踊りを巡る断片集
ゴールデンウィークは、兵庫県豊岡市出石町で「しんしんし」のオープニングイベントに参加していた。いや、「しんしんし」をひらいた。
「しんしんし」とは、知念大地さんと藤原佳奈さんのユニットのことだ。「踊りを〈わたしたちの存在を照らす術〉と捉え、公共に踊りをひらく活動」で、もともとあった大きな古民間を改装して、庭に「踊り」の舞台を作って、あたらしい形での「公共(こうきょう)」のあり方を提示する、そういう活動。
踊りそのものは、いわゆる「舞踏」の文脈から眺めると理解しやすいのだろうけれど、「舞踏」だけからは捉えきれないように思う。
というのは、踊り手である知念大地さんのルーツが、「舞踏」などのいわゆる「芸術」に土壌があるのではなくて、大道芸という文字通りの「路上」にあるからだ。
去年、わたしは、新しく始めた活動よりも、辞めた活動の方が多かったように思う。いただいたお誘いも、なかなか私の身体が、以前のように「駆り立て」られず、ほとんど断っていた(すみません)。
今考えると、この「駆り立て」が問題だったのだと思う。
2020年くらいまで、私は駆り立てられるように(主に演劇の制作者として)アートに関わっていた。来た仕事は(今後の生活の心配もあったので、)ほとんど引き受けるようにしていたし、その仕事を引き受けることが、自分の今後のキャリアや、所属していた劇団の今後にとって、どういうメリットがあるのかも、よく考えてから決めていた。
逆から言えば、未来のキャリアが、今の私を決めていたのであって、私は駆り立てる側ではなくて、駆り立てられる側だったのである。(最近、やけにハイデガー的ですみません、特にハイデガー信奉者になったわけではありません)
ただ、これは、私だけが駆り立てられていたという話ではなくて、(演劇業界に関わらず)ほとんどの人が、駆り立てられているように思うのだよな。
そもそも、そういう「駆り立て」が嫌でアートに関わっていたはずなのに、気がつけば、みんな、駆り立てられている。
著名な演劇人の方に、「マグロのように生きるのだ」と言われたこともあった。だけれど、マグロは、どこにたどり着けるんだろう。作られた水族館の水槽のなかを回っているだけじゃないだろうか。
そういう「駆り立て」に対しての問い返しが、業界の内側からなされているようには私にはあんまり見えなくて、何か既存の大きなゲームのなかで、みんなで駆り立てられ合っているように見えてしまう。
今や、さまざまなもの(モラル・作家の人生など)さえ、積極的に「駆り立て」の燃料として消費されているようで、なんとも嫌な感じがする。目の前の(他者もしくは敵対者という)存在や、自分という存在を、党派や神経学的な問題へと閉ざして、「駆り立て」の素材にしてしまって、いいんだろうか。
どうして、私たちは、原発が爆発し、海の向こうで戦争が起こり、毎年3万人が自殺する世界で、あえて「芸術」をするのか。そこに芸術である意義はあるのか、と私は問い返したい。自己や他人の厄災、土地の履歴を素材として作品を作り続けるように、私たちは駆り立てられていないだろうか。
だから、そういう「駆り立て」から逃れるために、わたしはとりあえず、「制作」を名乗ることを辞めてみたのだった。
今、起こっているのは、演劇界隈含めて、社会全体の「路上」が、整理整頓されて「歩きやすく」なっている、ということなのだと思う。(「んなこと、人文系の人なら誰でも知ってらあ」と思われたら、すみません)
ただ、この「歩きやすさ」が大敵で、アスファルトが一度路上に敷かれてしまうと、アスファルトの外側は、元々歩くことができなかった空間のように見えてきてしまう。もっと言えば、アスファルトを敷いた何かの期待した通りに、ついつい歩いてしまう。その方が、「歩きやすい」からだ。「歩きやすさ」を代償として、わたしたちは「路上」を失いつつある。
演劇に関して言うと、演劇は、もともと「路上」サイドにあったような気が私はしているのだけれど、演劇の路上もどんどん整理整頓されていって、結果として、何のためにやっているのかよく分からなくなっているような気が、私はしてしまうのだよな。整理整頓された土台の上で社会を良くしていくのであれば、演劇よりもボランティアや社会運動の方が、たいていの場合、有益じゃないかと、私は思ってしまう。
