能登へボランティアに行った話
2024年元旦、新たな年に希望を抱き、家族が集まる日、能登半島は再び地震災害に見舞われた。
高齢化、過疎化が進む能登では家族が帰省している日であったため、高齢者の避難が助けらた。そうでなければ地震災害の直接死はもっと増えていたであろうという
その元旦から6ヶ月と27日目の7月27日に能登半島への災害ボランティアで羽咋市にある「能登半島地震災害支援共同センター」を訪れた
肺転移確認後38日目のこと
高校生の参加ということで、「単に作業をして帰る」ということではなくて、「災害の実相全体を見て考えてほしい」とのことで、災害の現場を案内してもらった。
地震は珠洲市の直下16kmを震源としてマグニチュード7.6を記録し、日本内陸部の地震としては稀な大きさであった
27日はこの地震によって大きな被害を受けた能登半島東北部のうち、羽咋のボランティアセンターから72kmほど離れた輪島市へ向かった、火災が起き朝市が焼失した観光の中心地であった街だ
震災当時は能登半島の道路が各地で寸断され、集落は孤立した。緊急復旧された能越自動車道を通って輪島市へ向かった。
復旧されたと言っても、本線は道路の柵を宙に浮かして残したまま崩れ落ちている。道側道を仮に作っていて、道路も波打っている。側道には柵もない、街灯もなく、おそい時間に走るには危険すぎて、暗い時間のボランティアは禁じているという。
道路の復旧には当初はゼネコンが入ったが、仮の復旧道路だけで引き上げ、大阪万博万に行った。
自動車道は思いの外交通量が多かった。能登を離れ避難している人たちが、破壊された家の片付けに通っているのだという。大事な道路てあり、工事が仮復旧で止まっているのが不思議でならない。未だ片付けられない被災した自動車が道路脇に放置されていた。
山が土砂滑りを起こし、集落に押し寄せ、まだ遺体が見つかっていない人がいるという集落を途中に見た。
輪島市に近づくにつれ、青いブルーシートを屋根にかけた家が増えてきた。震災の爪痕が見えてきた。瓦の職人も足りなく、瓦も高騰し、屋根の修理も遅れているという。
輪島市に着くと、形は保っていても住めない家、使えない店舗が立ち並ぶ。倒壊している家屋も多い。ビルが横倒しになっている姿に衝撃を受ける。
輪島の観光客で賑わった朝市を進む、比較的瓦礫は片付いてきたというが、かつての賑いを想像もできない姿だ。火災により焼けた建物の姿が生々しく残っている。
解体は公費負担だが、持ち主が申請しないと解体できない。登記が亡くなった人になっていたり、みんな家族バラバラで解体の合意が取れないなど様々な理由で申請が簡単にできない人達も多い。行政の柔軟な対応も求められる。申請をして公費負担の解体が認められても業者も少なく、解体着工には何ヶ月もかかるという。
被災地に仮説住宅が大小の規模で点在する。仮説住宅手当で暮らす人々に支援物資を届けるために訪問をした。わずか20平米の鉄で出来たプレハブの箱だ。断熱材もなく、暑さも寒さにも厳しい。壁も薄く、当然に起こる生活の音が隣から聞こえてくる。多くの人が戸建てに住む能登の人たちは、洗濯機の音、戸を開けしめする音、水を出す音、この音が隣に迷惑をかけているのではないかと心苦しい思いがストレスになっているという。最初に訪れた仮説のお宅では若い青年が出てきた。部屋からはエアコンの冷気を感じる。支援物資を渡し、「困っていることはないか」と尋ねると「自分はリモートワークなので仕事もあるので特に困ってはいない。まわりのお年寄りが大変だ」と言う。まわりの高齢者の仮説住宅ではこの青年の部屋とは違ってサッシは開けられ風通しをしている。仮説住宅は2年間は家賃無料で住むことが出来るが、期限が来ると出ていかなければならない。光熱水費は個人負担だ。先の見通しがない中で生活費は切り詰めなければならず、エアコンもつけることができず、熱中症になる人もいる。
次に訪ねた高齢の女性のお宅は1人暮らしだった。近くに次男が住んでいて訪ねてきてはくれるという。しかし、出ていかなければならない2年後の見通しは分からないという。「息子さんと暮らせますか?」と尋ねると「さあ、どうかしらねえ」と力なく答えた。支援物資を届けることしか出来ない、無力感を感じながら仮説住宅を後にした。
仮説を回って、被災者に寄り添うためには、被災地の文化や生活を学び、それぞれの地域や家庭の個々の状況を知らなければ、困りごとを聞くための、コミュニケーションも上手くいかないと感じた。テレビで見るだけでなく、現地に入って自分の目で見るということの重要性を実感した。
次に同じ輪島市の門前町道下(とうげ)地区は2007年の地震でも、全世帯の3分の1以上に当たる約90戸が全壊したが、今回の能登半島地震でさらに深刻な被害を受けた。再び家を再建する決断もできない。震災間もない頃にボランティアが訪ねても、ぼーっと何も考えられないという状態の人が多かったという
門前町から海岸に出て鹿磯漁港を見た。海底が4メートル隆起し、船は転覆したり、干上がった海底に乗り上げたという。周辺の海岸では隆起した岩場が白く変色した光景が広がっていた。高級な海苔が採れる岩場だったが、もう海苔を採ることは望めないのではないかという
その後、天領黒島町という能登瓦の立派な屋敷が立ち並ぶ地域を通った。その統一感のある街並みから観光客が多く訪れたという。案内してくれた方は、この街並みを今後も維持し続けられるのだろうかと肩を落としていた。
この日はこれで帰途に着くことになったが、途中の志賀町で志賀原子力発電所の前を通った。志賀原子力発電所は東日本大震災のあった2011年以降は稼働を停止している。敷地内に10本の活断層が通り、再稼働にたいして賛否の議論があるという。福島の原発事故を思い返して、被災地と原発の関係についても複雑な気持ちになった。
ボランティアセンターに帰ると、支援物資が並べられている。他のボランティア団体にも支援物資を提供していたという。しかし、物資は枯渇してきていて今はこのボランティアセンターで使用する分で精一杯だという。全国からの能登への関心が薄れているのだろうか。
私たちにできることは何なのか、やるべきことは何なのか、考えさせられる1日目となった。