」

パラレルワールド視点から見ると、
一見ハチャメチャに見えるこのような定義も、ごく自然なもので事実となるのです。

なので、

この視点を採用することで、
瞬時に「ない世界」「因果視点」から抜け出し、パラレルワールド視点にシフトもできるのです。



🌱「ある視点」と「ニュートラル視点」は、どちらを選べばいいのか?


「ある視点」を採用することは、バランスをとるために有効になります。

私たちは脳のしくみにより、
「ない視点」から物事を見てしまう機会が多いですし、「ない経験」も多いため、

今後は「ある視点」を増やして「ある体験」をしていく。

そうすることで、心のバランスがとれてきて、極度にネガティブになる機会も少なくなってくるんですね。

「ない」視点と「ない」経験ばかりでは、
脳も心も体も不調になる。 
ということは、多くが体験していることかと思います。

でも逆に、

「ある」視点と経験ばかりでは、
それも人間にとっては、脳や心や身体に歪みが生じてしまうものなんですね。

「ない」を知らないと、
発言も無神経になってしまったり、信頼を得られなかったり、
「ある」ことの幸せも当たり前で気づかずいたりで、反感を買ってしまうこともあるかもしれません。

「ない視点と経験」「ある視点と経験」
は、どちらも必要なもの。

しかし、私たちのは脳のしくみにより、「ない視点と経験」に偏りすぎているため、
今後は、「ある視点と経験」を意識的に取り入れていくと、ちょうど良くバランスがとれてきますよ。

ということです。

また、
「ない」を体験したら「ある」を体験するまでがワンセット。

そんな側面もあります。 


「ある視点」を取り入れることは、バランスをとるために必要なものだということです。


そして、
ニュートラル視点。

これは、 
「ない視点」と「ある視点」の両方の見方を、ちょうどよく1つにした視点なんですね。

より広い場所から見た視点です。

(ない視点)
・雨が降って嫌だ
・移動が大変
・雨の日は視界が悪い


(ある視点)
・雨の音が好き
・お気に入りのブーツを履ける
・家に帰ってから入るお風呂が、特別心地よく感じる
・雨の日はゆっくり運転ができる

⏬️
(ニュートラル視点)
・雨は嫌な部分もあるけれど、良い部分もある。
・雨の日は憂鬱でも、お気に入りのアイテムは気分を良くしてくれる
・雨だ。雨がただ降っているだけ。
・大変に感じるぶん、家に帰ったらゆっくり温まってくつろごう


ニュートラル視点は、
ネガティブでもポジティブでもない、バランスのとれたちょうど良い視点・思考であり、

良い悪いもなく、
「ただその状態や状況がある」という視点でもあります。

ニュートラル視点は、
これ自体がバランスのとれた思考となるので、歪みや偏りが緩和され、気持ちもラクに感じられるようになるんですね。

ポジティブ思考やある視点が苦手だったり、しっくりこないときにも、
ニュートラル視点は思考修正に役立つものとなります。

(ニュートラルなちょうど良い思考は、
「思考修正法-実践編-」の認知行動療法で練習していけます。)

⭐「意識的」に「ある」を見つけていく。選んでいく。
「ある(充足・愛)」を見る。

⭐ニュートラルな視点(観察者の視点)に立つ


どちらも、「本質」の立ち位置です。


その時々に自分がより心地よくなるほうや、好きな方を採用すればいいということですね。


🌱因果の法則をどう捉えるか


「因果はない」という、
パラレルワールド視点をお話ししましたが、

しかし、、

量子力学の分子や原子レベルでは、同じ周波数や振動数を持つ者同士が引き合う。という側面もありますよね。

この世には因果関係の法則が働いているのも確かです。

・いい気分でいれば良いことが起きる。
・ネガティブだとよくないことが起きる。

実際に、このような側面もあるなぁと感じることもありますが、

しかし、私もそうであったように、、
ネガティブな時はちょっと怖い定義ですよね;


因果法則は、
ネガティブなことを考えると、
「ネガティブな出来事」が起こりやすい。
という面もあるのかもしれませんが、

出来事うんぬんよりも、

ネガティブなことを考えると、
また次も「ネガティブな思考や思い」が起こりやすい。
という内面の世界部分を指しているとも思うんですね。

それならば、
ネガティブなことがあっても、思考修正や視点の変更で内面修正すれば、過去からの因果関係は消滅します。

パラレルワールド視点がある限り、
因果法則の定義が全てではないこともまた事実なわけです。

この時、因果法則視点では、

パラレルワールド視点を採用すると、パラレルワールド視点を引き寄せる。
というようになるのでしょう。

因果法則とパラレル視点は、互いに交わらないようで、つながり合っているんですね。

神秘です。

そして、

もし、
「パラレルワールド視点を採用できていない!どうしよう!」
「あるある世界に移行しなきゃ!」
となるならば、

「パラレル視点を採用できなくても問題ない」
「あるある視点に移行できなくてもよい」
と、しちゃえばいいんですね。

ややこしくなったら、

「どうでもよい」
「ただ、今少しだけでも気分よくなることをしよう」
「とりあえずゲームでもして遊ぼう」
「考えない」
「もうネガティブでいいや!」
「ネガティブでも問題ない」
「このままで良い」
「もう、寝ちゃえ!」

