短編小説①『財布を拾ったら。』
人生の中で財布を拾うことは何度あるだろうか。
大抵の人は財布を拾う回数より財布を落す回数の方が多いのではないか。まさに自分がそうであった。今まで何度か財布を落としたことはあったが、拾うのは始めてだった。俺の手にはさっき道で拾った財布が握られている。仕事を終え、自宅から少し離れた場所にある駐車場に車を停めて道路沿いの歩道を歩いているときにそれはあった。焦茶色で革製の二つ折りの財布。中身を確認してみた。1万円札が4枚と1000円札が2枚、それに小銭が何枚か。
合計42,127円。
俺は少し迷った。これを警察に届けるかどうかだ。現在時刻は18時15分。空腹だった。仕事の疲れで自炊する気力も無く、ラーメンでも食って帰ろうかと考えていた。しかし給料日前で金欠気味だったため、どうしようかと悩みながら歩いているところで財布を見つけた。
一応、財布の中の現金以外も確認しておこう。ポイントカードが数枚と牛丼屋の割引券、学生証が入っていた。あと何故かポケモンカードが1枚だけ入っていた。プクリンのカードだった。HP80と書いてある。
学生証を見てみると、落とし主はこの近くにある外国語大学に通う大学生のようだ。氏名の欄には「真上 夏」と書かれていた。「まうえ なつ」と読むのだろうか。氏名の欄の上の方に「マガミ ナツ」と小さな字でフリガナが振ってあった。写真を見る限り男性のようだ。少しカールのかかった黒髪短髪で、顔は高校生にも見えるような童顔だ。生年月日を見ると現在21歳らしい。
4万円といえばサラリーマンである自分にとってもまあまあの金額である。大学生にとってはかなりの大金だろう。今ごろ必死になってこの財布を探しているに違いない。俺は交番に向かって歩き出した。
徒歩3分くらいの場所に小さな交番があった。交番に着くと俺はゆっくりと扉を開けた。
「すいません、財布を拾ったんですが……」
「あっ!」
そこには若い男性警官とさっき学生証の写真で見た童顔の大学生がいた。真上夏だ。上下青色のジャージを身に纏い、背中には黒い無地のリュックを背負ったまま、何か書類を書いている最中だった。その大学生は驚きと喜びの混ざった表情で声を上げた。
「もしかしてその財布って焦茶色の二つ折りのやつですか!」
俺は財布を警官に渡した。財布の中身と手元の書類を見比べて警官は「間違いありません。真上さんの物ですね。良かったですね」と口にした。
「では私はこれで」
そう言って交番を出ようとしたが警官に止められた。
「届けていただいてありがとうございます。申し訳ありませんが、こちらの書類に拾得者の名前を書いてもらうことになっているんです」
そう言って警官はボールペンを手渡してきた。仕方なく書類に「古井栄二」と見慣れた自分の名前を書いた。他にも電話番号やら住所やら細々したことを書かされた。
「古井さんっていうんですね! 本当にありがとうございました!」
大学生が頭を下げる。
「これで手続きは終了です。お疲れ様でした。なお、拾得者は遺失者からお礼を受けとる権利があります。金額は5〜20%と法律で決められています。あとは当事者同士で話し合って下さい。お疲れ様でした」
警官にそう言われると俺と大学生は交番を後にした。
交番から出た俺達は、交番から少し離れた歩道の電信柱の下で話していた。時刻は午後18時30分。辺りは薄暗くなっていた。
「いやー本当に助かりました! 財布が見つからないと今月のアパートの家賃が払えないところでした。明日には振り込まないとまた大家さんから催促の電話がかかってくるんですよ」
真上はホッとしたような表情で話し始めた。
「1時間ほど前にスーパーに行ったんですよ。この先にあるスーパーです。昨日の夜に買った半額のパックの寿司を食べようとしたんですよ。そしたら醤油が無いことに気付いて。そういえば先週くらいに醤油が無くなっていたことを忘れていて。僕、醤油にはこだわりがあって、あの四角いビンに入ったやつじゃないとダメなんですよ。添加物を使用していない大豆、小麦、塩だけで作られているやつで500ml入りのやつをいつも使っています。その醤油を買おうとスーパーのレジで支払いする時に気が付いたんですよ。財布が無いって!」
