エロい話はホラーぐらい怖い〜「性」にまつわる強迫観念〜
「性的な事柄」に対する強迫観念
強迫性障害にとって、暴力的な内容や、死、病気にまつわる強迫観念は比較的有名だと思う。しかし、「性的な事柄に対する強迫観念」はあまり話題に上がらない。
しかし、不快で不安感をもたらす性的なイメージによる強迫観念は、強迫性障害の症状の一つとして多くの人に存在する。これまでにも何人かの患者が症状について告白している。
とはいえ、あまり大っぴらに話せるような話題ではないからか、この症状について話している人は私が知る限り見当たらなかった。
なので、思いきって私から発信してみようと思う。
エロはホラーくらい怖い
私は「エロい話」が怖い。エロにまつわるものはちょっとした下ネタ(性器の名前を口にするとか)から、体験談までどれもめちゃくちゃ怖い。エロを連想するものも無理。手を繋ぐとか、キスするとか。もはやエロじゃないじゃん。手を繋ぐのすら「まぁ!お下品!」なんて叫ぶのは、明治時代に遡ったぐらいの貞操観念である。我ながら時代に逆らって生きてると思う。
しかし怖い。だから嫌だ。不快だ。そう思ってしまう。
しかしながら、性表現、性描写、性にまつわる事柄は、生きていたらそこら中に転がっている。
ドラマをつければキスシーン。映画の濡れ場。電車でイチャつくカップル(爆発しろ)。さらにはネットコラムを読めば現れる漫画のバナー広告はエロシーン(なんでわざわざエロシーンばかりピックアップするの!)と来たものだ。逃げられない。あいつらはどこまでも追いかけてくる……。
エロにまつわることを見るたび、不快な強迫観念が引き起こされる。それが怖くてさらに嫌いになる。避けようとしても避けきれなくて被弾する。不安になる。そしてまた嫌いになる。考えたくない。次に目にするのが不安で仕方ない。だんだん怖くなってくる。エロが怖い。性的なことを目にするのが怖い。話を聞くのが怖い。想像するのが怖い。
「純粋なんだね!」だと?ブッコロすぞ!
こういう「エロいことが嫌い(苦手)」と言うと、なぜか清楚系だとかぶりっ子だとか、純粋だとか言われる。いや違うんだって!私だって恐怖感さえなければ下ネタジョーク聞いてゲラゲラ笑ってたわ!
ではなぜこんなに性的な内容が怖いのか。
私が悩まされている症状は、だいたい以下の3点になる。
1. 会話している途中で、突然目の前の相手と性行為をしている想像をしてしまう。例えそれが先生だとか、嫌いな上司だとか、親だとか、友達だったりしても。セックスしたくない相手とのセックスを強制的に考えさせられるのは不快極まりない。
2. 突然自分が街中で裸になったり、自慰行為をしたり、獣姦したりするシーンが頭に浮かぶ。マジでキモいし、そんなことしたくもないはずなのにそういう行動をしてる自分を想像してしまう自分にうんざりする。さらに、誰彼構わず、突然誰かのセックスするシーンが頭に浮かんでくる。性的に興味ない相手のセックスシーンが強制的に頭に浮かぶのはマジで嫌。
3.性暴力を受けている女性、男性、子供のイメージが頭を離れない。
だいたいこの三つがずっとつきまとってる。症状が酷くなると、ちょっとでも、本当に小さじ一杯どころかお塩ひとつまみ程度でも「性的だな」と感じた映像や画像、言葉に接するだけでこういった症状が引き起こされる。大変不愉快である。
こういった症状は、性的なイメージを目の前にした時にも出てくる。だから性的なイメージに繋がる全てが怖い。
閑話休題〜ポルノ大国日本〜
余談だが、日本はポルノに寛容な国だと思う。ソフトポルノなんて規制すらされずどこにでもある。
少年漫画、少女漫画といった、10代の少年少女達の読み物すら性的なシーンが多分に含まれる。小学生の頃にはやった「恋空」にしろ、「僕の初恋をキミに捧ぐ」にしろ、エロシーン普通にあるよね。(この頃にはもう症状でてたのでちゃんと見てないから間違ってたらごめんなさい)
ジャンプ作品の「ゆらぎ荘の幽奈さん」という漫画を知った時は、「少年誌だよな!?」と驚きました。ぶっちゃけ。
ネットでは望んでなくてもソフトポルノが引っかかる。例えば、「新体操」(私は競技としての新体操を見るのが好き)と検索すると、びっくりするくらいポルノが検索結果に並ぶ。ほんとGoogle先生頑張ってくれ。
私のような強迫観念もちは、毎日のように被弾する。苦しい。避けようと思っても飛び込んでくる。社会はもうちょっと性的なことを隠してくれないだろうか……。
ともかく、こういった事柄を規制してくれ!と本音では思っているが、こういうことを言うと、いわゆる「表現の自由戦士」と自称する方々からは大いに批判を食らうだろう。
たしかに表現の自由は大事だ。しかし、表現の自由と公共の福祉というものは常にぶつかり合うものではないだろうか?あまりにも表現の自由のみが重要視されたいないだろうか?
自由と責任とは表裏一体である。公共の福祉とは責任である。責任を置き去りとした自由。それはもはや自由ではなく、暴走ではないのか。
私は法律に詳しいわけではないので詳細については詳しい方にお任せするが、しかし、日本は「公共の福祉」という観点に対して、あまりにもおざなりではないか、と思ってしまう。という、余談です。
恋愛は苦手だ
まぁそんなわけで、私は恋愛は苦手だ。なぜなら恋愛と性とは切り離せない問題だからだ。
正直、この文章を書いてるだけでオエッとなる瞬間がある。でもまぁリハビリだと思って書いてる。
誰だって、不愉快な性的イメージを強制的に脳内上映され続けたら、性的なことが嫌になるんじゃないだろうか。
少なくとも私は嫌だ。性的なこと全てが、不愉快で、気持ち悪くて、おぞましくて、恐ろしいものに思える。
ちなみにここまで読んで、私自身の性への恐怖心をもしかしたら性暴力や性被害から来るものだと考えた読者の方もおられるかもしれない。
先に言っておくと、答えはノーだ。
電車での痴漢とか、キャットコールとか。そういう経験は確かにある。しかし、それが引き金になっているかと言われるとそれは違う気がする。
この性への不快感は、恐らく「罪悪感」から来るものだといえる。老若男女問わず、時には既婚者、彼氏彼女持ち関係なく、生の対象として生理的に受け付けない相手も含めて、自分の脳内で性のイメージの対象としてしまうこと。その罪悪感と自身への不快感、あるいは自身の道徳心への不信感。そういったことが恐怖の根源にある気がする。
愛は全てを救うのか
こういう話を打ち明けると、「本当に心から愛する人ができたら、自然と性への恐怖心を乗り越えられるはず!」と、まるでディズニーの愛の魔法のように言ってくる人がいる。
断言する。それはない。愛が地球を救う?ふざけんなでございます。愛で救えたら今頃この世は24時間ハッピーライフよ!
「愛」なんて曖昧なものでは救えない。救ってくれるのは「治療」です。
最後に。
性的な事柄に対する問題はセンシティブです。今回の事例は私個人の問題であって、強迫性障害を持つ人みんなが同じってことは絶対にないということをご承知ください。
しかしながら、もし私と同じように性的なネガティブなイメージで苦しんでいる人がいたら。この私の告白が「あなただけじゃないよ」と伝えられるものであれば幸いです。