と、しちゃえばいいんです。

このように、
どこまでも、どこまでも、

少しでも辛い気分を緩和させるための、都合の良い定義や都合の良い在り方を生み出せるようにできてるんですね。

果てしなく。

ここで、
宇宙は無限なのだ。
という答え合わせがでてくるのです。

以前に「許可法」の記事を書きましたが、


宇宙は全てを無条件に許容しているので、
ネガティブだろうが、
パラレル視点やあるある視点を採用できていなかろうが、
宇宙さんにとっては、それで「よい」のです。

これが無限で無条件の愛の宇宙視点です。
宇宙視点も本質なんですね。

だから、1つの思考に囚われることは、どれほど窮屈で苦しいか。

たった1つだけでも視点を増やすと、どれほど自由になれるのか。

許容できるものが増えると、どれだけラクになれていくか。

そして、
「許容できなくてもよい」

広い広い宇宙さんは、
色んな思考や在り方を無限にもっていそうです。

そして、その中から、
それぞれに合った思考や在り方を
「心地よい・安心・ラク」の合図と共に、私たち一人ひとりに送ってくれていて、
私たちがそれを見つけてくれるのを待っているんですね。


因果法則も、
パラレルワールド視点や宇宙意識視点も、どれも確かで大切なもの。

なので、因果法則の1つだけで物事を捉えると偏りや歪みが生じ、
私たちは窮屈さや恐れを感じてしまうのかもしれません。


苦しみや過剰な恐れから脱出していくには、
その時々に自分に役立つ視点を取り入れたり、多角的に物事をみることが大切になりそうです。


🌱因果を超える観察者


もう一つ、
・ネガティブだから、ネガティブなことを引き寄せる。
わけではない。

という、因果崩壊にまつわるお話しをしてみたいと思います。

思考修正の実践編でも少しお話ししたのですが、

同じくネガティブがあっても、
「意識的か無意識か」で、
その後に起きる物事の性質が変わってくるんですね。

メンタルケアも思考修正も、「意識的」に行うものです。

そうして意識的になる機会が増えていくと、自分の中の「意識」の領域が拡大していくんですね。


この「意識・意識的」があると、
例えネガティブがあっても、
ネガティブを採用していることにはならない。
ということが自然と増えてくるんです。

例え今の自分に、ネガティブ感情や思考があったとしても、
そこに「意識・意識的」が加わると、
本質を採用していることになるんですね。

「あぁ、今ネガティブになっている」
これは観察者の視点です。

この客観視・観察者の視点があると、
例えネガティブでも、本質ワールドに立っていることになるのです。

なので、
同じネガティブがあっても、
「嫌な出来事が起こりにくくなる」ということも起きてくるんですね。

意識的(気づき)があると、
100%ネガティブではないんです。


また、
普段から感情受容や思考修正などのメンタルケアを少しずつ行っていると、

落ち込んだ時にも、
「怖いよね。よしよし」
という言葉が自分の中から勝手にでてきたり、

ネガティブに物事を捉えていても、
自然とプラス面も見えてきたり、視界に入ってくることもでてきます。

意識的が自動化する領域も増えてくるんですね。

普段からの少しの意識的なメンタルケアは、
突然ネガティブなことがあって、落ち込んでしまったからって無意味になるわけではなく、

落ち込んだところから、
新たな気づきを得たり、回復への手助けと繋がっていったりもするわけです。


🌱人生はコントロールできなくてもいいようだ


私たち人間は、誰しも可愛いエゴちゃんを持っています。

エゴちゃんは、恐れ感情と共に「ない視点」から誕生し、
自分自身を一生懸命に守ってくれています。

エゴちゃんは、時々こんなことを感じたりすることがあります

物事は、自分の意思とは無関係に色々と起きてきて、
自分はやっぱり人生をコントロールできていなく、まるで被害者のように感じる。


突然、自分の体調が思わしくなくなったり、
突然、予想外の出費に出くわしたり、
突然、忘れ物をしていたことに気付かされる。

かと思えば、

突然、気の合う人と仲良くなれたり、
突然、人からお褒めをいただけたり、
突然、臨時収入が舞い込んだり。


良くも悪くも、日常であらゆることは勝手に起きてきて、まるでコントロールできていない。


残り1個だったシャンプーセットが、今日絶対残ってて買えますように!
と、思っていたって、
ゲットできることもあれば、売り切れていることだってある。

コンビニの店員さんが、感じ良い人でありますように!
と願ったって、そうであることもあれば、そうでないこともある。

思いをもったって、日常でそれが確実に叶うとも限らない。

全然人生をコントロールなんて、出来ていない。

どこが、思い通りの人生なの?🫤
本当は、もっといい人に出会えて、旅行もたくさん出来て、毎日たくさん笑ってる。
そんな人生がよかったよ🫤

エゴちゃんは、不満でいっぱいです。

でもエゴちゃんがそう思ってしまうのも、自然なこと。

なぜなら、
人生はエゴちゃんではなく、本質がコントロールしているからなんですね。

なのでエゴちゃん視点から見ると、
「勝手に色んなことが起きてきて、勝手に何者かに人生をコントロールされてる気分。まるで自分はゲームの中のマリオだよ!🫤🪙」と、
被害的に捉えてもしまうのです。