よくしゃべるヤツだなと思った。今は醤油の話はどうでもよかった。お礼の話だ。4万円の5%だとしても2000円はもらえる。ラーメンくらいなら余裕で食べれる金額だ。
「あ、そういえばスーパーのパック寿司って安いように見えて意外と高くないですか? 値段はスーパーによって色々ですが、だいたい10貫入りで680円とかですよね。1貫あたり68円。2貫で100円の回転寿司だと10貫で500円。実はスーパーより回転寿司の方が安いんですよね! だから僕はスーパーの寿司は半額の時にしか買わないと決めてるんですよ。半額だと10貫で340円なので! 回転寿司より安い!」
醤油にはこだわるのに寿司はパックでいいのかよ、と思ったがこの話をこれ以上広げたくなかったので言わなかった。
「あの、それより警官の言っていたお礼の話を……」
このままではずっとパック寿司の話をされてしまう可能性があるので、自分から話題を切り出した。
「ああ、そうでしたね! それに関しては、すみません……! 家賃がちょうど4万2000円でして……。お礼にお金を渡してしまうと家賃が払えなくなってしまいます……。すみません……!」
申し訳なさそうに顔の前で手を合わせて真上が言った。少しがっかりしたが、よく考えたら社会人が大学生からお金をもらうのも気が引ける。元々財布を届けた時にお礼がもらえるなど考えてもいなかった。まあ困っていた人を助けたということで良しとするか……と自分を納得させようと考えていたその時、真上が背負っているリュックの中からガサゴソと何かを取り出した。
「お金は払えませんが、もし良かったらこれを受け取って下さい!」
真上が右手に持っていたのは古びた本のような物であった。受け取ってじっくりと見てみる。大きさは文庫本くらいのサイズで分厚さは2センチほど。全体的にボロボロであり、紙は茶色く変色している。変色具合から数十年、いや数百年経っている本のようにも見える。
表紙には見たこともないような言語が書かれていた。ページを捲ってみる。ほとんど文字であるが何枚か挿絵のようなものがあった。どこかの島の地図や謎の紋様、頭が蛇で首から下が人間の生物のイラストなどが描かれていた。紙と紙がひっついて捲れないページもあった。
「これは何だ?」
真上に尋ねる。
「僕も詳しくは知らないんですが、この本は大学の先輩からもらった物で、どうやら価値がある本らしいんです。いつか売ろうとリュックの中に入れたままになっていたんです。」
真上はそう答えた。
「先輩は、売れば結構な金額になると言っていました……! もし古井さんが良ければこの本を受け取ってもらえませんか?」
なるほど。詳しいことは分からないが価値のある本なのか。確かに見るからに謎の本という感じがする。さっきの地図は宝の在処を示していたりするのだろうか?
「わかった。受け取るよ。」
半信半疑だったが少し興味があったのでそう答えた。
「そうですか!ありがとうございます!では僕はこれで」
真上は、そう言うと早足でその場を去った。去り際に「何かあったら連絡して下さい」と自分の電話番号を書いた紙を渡してきた。
さて、この本をどうしたものか。そういえば近くにブックオフがあったな。とりあえず持って行ってみるか。
店内に入り、買取りカウンターで店員に本を渡した。
店内はそれほど混んでいない。10分ほどお待ち下さいと言われたので立ち読みでもしながら待つことにした。近くの100円コーナーの棚の中で何となく目に入った1冊の漫画を手にした。BLEACHの9巻だ。女花火師・志波空鶴が表紙の巻だ。巻頭のページにはこんなポエムが載っていた。
『ああ おれたちは皆 眼をあけたまま 空を飛ぶ夢を見てるんだ』
そのポエムの意味を考えながらパラパラとページを捲った。ちょうど市丸ギンの斬魄刀が伸びるシーンあたりで店内放送があり、自分の番号が呼ばれたので買取りカウンターに向かった。
