2019年8月11日の、日記
このnoteで、詳しくなにかを語ろうとは思わない。
他人に見せるべきものなのかどうかも、わからない。
だから、このnoteは、読み飛ばしてもらっても、いいかもしれない。
これから書くのは、2019年8月11日につけた、わたしの日記の焼き増しである。(わたしは毎日日記をつけている)
これは、いま書き記さなければ、いつのまにか、全てなかったことになってしまうような気が、わたしにはしている。
そして、よくわからないけれど、日記だけではなくて、ここに書くのが正しいような気もしている。だから、ここに書く。
ここで書くのは、その日のわたしの日記の、焼き増しである。
今日は、上野恩賜公園で演劇をさせてもらった。
「ほゑあ・いず・つん」という犬の演劇。
亡くなってしまった、西郷の愛犬「つん」を、犬たちが探すという物語。
わたしは、英語の字幕を持って立っていた。
字幕は、シェイクスピアからの引用である。
To be, or not to be: that is the question.
Life is but a walking shadow.
The world is still deceived with ornament.
You gods, will give us. Some faults to make us men.
We know what we are, but know not what we may be.
The valiant never taste of death but once.
Life is as tedious as a twice-told tale.
All the world’s a stage, And all the men and women merely players.
ぜんぶ、良い加減に、適当に決めた。
良さそうなシェイクスピアの台詞を、ほとんど思いついた順に引用した。
なんでシェイクスピアになったのかは忘れた。
子供たちにも救われて、上演はけっこううまくいった、と思う。
大和が書くように、奇跡的な上演だったのかもしれない。
演劇のあとは、盆踊り大会。
盆踊りは、死者を供養するためのものらしい。
この盆踊り大会は今年、半世紀ぶりに、上野恩賜公園で行なわれた。
わたしたちは、すごく頑張って盆踊りをした。
主催者の心意気をしっていたから、お祭りを盛り上げたかったし、
半世紀ぶりだとしたら、死者たちも必死にやってほしいと思っているはずだから。
盆踊りは終わる。
「お兄さん、すごい汗ですね」
「いや、お兄さんも、ナイスファイトでした」
「あはははは、」
ある人、と出会った。
わたしは、演劇や美術をやっているひとが、嗅覚でわかるところがあって、そのひとも、よく話してみると演劇を観る方、らしかった。
「お兄さんはぺぺぺの会の方ですか」
「あ、そうですそうです」
「僕、今日のは観られなかったんですけど、今日ここに来て、たまたまぺぺぺの会さんがやるって知って。あぁ、もうちょっと早くくれば良かったなあって」
「え、なにで、ご存知になったんですか」
その人とわたしのあいだに、共通の友人、がいた。
わたしの高校時代の演劇を観てくださっていることが判明し、
その方の高校の卒業公演を、わたしは観ていた。
奇跡だと思った。
・・・以上が、その日の日記である。
何も、それらしい奇跡は起きていない。
でも、あのとき。
なにか大きな力が、わたしときみの間に生じていたのはたしかで、出会ったという事実以上の真実がそこにはあったようにも、思う。
これは、ここに書くべきことでもないのかもしれない。
でも、なかったことになってしまうのが、よくないような気がしていて、それは日記に書くだけでもいいような気もするのだけど、それでも、なにかここに書くほうがよいような気が、どうしてもするので、だから、ここに書き記します。
今日は上野の本番。思いつきでシェイクスピアの英語訳を取り入れたら、うまくいってよかった。シェイクスピアのお世話になってしまった、すごい劇作家だ。子供たち、犬を触っていた、かわいかった。子供たちのおかげでうまくいった節もある。それから盆踊りを激しくやった、とても疲れたけれど、楽しかった。フェスに行くのって、こういう感じなのかもしれない。すこしでも盛り上げられていたら、さいわい。盆踊りがおわったあと、たまたま隣で話した人が、いつ僕を観てくれていた人だった。○○さんのつながりで、ぺぺぺの会も知っていたらしい。これは、奇跡だろう。一生懸命盆踊りしたから、神さまがご褒美をくれたのかもしれない。神は、いる、と思った。(2019/8/11 すずきみなとの日記より)
神がいるかどうかは、今は、わからない。