実際は一つの本質が、世の中うまく回るように、全ての人や人生をコントロールしているわけです。

これが、1つの流れ、宇宙の流れ、自然の流れと言われるものなんですね。

私たちは個人のそれぞれの人生を生きているようでも、
本質視点から見ると、
本質の大きな1つの人生を皆が生きている。とも言えるのです。

エゴちゃん視点では、個人のそれぞれの人生が分裂して無数にあるわけですが、
本質視点では、ただ1つの流れと1つの人生があるだけなんですね。

どんなに流れに逆らおうとも、決して逆らいきれない。
そんな流れがあるわけです。

でもエゴちゃんは、このことを中々許容できません。

宇宙(愛)から離れたと思い込んでから、ずっとエゴの世界で頑張って生きてきたエゴちゃんにとって、
宇宙や自然の流れは未知の世界で怖いもの。

そんな未知で怖いものに、これまで築き上げてきたエゴ界の定義を捨ててまで、自分や人生を委ねるなんて、、

エゴちゃんは怖くて出来ない。
だからエゴちゃんは、自分で人生や物事をコントロールしたい!🫤

でも、
どんなにエゴちゃんがコントロールしようとも、大きな流れをコントロールすることはできません。

ガックン😐

しかし、、
もしエゴちゃんが人生をコントロールできたなら、世の中はとても大変な場所になっていると思うのだ。

え?😯


もしもエゴちゃんの望むように、
個人個人が自分の人生を好き勝手にコントロールできたら、、、

その世界は、ものすごく恐ろしい世界でしょう、、。

なぜなら、エゴちゃんは、
主観や自己中心性を象徴するものでもあるからです。

皆がそれぞれ自己主張して、自分の思い通りに物事を動かそうとしたら、世の中成り立たなくなってしまうんですね。


・Aさん
「残り1個のシャンプーセット!おいらが絶対にいただく!🙂
仕事が終わったらダッシュだ!😀」

そして、BさんとCさんも、同じことを考えていました。


仕事終わり、3人は猛ダッシュしてお店へ!
🏃🏃🏃

しかし、シャンプーセットは残り1つ!

3人とも
「絶対に自分がゲットする!できる!なぜなら、人生は自分でコントロールできるんだからね!😙😙😙」


こんなことになったら、どうなるでしょう。
シャンプーセットは1つなのに、一体誰の手に?

皆人生を自分でコントロールできるなら、、

世の中辻褄が合わなくなりそうです。

やはり、どうしたって誰か1人しかゲットできない。

ましてやエゴちゃんならば、
なんとか自分のものにしようと、争奪戦や攻撃バトルが始まる可能性もありそうです。


それなら、シャンプーセットの残りを3個にすればいいんだ!
と思っても、、

そうなると、製造者や物流など、様々な人の生活を個人の思いで動かせることになってしまいます。

ということは、私たちの人生も、何処かの知らない誰かに勝手に操作させられることになりますね、、。

なんでもエゴちゃんの思いを叶えられて、エゴちゃんが自分の人生をコントロールできるならば、
世の中はもっとチグハグでめちゃくちゃで、

それ以前に世の中が成り立たなくなっていたでしょう、、。


でも、本質視点ならば、、

「Aさんはお得が好きだからなぁ。ア◯ゾンの通販のほうが安いぞ。そこでシャンプーセットを買うのがよさそうだ🤔」

「Bさんは、まだシャンプーの取り置きがたくさんあるぞ。欲望は果てしなく、そして人を滅ぼす、、。そろそろここで、欲を収めていく学びがベスト。すると、Bさんは内面の幸せに気づけて、もっと幸せを感じられる🤔」

「Cさんは、今そのシャンプーセットをゲットすると元気になれそうだ。それが他の幸せにもつながっていけそうだなぁ。ベストタイミングだ🤔」

ということで、

「シャンプーセットは、Cさんがゲットできるようにして、AさんとBさんは他へ誘導するのが皆にとってベストだね🙆」

こんなふうに、

大きな流れはあれこれ計算し、世の中がうまく回るようにしてくれている。

例え、うまく回らないように感じることがあっても、
何か計らいがあるのかもしれないし、
少なくとも、エゴちゃんがコントロールするよりは、はるかにうまく回っているはず。


