見出し画像

【掌編小説】バッティングセンターで夢を見る

仕事帰りに大きめの書店に立ち寄った。欲しい本があったわけでもない。ただ、家に帰るのが少しもったいなく感じただけだった。
数日前から続く激務に身体も脳も疲れている。家に帰ってご飯を食べ、風呂に入り、ベッドに入れば、きっと身体も脳も休まるだろう。それでも、家に帰るという行為は、今日という一日の終わりを意味しているように思えた。
「まだ終わらせたくない」
そんな小さな思いが、僕を本屋へと向かわせた。

新刊コーナーから、日本文学、海外文学、エッセイや実用書、漫画に雑誌。手に取るでもなく、大量の本たちを眺めるようただ歩いた。いったい世の中にはどれほどの本があるのだろうか。その全てを読むことなど出来るわけもないが、全てを読んだらどんな人間が出来上がるのだろうか。そんな妄想をしながら、ただ歩く。

ぐるりとひと通り店を歩いたところで、一冊の本に目が留まった。タイトルは『小説の書き方』だった。
小説の真似事のようなことをして物語を書いていた僕は、その本を見た瞬間、自分の書く文章が急に幼稚なものに思えてきた。それとともに、恥ずかしさと不安感が襲ってきた。
「そうか。きっと小説には書き方の基礎やルールがあるんだ。」
基礎もルールも知らないまま、何にも考えないで書いている僕の「小説のようなもの」。それは誰に教えられたわけでもなく、何かを学んだわけでもない。それは文学に対して失礼なのでは……。
野球のルールも知らないまま野球をやれないように、小説を書くなら小説のルールを知るべきなのかもしれない。
そんなことを考えて、その『小説の書き方』に手を伸ばしかけた。

けれど、その本を手に取ることはしなかった。
そういえば、僕は野球のルールを知らないままバッティングセンターに行ったことがある。フォームがどうとか、打率がどうとか、そんなことは考えず、ただ飛んでくるボールを打ち返す。それだけで楽しかった。
小説もきっと同じだ。ルールを知らなくても、ただ言葉を打ち返す。それだけで楽しいじゃないか。
今日もバッティングセンターでホームランの夢を見る。

〈完〉


【あとがき】
今回の掌編は、エッセイのような雰囲気で書いてみました。実は私、野球少年だったので本当はルールを知らないわけではありません。ただ、「ルール」という言葉が、創作における悩みや自由さを対比するのにわかりやすいと思い、この形にしてみました。

正直、私自身も創作の「最低限のルール」を知らないまま書いているので、お恥ずかしい限りです。後から読み返すと、もっとこうした方がいいかなと思う部分もありますが、それも創作の楽しさだと感じています。それでも、「楽しい」という気持ちを最優先にして書いています。

幸い、noteの中では皆さんがとてもお優しく、のびのびと自由に表現できることが、本当にありがたく、心から感謝しています。

もちろん、人を傷つけないことが大前提ですが、ルールを知らなくても楽しめることは、スポーツや音楽など、身の回りにたくさんあります。きっと小説もそのひとつだと信じています。読んでくださった皆さんが少しでも楽しんでいただけたなら、それ以上の喜びはありません。

これからも、言葉のバッティングセンターで、ホームランとはいかなくても、コツコツと打ち続けていきたいと思います。


読んでくださった皆さんへ!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ご感想をいただけると励みになります。

『国語の成績はそれほど良くなかった者』
ミノキシジルでした。

いいなと思ったら応援しよう!