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学校が無くても学べる、を証明する。

コロナウイルスの拡散防止のために、全国の学校が休校となった。まさに前代未聞。
巷では、オンラインによる学習の保障や、居場所の確保のために、本当に多くの人が奔走している。

その中で多分に漏れず、私も小学校教師として、オンラインで場を開こうとしているわけだ。
しかし、多くの実践やご意見を頂戴する中で、どうやら私が思い描いている「学びの在り方」が、独特であるということに気付き始めた。
それを整理するために、今回のnoteを書くに至る。

現状、「同じ場」で学ぶという選択肢が遮断されたわけだ。
それが今回の混乱を招いている根源。
しかし、そもそも「同じ場」にいなければ学びが実現しないというのはなんとも不可解な現象で、むしろ「同じ場」であるが故に学びが阻害される状況を現場で何度も経験してきた。
「同じ場」でなくても、学びは実現する。
それを証明するのが、現時点での私のミッション。

オンラインを活用した実践に、多くの自治体や学校が踏み切った。
それはもちろん、とても素晴らしいことだ。
それを前提として、敢えて自分の違和感を言語化させてもらうと。
わざわざ「違う場」になったのに、そこに「これまでのやり方」を移入させようとしていること。
学校で集まれない現状に、学校で行ってきたことをどれだけ具現化できるか。
それでは結局、学び方改革なんて起こらないじゃあないか。

「同じ場」で無くなったのだから、もはや「同じ時間」に「同じ内容」でやる必要も無くなった。
「同じ目標」を「同じ方法」で、「同じクラス」の中だけで学ぶ必要も無い。
これらを、やむを得ず「同じ」にしてきたのがこれまでの学校教育であり、その弊害を現場で感じてきた。
なぜ大人たちは、子どもの「ゆとり」を恐れるのだろう?
「教える」で、余白を埋めたがるのだろう?

私の勤務校では、日常的にテクノロジー端末を使用してきた。
文房具の一部のように使用できるし、アナログとの差異も経験してきた。
サイバー空間の怖さも、魅力も。
なんなら、これまでの普通の長期休みだってオンラインで使ってきたのだ。
私と、この子たちとだからできる実践がある。

子供たちが自己主導で、自分の学びをコーディネートして、遊ぶように学ぶ。
自分にあっためあてを立て、内省しながら学び、振り返る。
これまでの授業もそうしてきたし、自己調整力のある子になるよう育ててきたんだ。
ここで真価が試される。
繰り返しになるけど。
私と、この子たちとだからできる実践がある。

休校が終わり、よかったねー、やっぱりオンラインって使いにくいよねー、これまでの学校のやり方が一番だよねー、となる気がしてしまう。
そうじゃない。
今回の不幸を、私たち大人を含む全員が、学びの在り方をアップデートする機会にしなきゃ意味がない。

そんな実践を作るのだ。頑張る。

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ミノテショーゴ(ヒロック校長)
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