大まかな流れは本質が握っていてくれたほうが断然良い。と言えそうです。


そして私たちは、
自分でコントロールできる物事だけに取り組んでいれば充分なんですね。

その1つが思考修正でもあります。

🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌
思考修正や自分がコントロールできる範囲内のものを、
少しでも「心地よい」を元に取り組み、
宇宙や本質の流れと同調することを心がける。

🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌


あとは、本質にお任せする。

コントロールできないものは、できないですしね;

ガックン😐

物事をコントロールしたがるエゴちゃんは、
コントロールできないものにまで躍起になったり、中々コントロールを手放そうとはしないことも多々あります。


エゴちゃんには、
思考修正などのコントロールできるものに意識を向けていただき、
そこで気分などをコントロールできる喜びを感じてもらうのがいいのかもしれません。

そしてそれが、大まかな流れに委ねられることにもつながっていくのかもしれません🙂


🌱本質は本質の願いを優先する
-強制終了-


本質の意思により、

エゴちゃんにとって慣れ親しんだものや、安心と思えたものが、突然なくなってしまう。

「強制終了事象」

というものがあります。

強制的にエゴちゃんの意思とは無関係に、慣れ親しんだものを手放さなければならない事態に追い込まれる。

これは、エゴちゃんにとって怖いことでもありますね;


この事象を謎とくために、

エゴちゃんは、
結果じゃなくて手段にしがみつく。
手段を願望としてしまうことがある。

というお話しをしてみたいと思います。


エゴちゃんは、
目的にたどり着くために、手段をアレコレ考える傾向があります。

そして手段を、こうじゃなきゃ!と決めつけてしまい、その手段を叶えることを目的にしてしまうことがあるんですね。


その自分で決めた手段通りにいかないと、「うまくいかない!もうダメだ!」とお先真っ暗になってしまうことがあるのです。

しかし手段は、エゴちゃんが選べる範囲のものもあれば、視点の広い本質がコントロールしている部分もあります。
(本質的面から見ると、手段は全て本質がコントロールしている)


🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌
強制終了はよくよく見ると、
本来の本質的な目的や結果がダメになったわけではなく、手段の部分の変更。

エゴちゃんは手段を目的としてしまうから、手段の変更・終了が、絶望的に思ってしまっている。

🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌🌌

そんな疑惑があるのです。

エゴちゃん視点ではうまくいっていなくても、本質視点ではうまくいっている。

本質視点では、本願へのルートが変わっただけ。手段の変更があっただけ。

🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷

例えば、

「黄色いハンカチがほしい」という願望・目的に対して、

エゴちゃんは、あのデパートのお店で買うのじゃなきゃヤダ!絶対そこにしかないってば!😯

と、デパートにこだわりしがみつくわけです。

でも視点が広い本質は、
あっちの雑貨屋さんのほうが条件やイメージに合った、素敵なハンカチに出会えるよ!😀と最善を見つけ出します。

そして、なんとか雑貨屋さんに出向くように仕掛けるわけです。

でもエゴちゃんは、
ヤダヤダヤダ!あのデパートじゃなきゃヤダ!
ダメだってば!絶対にそこしかないから!
それしか方法はないから!😐

と、デパートにしがみつき、デパートに行くことを目的としてしまうのです。


でも本質は、この子は雑貨屋さんにある黄色いハンカチのほうが好みで本願だと知っていて、
最高の幸せと最高のハンカチをプレゼントしてあげたい!😀

エゴちゃんの気持ちはわかるけど、幸せに妥協なんかしたくないんだ🫡
だって君は最高を受け取る価値があるんだよ🫡

それに、本願はデパートじゃないでしょ!😯

そこで、色々と手を回すわけです。


デパートは、そろそろ耐震工事するのにちょうど良い時期だな🤔
よし、デパート側も工事をしたいようだし、工事手配をしよう。

そして、デパートを一時閉店させて強制終了!そうすれば両者とも丸く収まるね😀

デパート工事中のため一時閉店。。

すると、エゴちゃんは、

デパートが閉店するなんて最悪ー!🫤
これじゃ黄色のハンカチが買えない最悪ー🫤

🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷

本質意識とエゴちゃん意識では、このようにズレが生じることもあるんですね。


ここで、

「デパートが工事閉店したということは、他で素敵な黄色のハンカチに出会えるってことかもしれない😶」

「工事は仕方ない。ハンカチのことはとりあえず置いといて保留にしよう😶」

と、思考修正して手段を手放したら、、

本質の意思に同調できて、雑貨屋さんの素敵な黄色のハンカチに出会える確率もアップします。


本質の意図はその時にはわからなくて、後にならないとわからない。
ということも多々あります。

これまでのことを振り返ると、

自分の思い通りにいかなかったけど結果よかった。
命拾いした。
あの時、強制終了は辛かったけど、確かに本願に向かって進んでいたんだなぁ。

というが、思い起こされるかもしれません。

強制終了事案がやってきたとしたら、
「それは本願ではなく、手段やプロセスの終了ではないか?」
という視点を持ってみるのもよいかもしれません。


しかし、
エゴちゃんの望む手段やルートも、もちろん本願を叶えるルートのうちの1つなので、
それを願ってはいけないということではないんですね。

ただ、
大きな視点を持つ本質からしたら、そのルートがベストなこともあれば、ベストではないこともあるわけです。

なので、エゴちゃん視点では、
「叶ったり叶わなかったり」が起きるんですね。

手段やルートの願いが手放せなくてもいいので、少しでも
「この方法やルートがいいけれど、それ以外の良い方法もあればそれもいいのかなぁ。」
という隙を持っておくのも良いかもしれません。

