茜さす 紫(ムラサキ)野行きは、誰に⁈
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茜さす 紫野行き しめ野行き
野守は見ずや 君が袖振る
茜色の匂っている紫野を行き、しめ野を行く。
遠くで君が袖を振っている。
その大胆な仕種を、森番は見ていないであろうか。
井上 靖(著)『額田女王』新潮文庫より
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額田女王が、天智天皇即位の年
天皇主催の宴会の席で詠んだという有名な愛の歌⁈
大海人皇子への愛の歌⁈
ほんとかなぁと、ずっとモヤモヤしていました。
井上 靖さんの『額田女王』を読むまでは。
私が未だ学生の頃は、中大兄皇子(天智天皇)と額田女王と大海人皇子(天武天皇)との三角関係の歌といわれていました。さらには、額田と大海人で、中大兄をコケにしているとも。え~三角関係にある人が、天皇主催の公の場で、こんなに堂々と恋心を詠むだろうかと。
今は、<宴席での座興>の歌ではないかとみなされているそうです。
本当に宴席での座興として詠んだとしたら、少しがっかりしてしまう。
少なくとも、神事に仕える女官であり、才能ある歌人であった額田女王には似つかわしくない。
時の実力者二人、中大兄にも、大海人にも寵愛されるほどの魅力的な女性が、場を盛り上げるために果たしてそんなことをするだろうか。
大海人皇子は、本気と座興をない交ぜにして、応答歌を詠んだのであろう。
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紫草の にほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆゑに 吾恋ひめやも
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ではなぜ額田女王は、茜さす 紫野行きと、あえて皆の前で詠んだのだろう。
井上靖さんは『額田女王』という小説の中で、袖を振っているのは大海人皇子だけれど、この歌は額田女王の <天智天皇に向けたメッセージ> だとしています。
ああ、そうかもしれない……
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(この歌は)曾ての中大兄皇子である天智天皇に呈するためのもの
誰に判らなくても、あなただけにはお判りの筈でございます。
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そもそも額田女王は歌才に恵まれ、時には天皇の命によって天皇に代わって歌を詠むこともあった。その額田が本当に詠い上げたかったものとは……
井上靖さんは<歌人>としての額田女王の願いをこんな風に書いています。
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心も体も全部投入し、大きくたぎり立つ思いの底から天地を揺り動かすように詠い上げて 行くことのできるもの……(略)……国の運命とか、民族の叫びとか、そうした個人を超えた大きなものに関したものであった。
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国の運命とか、民族の叫び
そういった<大いなるもの>を、天地を揺り動かすように詠い上げたい
― 中大兄皇子は御位におつきになる
この歌が詠まれたのは、長年、皇太子として摂政を行なっていた中大兄皇子が天皇に即位した年である。
中大兄が鎌足とともに、律令国家を目指して、おのがいのちを燃やしていること、その大いなる志しと苦悩の日々を、額田はよく知っている。
中大兄が背負っている<大いなるもの>の存在に、額田は否応なしに惹かれていたのだと。
ではなぜ「茜さす 紫野行き」が、天智天皇に向けてのメッセージなのか?
『額田女王』の小説では、こんなシーンが描かれている。
薬猟(くすりがり)と言われる行事である、琵琶湖の蒲生野(がもうの)での遊猟の時、額田は皆と離れて、紫草の生えている野を歩いて行った。
そこへ騎馬姿の大海人皇子が現われる。
一面に紫草の生える野原で、額田と大海人が二人だけで話していると、人々が近づく気配がして、大海人が急いで戻っていった……袖を振りながら。
額田がゆっくり振り向くと
「さして遠くないところを二、三十の騎馬の一団が遠ざかりつつあるのが見えた」
後で、侍女たちと合流した時に
「さっき原野を走り去って行った一団は、天智天皇と供奉の朝臣たちであった」と知るのである。
額田には「いきなり馬首を返して行く天智天皇の姿が見えるよう」であった。
中大兄は、大海人と額田が二人きりで話す姿を見て、お伴の者たちにも何も告げず黙って去っていったのだ。
双肩に国家を背負う天子としての中大兄
額田に思いを寄せる、一人の男としての中大兄
何も言わずにそっと立ち去った中大兄の胸の内を思い、額田は自分の胸も締め付けられるようであったのだろう。
「一行はそのまま王宮の中にはいり、湖の見える広庭に設けられている宴席の中に吸い込まれて行った」
広い宴席 かがり火
「やがて、今日の行楽に取材した歌を披露する時が近付いて来た。天皇の指名で最初の一人が立って自分の歌を披露する。次はその最初の詠歌者によって指名された者が立たなければならなかった。そして次々に前の詠歌者によって次の詠歌者が指名されて行く」
「いま天皇は自分の方に眼を向けておられるに違いないと思った時」
茜さす 紫野行き しめ野行き
野守は見ずや 君が袖振る
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誰に判らなくても、あなただけにはお判りの筈でございます。
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今日、こんなことがございましたのよ
その場に居合わせたであろうあなたは見ていらっしゃったのに、黙って立ち去ってしまわれたのですね
あえて皆の前で詠むのですから、お判りでございましょう。
ご心配なく、そのくらいのことでございます。
律令国家を目指す大いなる野望
熱い志しと、黙して語らぬ苦悩
民族の叫び……
そう、私たちは同志です。
それらすべてを……
これから先、あなたの命によって
この額田が詠い上げてまいりましょう。
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茜さす 紫野行き しめ野行き
野守は見ずや 君が袖振る
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決して、天智天皇をコケにしたのではなくて
ただ黙って立ち去ってしまわれたのでは
言い訳すらできないではないですか、と
額田女王は苦悩する中大兄へに告げているのだと。
焦がれるものは唯、<大いなるもの>
わたしはその賛歌を高らかに詠い上げますと。
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