演劇業界の「告発」運動と、ポストトゥルース的な言説について


演劇業界で、Twitter上での告発運動が再燃しているようです。
(この記事は、演劇業界のTwitterという過度にコンテクスチュアライズされた議論がトピックとして展開されているため、関心がない方は、読み飛ばすことを推奨します)

第三者機関が機能していない演劇界の現状を嘆きたい一方で、私は、過剰な被告者叩きには、賛同しかねています。
とりわけ、気になるのが、推定無罪の原則についてです。原則自体は、そもそも人権概念に含まれているものであり、推定無罪の原則を、実際的な必要性から蔑ろにする主張には、わたしは与することができないと感じています。

そこで、この記事では、推定無罪の原則という「人権」にとってきわめて重要な概念を参照しつつ、ポストトゥルース的に、すべてが加害/被害の軸に回収されていく論理について、批判的に考えてみたいと思います。
ここで述べることは、「人権」に関する議論の専門家からすれば、きわめて当たり前の主張をただ述べ直しただけに過ぎないのかもしれません。しかし、このような当たり前の主張を述べ直す必要性があるということを、最近になって痛感しており、非常につまらない話題ではありますが、ここに記しておきたいと思います。


まず、推定無罪の原則とは、なんでしょうか。
世界人権宣言を引用してみましょう。

第十一条
1 犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。
世界人権宣言(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html)

この世界人権宣言にも記載があるように、推定無罪の原則とは、公開の裁判によって有罪と確定されるまでは、すべての人が無罪とされる権利を有するという原則のことです。これは「人権」にとってきわめて重要なものです。この原則を蔑ろにしてしまうと、事実でない罪によって罰を受けるような社会になってしまうからです。

もちろん、告発者の「気持ち」は尊重されるべきです。そのことについて私は全面的に賛同します。しかし、そのために「人権」を蔑ろにしてしまっては、多くのものを失うことに繋がると思っています。
「気持ち」に正当性を求める議論を採用してしまうと、特定の差別的な言説(たとえば、「A国人は気持ちが悪いから排斥せよ」という言説)に対抗することができなくなってしまうからです。

ここで、もちろん「告発者の側の踏み躙られた人権はどうなるのか」という批判はありうるでしょう。告発者の人権は守られるべきだと、私も思います。しかし、被告者の人権もまた、彼/女が加害者であると確定しない限りは、同様に守られるべきでしょう。「推定無罪の原則」は、すべての人が生まれながらにして平等に持つ権利だからです。
(歴史上の全体主義国家は、このような権利を侵害してきたのでした。)

このようなことをあえて主張しなければならないのは、(繰り返すようですが)事実であると確定していない多くの方が、あたかも加害者として糾弾されている現状を目の当たりにするからです。これは、あとから事実だったことが判明するかどうかという点とは無関係で、目下、曖昧である事案に対して私刑を下してしまうということに関わる問題です。

このような流れの中に、真/偽よりも感情を優先させる、ポストトゥルース的な流れがあるということを見て取ることは難しくないでしょう。(念のため書いておくと、この記事で、運動は偽であると主張しているわけではありません。また、感情を蔑ろにせよと主張しているわけでも、ありません。さらに、告発者を萎縮させることも目的ではありません。真偽の曖昧な状態で、第三者的な立場の人たちが、被告発者側を炎上させようとする運動を批判しています。)

とくに、一部では、明らかに事実に反する言説(ある職能Xを持つ人全員が犯罪行為Yをすると断定するような、過度な一般化が施された言説)が、事態の緊急性という観点から、それなりに実績のある演劇人によって正当化されている向きもあるようです。まことに信じがたいことです。
そのような言説に代表されるような、ポストトゥルース的な地平においては、当然、多くの冤罪が生まれてしまうでしょう。また、真/偽に関わらず、加害/被害の軸を最初に持ち出してしまう議論においては、いずれが加害者/被害者であるのかが明確でないような(曖昧な)事例が、強引にその対立軸に組み入れられるか、見逃されるかしてしまいます。
特性の属性を持つ人たちに対しての過度な一般化が、歴史上、多くの差別の源泉となってきたことを思い起こして欲しいと思います。