そして、焦点を当てるのは手段やルートよりも、本願のほうだということですね。


強制終了には、
次に説明する
「偽りの願望(エゴによる願望)の終了」が含んでいることもあります。



🌱偽りの願望


エゴちゃんは、本質から離れたという思い込みから傷つき、拡大していきます。

本質から離れたと思うのならば、
また、本質に近づいて戻ればいいのですが、、
(本質はいつでもそこにいて、離れたことは一度もない)

エゴちゃんの根元には、
本質の愛への不信感や恐れもあるために、
本質に近づくどころか、どんどん外の世界へと愛の代用品を求めて、真逆へ突き進んでいってしまうのです。

そんなことから、エゴちゃんは、
願望自体を間違うことがあるんですね。

🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷

本当は、青いハンカチがほしい。
青い色がすきだし、なぜだかわからないけれど、魂から喜びを感じられる。

青いハンカチは、本質を思い出させてくれるもの。


でも、
今は黄色いハンカチが流行していて、周りもみんな持っている。
なんだか自分だけ青いハンカチなのは恥ずかしい。
それに、自分だけ黄色いハンカチを持っていないのも、疎外感を感じる😑

だから、黄色いハンカチがほしい🥹

黄色のハンカチを下さい!😀


本質は、すぐに見破ります。

それは本当の望みじゃないよね🤔
それに問題はハンカチじゃなくて、疎外感のほうではないか?

ハンカチを手に入れたって、疎外感が埋まるのも一時的。
本当の意味で疎外感を癒すためには、ハンカチは必要ないぞ🤔

まぁ、でも、何か本質に還れるような象徴的な物を潜在的に求めているんだね。
その本願を叶えてあげたい🙂‍↕️


そして本質は、黄色のハンカチではなく、青いハンカチが手に入るように手配するのでした🫡

あるいは、こんなことも。


本願ではない願望を叶えるのも、色んな気づきにつながっていく。
よし、今回は黄色のハンカチを叶えるのがベストなようだ🙂

と、

あえてエゴちゃんの願いを叶えてくれることもあります。


黄色いハンカチをゲットして、
やったー😀と、エゴちゃんは喜びます。

しかし次第に、、

皆と同じものを持っているからってなんなんだ?😶
なんだか自分じゃないような気がする。
それに、もうすぐ流行りも終わりそう。
なんだかあまり嬉しくないかも。。
本当は、青いハンカチが好きなんだよね🥹

そんな思いに駆られたり、、。

その時本質は、
「よし!学んだ大成功!これで本願の青いハンカチに行けるね🙂」

遠回りしたことも、無駄に思えた経験も、全て本願へ続く最善の道だったとさ。

めでたしめでたし。

🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷

さらに、こんな例があったりも、、

「そろそろ物質を通してではなく、内面からダイレクトに本質を感じていくステージまでレベルアップできてるようだ😯

よし。
今は黄色のハンカチや青いハンカチなどの物ではなく、1人で過ごせる環境が1番重要だ。
本人も潜在的にそれを望んでいる(本人は気づいていないけどね)🤔」

そうして本質は、
黄色のハンカチや青いハンカチではなく、
1人で過ごす時間を与えました。


あるいは、こんなことも、、

「そろそろ本質と1つになっていくステージに到達している😯

今の友人やパートナーは、エゴ界の学びであって、エゴ界を脱出していくための最善パートナーに過ぎない。
エゴから繋がりあった関係だしね🤔

そろそろ互いに別の道へ行くのが互いにベストで、本願の幸せへの道となる。
本人も潜在的に今が窮屈に感じていて、それを望んでいる(本人は気づいていないけどね)🤔」

そうして、強制終了事案が起こりました。

🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷

潜在的な本願が見えないエゴちゃんにとっては、
何も望んでいるものが手に入らなくて、思い通りにならなくて、辛く感じる時でもあるかもしれません。

でも、本質はその痛みも一緒に感じていて理解を示し、
「よしよし」と優しい言葉をかけたり、励ましてもいるんですね。
🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷

・感情を感じる
・感情を受容する
・優しい言葉をかけてあげる
・思考修正をする

それは、意識的にできるものであり、本質の意思でもあり、本願と同調するものでもあるのです。


そして、
本質は、無力な私たちを勝手に操っているわけではなく、
あくまでも私たちの本質的な本願を元にして展開しているんですね。

エゴちゃんの不要な思い込みが増えるほど、
勝手に人生を操られている感覚が増してくるものなのかもしれません。

でも、エゴちゃんの願望も、悪いものとは言えないんですね。

エゴちゃんだって頑張ってるんだから、エゴちゃんの望みもたまには叶えてあげないと、エゴちゃんはなおさら捻くれてしまいます。

エゴちゃんを弱めていくには、エゴちゃんの願いを叶えて、なだめてあげることも必要になるんですね。

ただ、エゴちゃんの願いは、
叶ったり叶わなかったりする。
そんな側面があるということです。



🌱世の中のネガティブな情報を役立てる


辛いニュースを見ると気分が落ち込む。
精神疾患にまつわることや愚痴を吐いているSNS投稿を見ると、気分が低下してしまう。

そんなこともあるかもしれません。

特に、ネガティブから「あるある世界」へ意識を切り替えようとする時や、練習したいときなどは、
ネガティブな情報からは離れざるを得ない。
ということもあるものだと感じます。


でも、
「ネガティブな情報からは極力離れましょう」
という言葉に、

私の心は、
「本当にそれでいいのか?」
「それは愛か?」

と、よくストップをかけてくるものでした。

それは、私がネガティブな時に、

「自分の思いはこうして避けられて、誰にも気づかれずに嫌がられて、置いてけぼりになっていくんだなぁ。」

と、疎外感や孤独感を感じたことがあったからなんですね。

毎日毎日愚痴ばかり吐いているわけでもなく、
自分なりによくなろうと情報をかき集めたり、自分なりに一生懸命に色々試して、
勇気を出して頼れる場所探しても、中々良い頼り場所に巡り会えない。


世の中には、そんな方々もたくさんいるんですね。

ネガティブだと決めつけられて、避けられることは、
このような方々にとっては、酷なことだと思うのです。

自分が震災被害にあって過酷な中、それはネガティブなニュースだからと、誰もが避けたなら、自分は一体どうなるのだろう?

物資が届くのも、救助をしてもらえるのも、関心を寄せてくれる方がいるからこそ。
そんなことを考えたりも。


孤独感や思いの受け止め手がいなく、思いを馳せてくれる人もいない。
そんな行き場のない思いが、

あらゆる精神疾患や自死や犯罪や育児放棄や虐待や詐欺などの、社会問題事案に繋がっていくんだなぁと感じらるのです。

そんなことから、

私は、一時期ネガティブな情報からは離れていたのですが、

現在は、

ニュースはネガティブなものでも必要最低限のものは見る。
社会問題などの興味深いものは、あえて見る。
誰かのネガティブな思いが書かれた情報も、受け入れたり理解しようとしながら見る。

という状況に変わりました。


デジタルデトックスでネットやSNSは制限し、必要最低限のことにしか使わないため頻繁にではないのですが。

時々ネガティブ情報や呟きにも、意識的に触れるようになったのです。

ちなみにテレビは、もう10年くらいは見てなくて、
災害時の情報収集と、オンラインゲームするときしか使ってないんですね。

元々多趣味なのもあって、
テレビやネットに割く時間があまりなく。いつの間にかテレビを見なくなって、こんなに年月経っていたという感じなのですが;

noteの記事も、一記事を1ヶ月〜3ヶ月で完成させる遅さです;


時々家族がぽつんと一軒家見てるのですが、あれいいですね🏡(時々覗き見)

好きな番組や動画は、大いに楽しむのもいいですよね。


少し話が逸れましたが、


ネガティブな情報は、
「意識的に見ると大変勉強になるこおもある」
ことに気づいたわけです。

特殊詐欺のニュースを見たら心も痛みますが、手口を調べたり、防犯対策を調べたり、

不登校問題の記事を見ては、
子供の行きたくない思いがある反面、
親は仕事を続けられなくなり収入が減る苦悩もあったり、

そのようにして、誰かの苦しみにもあえて触れてみる。

そうすると、
「こうすればいいでしょ。あぁすればいいでしょ。」
なんて、無知な発言をする機会も減りますし、改めたりもできます。

そして、考え方が変わることもあります。

そこから、
「次はこんなものを書いてみよう。作ってみよう。こんなのが必要かも。」
と、インスピレーションがわいてきたり、自分ができるほんの些細なことも、見えてきたりもするんですね。

そして、結果、それが自分の本願に繋がったり、より在りたい自分に近づけるきっかけになったりも。

また、

自分の中のネガティブを受け入れたり認めたりすると、
誰かのネガティブも、過剰に気にならなくなる部分がでてきたりも。

ネガティブ情報を避けていた時は、
過剰にネガティブに反応していたり、毛嫌いしていた部分かがあったんだなと気づいたりもしました。


視点の転換で、
「あ、この視点から見るとそうなるね!」という気づきにつながったり、

対立している意見があっても、
両者はどの視点から見ているのか?
と、模索していると、

「あれ?両者とも全く違った次元から物事を見てるから、どれだけ意見を言いあっても全く別の話になっていて、永遠に話が噛み合わないじゃないか!」
と、気づいたりも。

「ポテチって、芋から作られてるから、芋の味するじゃん😶」

「えー!塩で味付けしてるんだから、塩味じゃん!😯」

という会話に時々見えてきたり^_^;)

