公共性は広場ではない、「ビルのような」公共性
01. 「ビルのような」公共性
上述の通り筆者にとって、公共的空間とは「公園」や「広場」、ないしは「原っぱ」のようなものではない。
公共的空間は「ビルのようなもの」であると捉えている。
より正確に言えば、「公園や広場、原っぱも各層に内包した、高速エレベーター付きのビル」が公共的空間だと考えている。
本テキストではその「ビルのような」というメタファーで考える公共性について考えていく。
※注1:ここで述べる「空間」とは、物理的空間だけでなく非物理的な空間(例えばネット)、もしくは観念的な空間(例えば人間関係)を多分に含んでいる。建築界隈で公共性論が歪んで解釈されてしまう理由に、「物理的とは限らない空間」を語る公共性論を、物理的空間の現れとして建築側が読み解いてしまうことがあるので、以下のテキストでもこの点には注意されたい。
※注2:公共的空間と公共事業によって作られる空間は別のものである。公共的空間とは、平たく言えば「誰でも関わることのできる空間」のことを指す。分かっている人からしたら「そんなこと言われんでも知ってるわ!」って感じかと思うけど、一応言及。
まずは、「錯乱のニューヨーク(著:レム・コールハース)」で語られるような高層ビルのイメージを、公共的空間に当てはめてみよう(下図右)。
図1: APness論=「ビルのような」公共性
上図右は、様々な社会圏をビルのフロアのように積層するものと見立て、個々人の社会圏間の移動を縦同線に見立てたものだ。
ビルの各階層(社会圏=オルタナティブ・パブリックス(APs))は基本的に独立していて、それぞれの層ではそれぞれの物語・人間関係が展開している。展開している物語・人間関係は様々で、人は自身のその時の都合に合わせて各層をエレベーターなどの縦動線(物理的な移動、視点の変更)で自由に移動できる。
APs=オルタナティブ・パブリックス、つまり代替的な公共圏には、様々な空間が含まれる。
国のような巨大な空間もあれば、地域コミュニティや家族のような小さなもの、もしくは社会人サークルや学校の同窓生などの特定の場所を持たず関係性のみが存在するもの、あるいはSNSでのコミュニティなどの非物理的空間においての関係性、あるいは同一宗教信者や同一企業利用者・関係者といった未だ直説的な関係性はないものの潜在的には繋がりのある人々、などなど・・・大小性質関わらず、生活に関わるあらゆる関係性の構造がAPとして列挙されうる。
各層の空間にはそれぞれ固有の公共性が宿っている。重要なのは、この場合それぞれの空間に公明正大さは求められていないということだ。
「他の層と異なる個性を持っていること」
「経済的に空間が時続するためのシステムと努力が求められているということ」
そして「層間を自由に移動できること」
この3点こそが「ビルのような公共性」にとって重要であると考えている。
もし、ある社会・空間(APs)が監視社会であろうと、厳しい宗教の戒律によって制御されていようと、同調圧力によって息苦しかろうと、
その社会に属している人が納得しているのであれば、その社会・空間を否定することはできない。それは僕ら東洋人が南米アマゾン奥地の原住民の哲学にケチをつける権利が無いのと同じ話で、その人にはその人の理屈があるように、それぞれの世界にはその世界なりの理屈と道理があるということでもある。
・・・とは言え、「そのAPに自由に出入りできる」という権利だけは保持されていなくてはいけない。それさえ保証されていれば、もしその場所が辛ければ他のAPに逃げることができる。もしその空間がみんなにとって辛い、価値のない社会・空間なのであれば、自由競争によって自然淘汰されるだろう。
このような公共性のスキームを、筆者はAPness(オルタナティブ・パブリックネス)論と呼び、「企業の公共性」を考える手がかりとしている。
02. ハンナ・アレントとAPness論
ここまで駆け足で「ビルのような」公共性について述べた。
公共的空間を広場のメタファーで馴染んでいた人にとっては突拍子もないイメージに聞こえるかもしれない。しかし、筆者はこのAPness論が唐突に現れたものだとは考えていない。なぜなら、この論も従来の公共的空間のイメージと同じく、ハンナ・アレントをはじめとした既存の公共性論をベースにして考えられているからだ。
上記の通り、アレントは「出現の空間」こそが公共的空間の様態であり、それによって人々はリアリティやアイデンティティを樹立できると述べている。このような公共性の理想そのものは、「広場」のメタファーであろうとも「ビル」のメタファーであろうとも違いはない。ただ、目標に達成するための方法や、公共性論から導出する空間の枠組が異なるだけだ。