さらに、そのような言説の別の問題点として、管見の限り、性に関する本質主義的な立場を無自覚に採用していることが多々あるという点があるように思います。たとえば、告発運動の参加を促すイラストなどの表象のなかで、加害者を表す記号としてペニスが描かれることは、その象徴でしょう(ここで引用はしませんが、演劇業界においてラディカルに運動を進めようとしている方が描いているような表象を想定しています)。ペニスの有無は、加害性の有無とは全く別の次元で捉えるべきだと私は思います。本人が選んだのではない生物学的要因に加害性を帰属させることは、これもまた、差別的な論理であり、断じて許されるべきものではありません。
(また、別の問題点として、受け手に特定の感情を抱かせるために、ペニスが描かれた表象をアイキャッチ的に投稿すること自体、私はポルノ的だと思いますし、それに対する批評性を描き手が持ち得ていない点については、芸術家として批判されて然るべきでしょう。)

わたしは、抑圧されている側が現状を変えるために社会運動を起こすこと自体には、その意義を強く認めたいと思っています。他方で、そのことが必然的に孕みうる暴力性に関して、運動へのあらゆる参加者が自覚的であるべきだとも、私は思います(それは、拡散する方も同様です)
ある加害者Xを事実関係が蔑ろなまま告発し、仮にそれが冤罪だったことが発覚したときには、参加者の何人たりとも、その責任を取ることはできないのですから。

たしかに、「加害者が自殺したらどうするんだ」という類の(よくある)批判に対して、告発側がいちいち与する必要もないというのもその通りだと思います。しかし、彼/女が自殺したとして、そもそも加害者でなかった場合、どうするのでしょうか。再び、彼/女を「(冤罪の)かわいそうな被害者」として括り、他方の極に新たに形作られた「暴力的な加害者」を袋叩きにするのでしょうか。革命のためなら多少の犠牲はやむなしとする考え方で、本当にいいんでしょうか。
告発者/被告者と、加害者/被害者との、二つの軸を混同せずに論じるべきなのではないかと思っています。


以上のすべての点に通ずることですが、(ことに演劇業界のTwitterにおいては)運動を通して、問題の過度な単純化と、その結果恣意的に設定されたフレーム(二項対立)への押し込めがなされているという印象です。
そもそもが複雑な問題について、過度に単純化されたフレームの中で捉えようとする運動は、その単純なフレーム内では記述されない暴力性を、半ば無自覚に孕みうると思うのです。(たとえば、加害者/被害者のいずれにも該当しないという意味での非当事者に対して、意見を出さないこと自体を批判するというのは、単純化したフレームにあらゆる存在を押し込めようとする行為であり、暴力の一形態だと私は感じています。)


ここで、「運動の批判ばかりしていないで対案を出せ」という(よくみる)ご意見もあるかもしれませんが、そんなに簡単に(140文字の世界で)対案を出すことができたら、そもそも問題は複雑化していないでしょう。

とはいえ、解決策の一案として、試みに以前このような記事を書いたこともあったのでした。
しかし、これらの記事で示唆した解決方法で問題が広域的に解決されるのかどうかはわかりません(他方、局所的な解決の一端にはなるかもしれません)。そもそも、演劇業界には、業界として未成熟なところがあり、一元的に何らかのアクションを取ること自体に困難さがあるからです。(この点は、佐藤郁哉「現代演劇のフィールドワーク」で明らかになった1990年代までの業界の問題点を、2020年代の今も引きずり続けているという事実でもあるでしょう)

管見の限り、相談可能な第三者機関というのは、こと演劇業界においては、選択肢として限られています(何かあったらここに相談すればよいという、専門的な調査能力を有する包括的組織がない、ということでもあります)。
この点は、演劇業界の業界としての未成熟さの現れであり、第三者的な調査機関を設ける必要性は私も感じています。しかし、だからといって、そのことは、現状のポストトゥルース的な運動(真偽を蔑ろにする運動)を受け入れてよい理由にはならないはずです。