「芋視点だと芋味だよね。
塩視点だと塩味だよね。」

ということも多々あり、
視点の違いって凄いなぁ、、。と、改めて感じることもあり。

それが、自分の中で許容や共感に変わったり、日常生活に役立つこともあります。

また、どうしても譲れない自分の思いや価値観に、気付かされることもあります。

意識的にネガティブな情報に触れると、
そこには「ネガティブな情報」という想念すらなくなるんですね。

それは、「ネガティブな情報」ではなくなるということです。


でも、
やっぱり、見ていて気分が悪くなるものや、関わりたくないと思うものもあります。

関わったり思いを馳せても、どうにもならない人や情報というのも、あるかと思います。

そういう意味では、やっぱり嫌な情報はシャットアウトすることも大切ですね。


私は子供の頃から、国外への関心もあったことから、
今は海外の友人から現地の情報をもらったりし、戦争や宗教などの問題を考えることもあったりするんですね。

これまで、

日本人との戦争への意識の違い。
パレスチナとイスラエル問題について。
イスラム教徒とヒンドゥー教について。
日本で放送されない残虐な現場。
微兵制度で軍隊になった時の苦しい生活。
生まれた時から宗教が当たり前としてある環境は、どのようなものか。
現地の人は日韓問題をどう捉えているのか。

など、色んなことを教えてもらいました。

関心の強さからジャーナリストのように、結構デリケートな部分にも踏み込んでしまう私ですが、、。

そんな中で、
宗教・無宗教関わらず、それぞれを尊重することや、偏見を持たない大切さを学んだり。

戦争は歴史を追うと複雑な要素が幾つも絡んでいて、
私が思ってるように「すぐに停戦・戦争やめよう」というのは、凄く難しいことなんだなと気付かされたり。

日本に「ある」良いものに気づいたり。
日本に「ない」ものにも気づいたり。 

発展途上国には、先進国と比較する必要のない良さがあることに気づいたり。

ただ、それぞれの国に特色があるだけで、上下も何もないのでは?
と、思ったりも。

衝撃を受けた話はたくさんあるのですが、

個人的ヒットは、
エジプトでは、政府が勝手に時計の針を動かす。
というものです。

時間を勝手に1時間早く進めたりすることがあるんですね。
そして、国民はそれに合わせて動くわけです。

「今2時から、3時になったよ」なんて言われると、
「時間は想念であり幻で、今この瞬間しかない」という言葉が思い浮かぶのです。

時間まで動かせる政府ってすごいですね。
時差も狂ったかと思えば、時計の針を戻さなくても、なぜかまた通常に戻る。
という不思議さです。

日本でも、一度やってみてほしいなぁと思ったりも。

そんなこんなで、
国や人種や文化や宗教が違って、意見や価値観が食い違っても、
結局心は皆同じなんだなぁと知り。

意識的にネガティブな情報に触れると、実は役立つこともある。
という、お話しでした。


本質視点では皆が1つの人生なので、あらゆる問題は、決して個人だけの責任ではないんですね。

心の病も、これまでつながり合って関わってきた、他者や社会の中で生じたものです。

個人でコントロールできる面もあれば、個人でコントロールできなかった面もありますよね。

個人だけの責任とは、言い切れないんですね。

誰か1人だけが良くなるのではなく、
皆が良くなるのが、
1つの大きな人生の流れの意思のようです。

いつも頻繁に社会や他者のことを考えたり思いを馳せてる必要はないですし、
得意不得意な分野というのも、あるかと思います。

自分のことで精一杯だったり、自分のことを楽しみたい時もありますよね。

無理をする必要はないですし、
あくまでも自分を第一に。

そんな中で、
自分なりのやり方で、
少しでも日本平和や世界平和に思いを馳せてみるのも、
ワンネス意識や本質の自分を思い出せるきっかけに繋がるかもしれません🙂


🌱辛い事件をどう捉えるか?


宇宙(本質)は、それぞれに最善を与えていると信じたくても、

世の中の残酷な事件や世界の戦争を見ると、どこが最善なのか?と、思うことがありました。


今のところ出している答えは、


辛い事件であっても戦争であっても、
それは宇宙視点から見るとどうのこうのだと、誰かが勝手に答えを出すものではなく、

ご本人やご家族が周りに助けられながら、それぞれ自分の中で、自分なりの思いや答えを見つけ出していくものなのではないかなぁ。
と、思うんですね。

そして、周りはそこから学び、自分にできることを生かしていくこと。

無力にも、それしか出来ずですね、、。

宇宙の視点なんて広すぎて、私たちが分かり切ろうとしてもきっとわかりきれない。

宇宙が最善かどうかは信じられなくてもいいし、わからなくてもいい。

だけど、自分の人生に責任のある自分は、自分がより良くなることに、ほんの少しでも思いを馳せてもいいんじゃないかな。

ということに、留めています。


🌱応用編-思考転換遊びをしよう-


最後に、思考修正法の応用編として、思考転換遊びをご紹介したいと思います。

「ない世界」は、非常にリアルで絶対感覚すらあり引きずられやすくもありますよね。

この頑なな「ない世界」を、少しでも砕けないかな?

