あるコンデジに寄せる挽歌
はじめに
きょう、リコーが死んだ。もしかすると一昨日かもしれないが、私にはわからない(カミュの『異邦人』ふうに)。
このリコーGRが動作不能になったのは一昨日の夕方、夕焼けを撮ろうとしたときなのだが、調べてみてメーカーサポート終了、とわかったのは今日のこと。つまり故障して修理不可能、とわかったのは今日のことだ。いずれにせよ、僕のリコーGRは死んだ。具体的には、電源を押すと一瞬ディスプレイが点いて2回モーターが回った後、すぐ切れてしまうようになった、ということだ。
実はこのカメラ自体、僕の手元に来てからは1年経って居ない。だがその「死」に至って、湧き上がる言葉がいくつもあるのはなぜなのか。
それは写真の撮り方を「革命した」カメラだったからなのだ。
スランプ脱出の手段でした、最初は
ヤフオクで落札して導入したのは今年の1月。当時「写真を撮ることが難しすぎて楽しくない、気楽に撮れない」と嘆いていて、なにか気分転換をさせてくれるガジェットを探していた。
そして、前々から欲しかった、このリコーGRに手を出してみることとした。理由はいくつかあるが、まず自分に「写真の撮り方」で、いや「世界の見かた」で大きく影響を与えている、森山大道の使っているカメラがこれだったということ。
僕は「誰が使っているか」で道具を選ばないが、かといって性能至上にもなれない。腕時計でも、筆記具でも、調理用具でも、エアガンでも。ただ「自分が使っているイメージがしっくり来るか」ということと「デザイン的にどうか」ということで選んでいる。
カメラも、基本的にはそうだ。焦点距離やF値や画角、像の写り方をスペックとして読み比べて、あるいは実際に試して自分の今求めているイメージ(あるいは足りないイメージ)に合うかどうかを試す。だが『モリヤマ』という言葉が出ると―めっぽう弱い。彼が使っているから自分も使う、というわけではない。ドキュメンタリーの中で、同氏がリコーGRを持って楽しそうに写していたから、僕もリコーGRにしぜんと憧れ、そして気分転換をさせてくれるガジェットとして、それを選んだのだった。
それこそ最近は毎日撮ってましたね
そして、出掛けるときには必ず持ち歩くように心がけていた。仕事も、休日も問わずである。そうしたら、こういうものが撮れた。
ごはんとか。
夜明けだったり。
街頭スナップだったり。
都市風景だったり。
ながら運転は危険です
やっていて面白かった撮影の中では「車窓撮影」というものがある。電車の車窓ではなく、車の車窓だ。これもまた森山大道がやってたのを真似してみたものだが、これにもリコーGRはずいぶん役に立った。具体的にやり方を説明すると
車に乗ります(AT車が望ましいです)
ハンドルを握る際に利き腕の手首に長い一点ストラップを巻いておきます
諸設定を済ませます(走り出してからは変えられません。望ましいのはプログラムオートモード、ISOは普段撮るより少し高め)
走り出します(この間GRは手首でぶらんぶらんさせておいて下さい。車内でぶつかってカメラが破損しないよう、緩やかな加減速を心がけましょう)
信号待ちで止まった際、あるいは信号のない道で車間距離が十分空いているさい、一瞬だけカメラを向けます(モニターを凝視してはいけません。脇見運転です)
シャッターを切ります(場合によってはノールックで撮ることになります)
以上です。
この撮影を安全、かついいものを撮るために心がけるべきなのは
被写体は自分の左右45度以内で捉える(後ろなんて絶対向いちゃいけませんよ)
面白いもの・すごいものを見つけた!と思ったらすぐシャッターを押せるよう、電源は付けっぱなしに
という感じですかね。そうやって撮れたのが、これ。
このときは「後ろがきれいな夕焼け!」と思って撮ろうとしたのですが、振り向くのは危ないのでとっさに思いついたのがこれ、というわけだ。それにしても森山大道が車窓撮影をしていた時は大変だっただろう。車はMT、カメラもMFだったわけだから。
携帯じゃダメな理由