この記事は、論争することが目的ではなく、そもそも「運動」的なモノとどう距離感をとって良いのか迷っている人に向けて書いていたつもりなので、ひとまずここで筆を置きたいと思います。
私は、被害者の方が多くの場合必要な支援を受けられず、他方で被告発者が真偽の定かでないまま私刑に晒されている現状について、とても心苦しく思っております。一刻も早く、すべての人の人権が尊重され、建設的に議論が展開できる業界になることを願っております。

追伸
有志の方が相談先リストを作ってくださっているようです。こちらもぜひご参照ください。
「舞台芸術関係者向け性暴力•ハラスメント相談先リスト」
https://harassmentmadoguch.wixsite.com/list

また、こちらも参考になるかもしれません。
「表現の現場調査団」
https://www.hyogen-genba.com/links

追伸(2022.11.15)
この記事は2022年の6月16日に公開したもので,やや現在の状況と食い違っている部分があるように思います.学術的な水準から言えば,もしかしたら,いろいろ問題含みかもしれません.
また,本文冒頭で述べているように,あくまで「演劇界隈」という特殊な運動について論じたものであり,一般化した主張を組み立てようとするものではありません.

とはいえ,この記事を改めてシェアしたのは,現在,演劇界隈で「人権派」を名乗るような人たちが,Twitterを中心に跋扈させているトランス排除的な言説は到底受け入れがたく,それらの運動が6月の時点ですでに持っていた暴力性について議論を深めるための一助になればと思い,今になって,改めてシェアさせていただきました.
ハラスメントがなくなり,演劇業界が,健康的な業界になることを願っております.

追伸(2023.12.24)
本論の主張を、再度明確にしたいと思います。

本文中でも繰り返し述べていますが、本稿の眼目は、そうした拡散していく運動が、半ば無自覚に持ちうる「暴力性」に対する批判にあります。
わたしは、「推定無罪の原則」という(自然)法的な原則が、いつでも例外なく正しいと主張するつもりはありません。
時として、遵法精神よりも大切にすべき、倫理観・正しさは、当然、あるでしょう。(そうでなければ、合法的に成立した独裁政権を転覆させることはできなくなります)

ただし、そうした遵法精神に先立つような正しさ・倫理観をもとに誹謗中傷を行なうときには、法的に許容される行ないを超えているのだという自覚を、運動の参加者全員が持っているべきだとも思うのです。
(繰り返すようですが、これは、法システムに準拠せよという主張ではありません。むしろ逆で、法を超えているという自覚、および、法を超えたことに対する説明責任を伴っている限りにおいて、法を超えることも選択肢としてありうるだろう、ということを書いています。わたしも、現状の法律は、戸籍制度や婚姻制度等、いろいろ問題含みだと思っています。)

自然法によって保障された権利を侵害しながら、第三者がネットリンチを通して私刑に処していくということには、私は、それなりに覚悟と責任が必要なことだと思うのですが、色々な意味で、「正義」が暴走していることを私は危惧しています。

また、(これも当たり前のことですが)推定無罪の原則を主張したからといって、被告発者の無罪を主張することには、なりません。
驚くべきことですが、これも(Twitterで「社会運動」している)演劇人のなかでは混同されているという印象です。

わたしは、あくまで、推定無罪の原則を主張しているのであり、この記事の中で、特定個人に関する有罪/無罪に関しては一切推測していません。(個人的な憶測を言えば、ほとんどの告発されている演劇人は加害者だろうとも思います。)

こうしたことを、わざわざ追記しなければならない(推定無罪の原則を主張するだけで批判されることがある)ほど、人も構造も未成熟な業界であることに絶望しますが、ひとまずここで、この追記の筆を置きたいと思います。


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みなと
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