そんな時に思いついた思考遊び法です。

思考修正に慣れてきたら、ぜひ遊んでみてください。

ちょっと不思議なことが起こります。

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

思考修正遊び法。名付けて、
🌟ニ◯テンドー思考スイッチ法のやり方
^_^;


🪷目の前の風景を見ながら行います。
部屋の中でも外でも、どこでもいいです。

集中するために、人が少ない場所や1人の時のほうが良いかもしれません。

🪷ある1つの出来事に対し、
ネガティブに捉えたり、
ポジティブに捉えたりします。
(初めは些細な物事がおすすめ)

思考を、スイッチの電源を入れたり消したりするように、

ポジティブ・ネガティブ、
ポジティブ・ネガティブと、
何度か切り替えてみます。

(思考修正を練習していくと、頭で切り替えもできやすくなります。ゆっくりでも構いません)

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

(例)
・状況・ネガティブ視点
「部屋が散らかっていて嫌だなぁ」と考える。思う。
(部屋の散らかった箇所を見てネガティブな思いを抱く)

⏬️

・ポジティブ視点やニュートラル視点を、思考修正で見つけてみる。
「なんか部屋が散らかってる光景って面白いなぁ」
「これは普段疲れるまで頑張っていた勲章だ」

など、自分が心地よくなる思考を1つ見つける。

⏬️

・目の前の光景を見ながら、ネガティブ視点、ポジティブ視点を、交互に思考する。

「部屋が散らかっていて嫌だなぁ」
(目の前の風景を見たまま)
「なんか部屋が散らかってる光景って面白いなぁ」

「部屋が散らかっていて嫌だなぁ」
(目の前の風景を見たまま)
「なんか部屋が散らかってる光景って面白いなぁ」

「部屋が散らかっていて嫌だなぁ」
(目の前の風景を見たまま)
「なんか部屋が散らかってる光景って面白いなぁ」

※今回の例は、
部屋にまつわることで、部屋にいるとき。という設定ですが、
外で関係のない風景を見ても🆗です。

慣れてきたら、テンポをつけて、
スイッチをチカチカと入れたり消したりするように行ってみます。

以下のような、不思議な感覚が少しでも感じられるまで続けてみます。

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

もし、うまくいったら、、

現実って何?良い出来事。嫌な出来事って何?

と、疑問が出てきたり、


目の前には良い悪いもなく、ただ世界が「ある」だけだったり、

そこには「自分の内観・思考」の世界しかないことに気付づいたり、

実際の視覚面でも、世界が変わる様子が見えたり。


など、

様々な不思議な感覚を、体験できるのではないかなと思います。


うまく感覚がつかめないときは、
内容をもう少し重いものや、今ネガティブに悩んでいたことにチェンジしてみたりして、遊んで見て下さい。

私は、目の前の現実や固形物が、グニャグニャと歪曲するという体験もありました。

固形物なんて存在してなくて実体がない。
現実ってこうだ!と固定されていないくて、物も現象も何もかもがグニャグニャ。

感覚としては、固定化した姿ではなく、分子や原子のほうを捉えたという感じでしょうか、、。

それで固定されていないなら、どのようにも変容できるのでは?

頑なに信じていたネガティブも、実はもろい?!

と思い、ネガティブへの信用度が低下したんですね。

感じ方や見え方は、それぞれかもしれませんが、

ネガティブな思い込みや、
現実世界の定義の取り崩しに、少しでも役立つことがあるかもしれません。

例え何も感じられなくても、思考回路と意識は磨かれますので、
気軽に遊んで見て下さい🙂

🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷

🪷おわりに

思考は、
無理に何でもかんでも転換や修正をする必要もないかと思います。


エゴちゃんの視点から見ると
エゴちゃんと本質の世界は分離しているように見えて、
必死にネガティブから本質の世界へ行こうとしてしまうかもしれません。

でも、

本質視点から見ると、
エゴちゃんと本質の世界は分離などしていなく、
本質はいつもエゴちゃんを優しく包んでいます。

そして、

本質はどこか遠くの手の届かない誰かや何かではなく、

「ネガティブでもいい」
「ネガティブでも大丈夫」

そう思うだけで、ぴょんと立ち帰れる場所です。

本質は自分自身であり、
身近なものだということを、私たちはもっと思い出していけたらいいですよね🙂

思考修正を取り入れた動画もアップしています。
⏬️


いいなと思ったら応援しよう!