ところで、皆様お気づきだろうか。これらの写真はすべてAFで撮影したものだから
「今の時代、これだったらiPhoneで十分あるいはそれ以上に役割が足りるんじゃないの?」
と。確かにiPhoneはカメラとしても十分優秀なのだが、それらが撮影者に対して取る態度が違う。それを具体的に説明しよう。
僕が普段使っているのはソヴィエト、東ドイツなどで生産されたオールドレンズだ。それらはもちろんAFなどついていなくて、撮影者自身が写真に対して負う責任がとても大きい。だから知能のない、自分の目の延長としての(つまり、記録するという機能のついた)純粋な機械としてのみ機能する。だから、写真がうまく撮れても
「……。」
失敗して悔やんでも
「……。」
語らない機械、あるいは道具なのだ。これはこれでいいのだが、一方で写真を取ることが難しくなりすぎて、疲れてしまう。
一方でiPhoneのカメラは高性能AIを搭載し、自動で設定も、補正もしてくれる。それはカメラというより、ほとんど『写真を撮ってくれるコンシェルジュ』。例えば
「夕焼けを撮影したいのですか?よろしいでしょう。でしたら、露出はこのように、ピントはここに合わせますが、いかがでしょうか。素晴らしいでしょう?さあ、シャッターを押して。シャッターがない?ほら、この画面上のボタン(と呼ばれる丸いグラフィック)ですよ。はい、撮れました。きれいでしょう?」
と言った具合に。だからiPhoneの写真はオールドレンズと違って失敗しない。だが、なんか気持ち悪いのだ。過保護・過干渉というか。
そして、リコーGRの撮影は両方の中間にあり、それが心地いいのだ。なんか被写体に向けると、どこからともなくおっさんの声が聞こえてくるのだ。こんな感じの。
「おい兄ちゃん、これええげ?ええぎゃろ!ほらこのボタン押すといいけぇ。押すんけぇ?ピントくらい合わせてやるっけぇのぉ。ほれ。どうじゃ?なに、露出が合ってなかったぁ?そんぎゃしゃんなしでげっのぉ。ほな、また諦めずに撮りぃや。ワシはまだ全然逃げんからのぉ~~ガッハッハ。なに?被写体が行っちまったがぁ?んな知らんがなぁ~~ワシもそこまでは面倒見きれんけぇのぉ~~」
何弁だよ。それはともあれ「撮る時の責任がほどよく機械側にあり、ほどよく人間側にもある」バランスがすごくちょうどよかった。だから失敗しても激しく悔しくもならなかったし、一方で撮影することがどうでも良くもならなかった。むしろ「よし、また撮ろう」というモチベーションに繋がっていた。撮ることの面白さも、モチベーションも、全てリコーGRが教えてくれた。
だが、そのおっさんは逝ってしまった。戒名をつけて葬式を挙げなければいけない。
あとは、さきほどのコンポラ写真風の新宿もそうだが、このようにすぐに写真に特殊効果を加えるように切り替えることができたというのも好きだった理由だろう。
むろん、主に形式の古さに起因した欠点もあった。特にWifiでスマートフォンと接続できないこととか。先に導入していたOM-D EM-5 Mk.IIにはこの機能がついていたわけだから、かなりこれを事前に確認しなかったことを悔やんだ。おまけにあとからGR2からWifiがついたと知った時はそれこそコウメ太夫ごとく「チクショー!!」と叫んだものだ。
終わりに―お祓いでもしてもらったほうが……
さて、これからどうしましょう。
とりあえず代わりのGRを導入するにしても、EM-5にパンケーキレンズを付けて代わりにするにしても、あるいは他の高級コンデジを導入するにしても、先立つものが必要だが……現実は厳しい。というわけで、リコーGR2以降の製品を無償~5万で譲っていただける方、もしくはそういったオファーをご存知の方がいらっしゃいましたら、ご連絡をお願いします。
因みに、今日気付いたのだが、メイン機であるOM-D EM-5 Mk.IIにも、大変な事が起こっていた。電池蓋を開けるレバーがなくなっていたのである。
やっぱりなんか祟られてるんじゃないですか?
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