前回「企業の公共性」について書いた記事ではその点、つまり「オルタナティブ・パブリックネス(APness)論」と既存の公共性論との関係については省いたため、今回はアレントの「人間の条件」等からどのように「APness論」、つまり「ビルのような公共性」が導出されるかを整理したいと思う。
概念的でやや小難しい内容になると思うので、「ゴタクは結構!結論だけ知れれば十分!」という方は次々章「05. 具体的な生活で見る「ビルのような公共性」」まで飛ばしていただければと思う。
03. ハンナ・アレント「人間の条件」をまとめてみる
筆者が言うまでもなく、「人間の条件」はハンナ・アレントの代表的な著作であり、人間・政治・社会・行為についてのアレントの思想が濃密に記された名著だ。
実のところ、この日本語訳の著作には「公共性」や「公共的空間」という言葉は一度も出てこない。しかし、斎藤純一などの後の論者によって、この著作の内容、特に「出現の空間」が公共性・公共的空間にリンクさせて論られている。そのため本テキストでも、「人間の条件」を公共性論の原典として扱いつつ話を進めてみたい。
まず「人間の条件」における「公的領域」と「私的領域」について整理する。
2つの概念はアレントの公共性論にとってとても重要なもので、「公的領域」は他の人に見られる空間として、「私的領域」は他の人から隠される空間として定義されている。
このように「公的/私的」は「見られる/隠される」に対応し、またこれは「ビオス/ゾーエ」「公共性/(生命にとっての)必要性」といった二項対立とも対応する。
これらをザックリまとめると以下のような図式が作れる。
まず、「世界」という人間の領域があり、その周辺を「自然」という超人間的な領域が取り囲む。世界は複数の「公的領域」によって占められ、人々はそれぞれ異なる立場や視点(「遠近法」)から世界に関わる。そして、各公的領域は境界線を持つものの、「人間関係の網の目」が無限に繋がっていくことで、境界線は焼失し、1つの大きな公共的空間(出現の空間)となる。一方、人間の生命活動は「私的領域」によって影ながら維持され、そこは世界から隠されている。
図2: アレントにおける公的領域と私的領域
しかし、現代においてはその公的・私的領域は「社会的領域」によってまるっと飲み込まれている、とアレントは批判する。
社会的領域においては、公的領域で期待されるような公共性は現れることはなく、人間はただただ、社会の要請に従った「行動」をすることになる。生活のため、会社のため、学校のため、もしくは国の文化的規範のため、決まりきった行動をみんなが同じように行い、そこには自由な意思も行為も存在しない、ということだ。
図3: アレントにおける社会的領域
社会的領域の台頭の結果、「親密圏」というものが存在感を示すようになる。これは「家族」「地域コミュニティ」「特定の趣味の繋がり」のような、有限数による人間による特定の関係性を指し、公共的空間には及ばないものの、限られらメンバーの内で気兼ねないコミュニケーションができるというものである。
(親密圏に関しては、斎藤純一の著作「公共性」より補足させていただく)
図4: アレントにおける親密圏
親密圏は定義上、メンバーを限定する境界線やクセのある文化的規律を持つものの、コミュニケーションが不足し離人症化した社会的領域において、一種の処方箋として機能していると言える。
ここまでがアレントの「人間の条件」、およびその周辺で語られる公共性の理想、および現状への洞察である。この著作はすでの半世紀も昔に書かれたものであるが、その洞察の鋭さから、現代でも依然として有効な内容であると言える。
04. アレントから「ビルのような公共性」へ
次に、アレントの公共性論から「ビルのような公共性」を考えるべく、もう一度、アレントの公共性論の原理・原則である「公的・私的領域」の図に戻ってみよう。
図2: アレントにおける公的領域と私的領域
ここで注目したいのは各公的領域を形作る「境界線」の存在だ。
前章では「境界線」は消失するのもとした。しかし、現実的には社会的領域における親密圏のように、(位置が変化し続けるものの)圏域の内部を維持するための境界線が常に存在するのは明白だ。それは以下のアレント自身による言及からも読み取ることができる。
このように、アレントが出現の空間の雛型として考えるギリシャのポリスにおいてすらも、内部の公共性を維持するための境界線(建築・法)が存在する。つまりこの「境界線」にまつわる理想と現実のギャップは、現代に始まった話ではなく、歴史上常に付き纏う公的領域の問題であるということができる。
