多様性
神社仏閣では、在来の生き物たちの繋がりが、今も垣間見れるそうだ。
多様性って難しい。外来種が増えて生物の種が増えても、生物多様性とは違う。
多様性は、地域の生き物同士の繋がりがあってこそのもの。
繋がりとは時間をかけた関係だ。
ひとつの種が消えたら、その時点では何も変化は感じないかもしれないけれど、生態ピラミッド(食物連鎖)の上にも下にも確実に影響を及ぼしている。
例えば、ある種類の蜂は、ある種類の花の蜜のみ集める。そういった依存関係の場合、ある年に花が咲かなかっだけで、蜂は途絶えてしまう。
このことを知っているだけで、土地を根こそぎ変えてしまう恐ろしさが想像できる。
ゴキブリや蚊だって、繋がりの中にいる。
絶滅は、ある生物種がゼロになること。人間という種がゼロになることを考えると、その大きさが分かる。
人間にとっては都合の悪いからと、消してしまってよいのだろうか。
科学という武器を使って自然の営みを壊すことを、黙認してよいのだろうか。
なくなったら、取り戻せない。
その時には、手遅れなのだ。
私が自然と人との関わりを考えるときに、大切に思うこと。
答えが分からないものを消すな。
直し方が分からないものを壊すな。
アイヌの伝統を受け継いで生活をしてきた方が、
「自然を守るなんておこがましい。私たちは、自然に守られているんだ。」
とおっしゃっていた。
全ての人が、自然の恵みを無償でいただいている。
食物を作る土は誰が作ったもの?
二酸化炭素を酸素に変えてくれるのはだれ?
水をきれいにしてくれているのは?
家の材料はどこから?
衣食住、全てにおいて、自然の恩恵を受けていない人は誰一人いないのだ。
自然には抗わないという精神が、日本人に根付く感覚であることを、今こそ心に刻みたい。
日本人は、神のおられる存在である山に対して、「登らせていただく」と向き合い、
西洋では、「克服する」と捉えるという。
「あきらめる」は、明らかに極めるが語源だ。
善い道へ進むためのあきらめとは何か、私たちに問われている気がする。
2023.6.17, 6.18
6月17日にWWFの生物多様性セミナーに、オンラインでライブ参加した。
〜写真について〜
庭の八重のドクダミ。
八重咲きなどの珍しい形質のものは、先祖返り…本来のドクダミの姿に戻っていく。
庭のドクダミの群集も、八重のものとそうでないものが混じっている。