ささやかな木曜日
今年に入ってから、木曜日と日曜日を休みの日にすることにしている。
ほんとうは毎日、研究なり、執筆なり、進められたらいいのだけれど、週に2回は休まないと、どんどん頭が働かなくなっていって、一日パソコンの前でぼんやりしていることにもなりかねないから、いけない。
だから、今日はお休みということにして、コーヒーなんか飲みながら、こうしてnoteを書いているわけであります。ごくごく・・。
昨年の梅雨、ドラマトゥルクとして関わらせてもらっていた、いいへんじ「薬をもらいにいく薬」(作・中島梓織さん)が、岸田國士戯曲賞の最終選考に残ったらしく。
あんまり近年の岸田國士戯曲賞に関心を持っていなかったのだけれど、やっぱり、身近な人たちの作品が候補になるというのは、嬉しいことだ。
わたしも1年くらい前までは、劇団に入っていて。
どう岸田國士戯曲賞を取って、カンパニーを大きくして、東京芸術劇場でやっていくか、みたいなことばかり考えていた時期も、あった。
(もちろん、戯曲賞は、あくまで[人ではなく]戯曲に対して与えられる賞だけれど、わたしは、その戯曲が書き下ろされたカンパニーや俳優・スタッフさんたちの力も大きいと思う。だから、わたしは、そのときはカンパニーとして取りたかった。)
戯曲賞を取るだけで、劇評家の人や記者の人が来てくれたりすることもあるわけで、たくさんの人に自分の好きな作品が広がっていくことは、それ自体、嬉しいことだなあと。
そして何より、カンパニーが評価を得ることで、一緒に演劇をやっている仲間の「続けやすさ」が、全く変わってくるだろうなあと。
ただ、近年は、わたしの側でも、業界での評価(賞しかり、動員数しかり)にかなり思うところはあって、戯曲賞的なものへの憧れは、どこかに消えつつあります。
それは、数年前の審査をめぐるドタバタの問題や、過去の受賞者の問題のある行為の問題など、さまざまあり・・。(審査員は過去の受賞者でなければいけないという、審査員に関する規定を廃止しない限り、男女の受賞機会を均等にすることなんて難しくないか、と私は思ってしまう。これまでの演劇界で評価された人が、新たに評価されるという構造である限りは、どうしても選考の過程は保守的になってしまうと思う。なぜ、リベラルな作品を作っているひとたちが、そこにアファーマティブアクションを採用しないのか、わたしはよく分からない。)
だから、そうした賞よりも、時代の閉塞感に一石を投じてくれるような作品が見たい気が、最近はしています。
Twitterしかり、動員数しかり、どこそこに劇評が出たとか、なんとかの賞を取ったとか、そういうことではなく、自分たちが、その作品を作るという過程に、まことの意味で誇りを持てるかどうかが大切だよなあ、と。
そのためには、(起きうるハラスメントへの対策は前提としたうえで、)価値観の差異に基づいた対話を恐れず、また、予定調和の溶け合いを対話と取り違えないことが重要だと、私は思うのです。
どこかにあるべき正解を探るのではなく、私たちにとってのひとまずの正解を私たちで、とりあえず仮置きしていくという構えこそが、ほんとうは、大切なはずで。
新書に書いてありそうなイデオロギーに毒されずに、芸術を通して、価値の先端を見せてくれるような作品が、今年は、見てみたい。
コーヒーを飲み終わってしまったようですので、このへんで・・。
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