そこで、本論「APness論」では、境界線の存在をより強く意識し、公共性論を現実に即して捉えなおしてみたいと思う。
図5: 各領域の境界線の強調
それぞれの公的・私的領域は明確な境界線を持ち、半ば独立した世界を持っている。
もちろん原理的には全ての領域は何かしらの関係性でつながっている、とも考えられるのだが、
その関係性の全体像を捉えることができるのはもはや超越論的な神の視点であり、人間一個人から見れば、自分がいくつかの領域に常日頃関わっているという方が実感にフィットするのではないだろうか。
そして、このように境界線が明確になることで、「公的・私的」という分別はキャンセルされ、シンプルに「それぞれが個性を持った領域(=オルタナティブ・パブリックス(APs))」として並列される。
図6: 各領域の並列化=オルタナティブパブリックス(AP)
APsには、国・家族・地域コミュニティ・友人関係・特定企業における繋がり・ネット上の関係性などなど、大小のスケール、もしくは物理的・非物理的空間の如何に関わらず、すべての関係性と場所のセットが含まれる。
それぞれのAPは個性や辿ってきた歴史が違うだけで、大小によって優劣があるわけでもなく、それぞれがそれぞれのあり方で需要がある。その反面、全ての人を受け入れられるような無限に懐の深いAPは定義上存在せず、人々は複数・多数のAPに所属しつつ、AP間をシュンシュンと自由に移動しながら、それぞれのAPでのそれぞれの関係性を享受する。
そして、それぞれのAPで別の人格(「分人」)を持つ。
図7: 複数の領域(AP)に所属する人物と「分人」
「分人」という概念については、筆者もまだまだ勉強中のため今回は深くは取り上げることはできないが、下記のブログにて公共性と分人について語られているので、より詳しく知りたい方はチェックしてもらいたい。
これを一個人のAPへの所属の仕方に絞って見てみると、各APがビルのフロアのように積層し、個人がエレベーターを使うかごとく、自由に縦移動を繰り返す図が見えて来る。これが先述より繰り返している「ビルのような」公共性だ。
図1: AP論=「ビルのような」公共性
05. 具体的な生活で見る「ビルのような公共性」
ここまで観念的な話が続いているので、少しでも話を分かりやすくするために具体的な生活像で「ビルのような」公共性を説明していみたいと思う。
架空の人物Aを想像してみよう。
彼は妻と子供の3人家族(APn+5、下図参照、以下同様)だ。まだまだ活気のある商店街(APn+2)に面した家に住んでおり、隣近所と持ちつ持たれつの関係を築いている。
また、彼はある大手企業(APn+6)に属しており、平日の日中は企業内の派閥闘争に巻き込まれつつ、気を揉みながら過ごしている。また、彼はあるプロジェクト(APn+1)のリーダーとして、他企業のメンバーの中心的役割を担っている。メーカーや商社、クライアントなど様々な利害を持った人たち間に立ち仲介役を行なう、オブザーバーのような立場だ。
多忙な彼は、仕事に向かう前には必ず一時間行きつけのカフェ(APn+4)に寄ることが日課となっており、そこでその日のタスクを整理したり、頭をリフレッシュしたりする。仕事のストレスが溜まって疲れた時は、帰り道にある公園(APn)に寄ってボーッとすることもあり、他にも、週末は自身が主宰する社会人サークル(APn+3)のメンバーとフットサルに興じたりもする。
休日は家族と過ごすことが多いが、sns同業者コミュニティ(APn+8)を覗いたり、あるいは自身が信じている宗教(APn+7)の集会に参加したりもする。
・・・そしてこれを絵に起こしてみると以下のようになる。
図8: 「ビルのような」公共性の具体例
(nは任意の自然数であり、ここで取りあげたAPがあくまで彼の生活のほんの一部でしかないということを意味していると捉えてもらいたい。)
彼は日常的にこれらのAPを行き来しながら生活をしている。
それぞれのAPには固有の輪郭線と関係性があり、それがAPの個性(と限定)を形作っている。そして、その間を自身の都合に合わせて自由に縦移動できることが、彼の円滑な生活を支えている。
また、仮に彼が所属する会社から彼が転職することになった場合、それによって彼の生活やアイデンティティが脅かされることはなく、スムーズに別の企業、つまり別の必要なAPに移動することができる。
図9: もしもあるAPが壊れた時、層間移動の重要性