「お待たせいたしました。査定結果なんですが……」
少し緊張して、ごくりとツバを飲み込んだ。いくらになったのだろうか。
「申し訳ありませんが買取りができません……」
「えっ」
驚いてつい声が出てしまった。
買取りができない? なぜ? 真上の話では、売れば結構な金額になる本ということだったが。店員はそのまま言葉を続けた。
「こちらの本のように汚れがひどい物に関しては当店では買い取ることができません」
「つまり買取価格は……?」
「0円ですね。ご希望でしたら処分という形で引き取らせていただきますが」
「いえ、それなら結構です……」
俺は本を素早く手に取り、逃げるように店を出た。
なぜ。なぜだ。もしかしてあの大学生に騙されたのか。さっき渡された電話番号に電話をしようか悩んでいたその時、大通りの道路を隔てた向かい側にある店が目に入った。それは古本屋だった。濃い紫色の暖簾が店の入り口にかかっており、白い字で大きく「古書・古本」と書かれていた。店先には木箱がいくつかあり、その中に日焼けで背表紙が色褪せたような文庫本が所狭しと並んでいた。おそらく何十年も前からあるのだろう。見るからに古めかしい店構えで看板には「亜輪根書房」と書かれていた。なんと読むのだろう。あわね書房だろうか。
「なるほど……」
そういうことか。この本に価値が無いのではなく、持っていく店を間違えたのだ。冷静に考えれば、こんなボロボロの本をブックオフが買い取ってくれないのは当然だった。バーコードの無い本は買い取れないという話も聞いたことがある。マニュアル通りのアルバイト店員にこの本の価値が分かる訳がなかったのだ。餅は餅屋だ。古本の価値は古本屋が一番分かっているだろう。俺は横断歩道を渡り、亜輪根書房の暖簾をくぐった。そういえば少し気になることがあった。
通勤の際にほぼ毎日この道を通っているが、こんなところに古本屋などあっただろうか。
店に入ると奥の方で店主が椅子に腰掛けて文庫本を読んでいた。小柄な男性で年齢は六十歳くらいだろうか。白髪混じりの短髪で目は大きく、耳の先が少し尖っている。顎には立派な白い髭を貯えている。スターウォーズに出てくるヨーダに似ていた。服装は黒のタートルネックの長袖シャツに黒いズボンに黒い革靴で全身が真っ黒だ。さすがに肌は緑色ではなかったが、どことなく不気味で、独特の雰囲気を醸し出していた。
「あの……すみません、ここって本の買取りやってますか?」
恐る恐る問いかけてみる。わずかな間があり店主は「やってるよ」とボソッと投げやりな感じで答えた。
「この本なんですけど」
言いながら大学生からもらった本を手渡す。店主はしばらく表紙と裏表紙を交互に見つめ、ページをパラパラと捲った。数分が経っただろうか。店主が突然驚きの表情を見せた。
「こ、これは……!」
店主は続けてこう言った。
「これはミャンマー語で書かれたファンタジー小説だね。割と最近のやつだ」
「えっ……、ミャンマー、え?」
思わず聞き返してしまった。ミャンマー語? 未知の言葉ではないのか? 最近の? ファンタジー?
頭の中に疑問が無限に浮かんだが、一番気になる質問が口から勝手にこぼれ出た。
「つまり……この本の値段は……?」
「0円だね」
「0円かい!!!!!!!」
つい叫んでしまった。
「え、じゃあこの本がこんなに変色してるのは何故ですか? 何十年、いや何百年も前の本じゃないんですか?」
納得できずに店主に早口で聞き返した。
「ああ、これ? 醤油か何かをこぼして変色しただけだと思うよ」
店主に礼を告げ、本を手にして店を出た。本を嗅いでみると確かにほんのりと醤油の匂いがした。そういえばあの大学生、醤油が無くなったとか言ってたな。床にでもこぼしたのだろうか。
真上に渡された番号に電話をしてみたが「現在使われていない番号です」とアナウンスの声が響くだけだった。
「もういい……。帰ろう」
自分が空腹だったことを思い出し、スーパーで半額のパック寿司を買おうと思ったが全て売り切れていた。俺はコンビニで和風ツナマヨネーズおにぎりとファミチキを買って帰った。
おわり