整理整頓は、未来の何かしらのことを考えて行なわれるものである以上、結局のところ、未来にあると信じている何かへ対する準備なのであって、それと同時に、(「断捨離」という言葉が示しているように、)過去に(なってしまったと信じたい何かに)対する決別であるだろう。
だけれど、私たちは、過去の履歴を伴った「今・ここ」にある私の身体からは、逃れることはできないはずで。いくら未来だけに開かれようとしたところで、私たちの身体は、過去の履歴を必然的に伴っているのだから。
わたしは、(バク宙したり筋骨隆々の「前へ倣え」的な肉体ではくて、)そういう、彼/彼女らの過去の履歴を必然的に伴う身体そのものを演劇で見たいんだけどなァと常々思う。それは作品として評価するためではなくて、ただ、弱い身体が出会う直すための場として、である。
問題はむしろ、「役を演じない」身体をどう見つけるのか、ということになるだろう。「役」を演じることは、しばしば、身体の履歴を覆い隠してしまう。(もちろん、俳優の履歴が身体から滲み出ることは往々にしてあるだろし、そこに気持ちが動かされることもあるのだけれど、「滲み出る」と言えてしまうこと自体が、基本的には覆われていることを示しているだろう)
(補足:ここで言っているのは、演劇の「役を演じる」という話だけではない。私たちは、ほとんどいつも、何らかの役を演じてその場に現れている。たとえば、恋人の前で敬語を使わないのは、彼が恋人として立ち現れているからである。[もっと補足しておくと、その恋人が上司だった場合、会社では敬語を使うだろう。その場合は、上司として現れている。また、敬語で話すカップルもいるだろうけれど、そのようなカップルは「敬語で話すカップル」として言える。逆に、敬語で話さないカップルを「敬語で話さないカップル」と言うことはできない。この言葉の使い方の非対称性が、わたしたちがそのつどの何らかの規範のもとで、役を演じているということを示している])
「踊り」は、役を演じず、いかにして、そのもので在る・居るのかという問いに対する、一つの回答なのだと思う。
「役を演じない」というのは、実はそんなに簡単ではない。たとえば、ただ路上で寝転んでいると、すぐに規範からの逸脱として、(頭がおかしい人として)理解されてしまうだろう。「いかれた奴」という役の付与である(大地さんは昔、何回か路上で踊って通報されたことがあるそうだ)。
しんしんしの「踊り」は、役を演じることを辞めて、「ただ在る」ことをやるための、一つの端緒たりえる気がしている。つまり、いかに「役」に回収されずに、身体として「ただ在る」ことをし続けるのか、ということである。
「ただ在る」ことの体現として「踊り」があってはじめて、「踊り」を見る・聴く・触る・感じる者は自身の身体(あるいは、実存と言っていいのだろうか、こういうことは?)を思い出すのだろう。
そうした踊りを、開かれた場所に置く活動は、路上が失われている社会の中で、たしかに希望がある活動のように私には見えていて、私は今後も、踊りに注目し続けたい。
・・と、つらつら書いてみたとはいえ、ここに書いたことだけに帰結するのかというと、そうでもないような気がしている。
じつは、やり方を少し教えてもらって、私も少し踊ってみた。(こうやって「踊ってみた」と書くと、ニコニコ動画とかを思い出してしまうのは、私の世代かもしれない)
うまく踊れていたのか自信はないけれど、自分の身体の内に向けられた意識(のような何か)と、自身の身体が抱えてきた履歴のような何かが、内と同じ方向性を持ちながら、裏返って外側に向けられて開かれていくということも、あるのかもしれないということを、感じたのだった。(「裏返る」という感覚はなかったけれど)
(この「踊り」の内側からの記述も、いずれ書いていけたら・・と思う。サドナウの現象学的なジャズの記述のような形で。)
とはいえ、やっぱり、基本的には「踊り」を見たり聞いたり感じたりするには、その場に居合わせるしかないのだと思う。また、定期的に踊りはされるようなので、興味ある方は末尾リンクから、ぜひ。
もう少し、いろいろな話を整理して書ければと思うのだけれど、お腹が減ってしまったのでこの辺で。また思うことがまとまってきたら、ぼちぼちnoteに書いていきたいと思います。