このように、人物Aのアイデンティティにとって大切なのは、公明正大かつ永続的な世界に所属するは彼にとって大切なことではないし、そもそもそんな空間は存在し得ない。そうではなくて、出来る限り多種多様な小さな世界(=AP)に所属し、自由に移動できることこそが彼の人生をより豊かにし、公共的空間の理想に近づくことになる。
つまり、APness論においては、「1つの偉大な世界の実現」以上に「多種多様な世界間の自由な移動の実現」こそが、目指すべき公共性の実現につながる。
06. 「ビルのような」アイデンティティ、「ビルのような」建築
ここまで「ビルのように」多層的な構造を持つ公共性について話してきた。この構造は前述の通り、「分人」概念を用いた多層的なアイデンティティの構造にも密接にリンクし、また建築家としての筆者の建築観(「ビルのような」建築)にも繋がっている。以降では、簡単にではあるが、その2点について考えてみたいと思う。
「ビルのような」アイデンティティについては前述の通り、各APに対応した分人を行き来するアイデンティティの構造を指す。
図10: 「ビルのような」アイデンティティ
「個人」の自我という一元化したアイデンティティではなく、その場所、その関係性に適応した人格(「分人」)を複数多数持ち合わせているという人格構造であり、心理学では「自分の非連続性」として、5円玉とヒモで例えられる話と一致する。この場合、どこか特定のAP、例えば「自分は日本人である」ということがアイデンティティの根っこに位置することはなく、むしろ、「日本」も含んだ各APの間をシュンシュンと移動している状態それ自体がアイデンティティの構築につながっている。ボーッとしている(=どのAPにも所属していない)時こそが自分を自分として感じ、自分を再構成している時である、と考えることもできるかもしれない。
「ビルのような」建築は、ビル自体が特定のビルディングタイプを指すので妙な言葉に映るかもしれない。これは、ビルのような「建築概念」「建築観」という意味なので、全ての建築物がビルになれば良いと言っているわけではない。
図11: 「ビルのような」建築
ここでビルのように積層するものは「コンセプト」やその「概念構造」もしくは「特定のモノゴトの関係性」である。
建築は様々な関連の中にさらされる複雑な存在だ。そのため、コンセプトなどの概念構造のまとまりを駆使することで、複雑怪奇になっていく建築全体の情報を制御する必要が出てくる。またこれは設計者だけでなく、建築物を管理し使う人にとっても重要なことだ。建築物がどのような意図をもって作られたかが分かりやすければ、どのように使い維持していくかが明確になるからだ。逆にそうしないと、複雑な関係性の中でいつのまにか建築物が壊れてしまったり、いつのまにか使い物にならなくなっていたりする。
このように、建築の情報管理全般にとって必要な構造化されたまとまりを一括して「CSR(=Concept / Structure / Relation)」と呼ぶ。すると建築は、相容れない多数のCSRが関わって出来上がっていることが分かる。例えば、クライアントにとっての建築のあり方と、地域にとっての建築のあり方、物理的な構造合理性にとっての建築のあり方が全て矛盾しており、その間を取り持って全てに対応する建築物を設計者が捻出することを想像してみよう。この場合、1つの建築観に従って、他を蔑ろにするのではなく、各建築観の相容れなさを共存させられたほうが、建築物の価値は高まるし、それこそが建築家の腕の見せ所なのではないだろうか。
筆者は、より多くのコンセプトや世界観、関係性をそれぞれ独立した形で内包できることこそが、その建築の価値に繋がると考えている。原理的にはコンセプト同士には優劣はない。現時点でのある視点から見た時に優劣を感じることはあっても、理屈づけられれば、どんなコンセプトも関係性も有意義なものになりうるし、逆に事実無根の無価値なものにも成り下がる。
そのため、建築にとって大切なのはコンセプト(CSR)ではなくCSR達を独立させつつ繋ぐ「紐(図中の縦線)」であると考えている。この「ビルのような」建築観については、また次の機会に詳しくは考えてみたいと思う。
最後になったが、本テキストではアレントの思想を筆者の理解に合わせて図式化しているが、元のテキストはより深い内容であり、様々な解釈に開かれたものとなっている。
もしアレントの思想に興味がある方は、本テキストだけでなく、アレント自身の著作に触れてみることをお勧めする。
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MACAP代表 西倉美祝
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