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ひとりのダブルマイノリティとして【メンバー自己紹介③】
くしろマイノリティ研究所のnoteは、釧路にあるNPO法人地域生活支援ネットワークサロンが取り組んでいる、ダブルマイノリティ(LGBTQと発達障がいの両方)をメインテーマとした休眠預金事業の一環として開設しています。
今回はnoteを始めたばかりということで、関わっているメンバーがそれぞれ事業の紹介や自己紹介を書きました。この記事はその第3弾です。
「ひとりのダブルマイノリティとして」思うことを書くように言われて、戸惑い、この場に合う言葉は書けそうにないと感じながら、ひとまず自分にとって自然で理解しやすい言葉で書くことにした。「ひとりのダブルマイノリティとして」という題意にはそぐわないかもしれないが、すくなくとも、ダブルマイノリティと称される人間の一人の自分に対する実感の切り抜き程度にはなったかと思う。
だれでも個々の物語を生きていると思う。それぞれの思う世界、それぞれに見える因果、それぞれが学んできた論理、それぞれの当たり前の中で生きている。
それを人に伝えようとしても、そのまま伝えられることは多くはない。同じ言葉を使っているようでも、その一つ一つの言葉の意味するところがぴったりと重なり合うことはほとんどありえないことだからだ。
そもそも私が私について語ろうとするときに、言葉はいつも私の生きる輪郭をそのままに描き出すことのできない、あまりにも不便な道具である。しかし同時に、それがほとんど唯一可能な手段であることも多い。その不便な道具なしには考えられないこと、それなしに受け継ぐことのできない歴史、思考、それによってはじめて得られる、ささやかすぎるさまざまな理解をなんとか分かち合おうとして、人間と言葉の歴史は続いてきた。
言葉によっていまだなかったものの輪郭を不器用に描き出す。その一方で人間は言葉によって思考を制約されながら生きている。
私はたしかにダブルマイノリティと呼ばれるものだ。そのように規定されるものだと思う。それはつまり自分のセクシュアリティについて語るとき、他の多くの人が語ることと別のことを語るし、他の多くの人が当たり前だと思う行動様式を私は持たないことがあり、また私にとって自然な思考や行動のあり方は他の多くの人にとっては困惑するような、ときにはぎょっとするようなものであるらしい、ということだ。
ただ、それは私の困難の一部であるにすぎない。私と周囲との齟齬のごく一部のことでしかない。
たとえば、私にとって当たり前の世界のあり方を他者に共有することはむずかしい。私にとって当たり前の生きるということが正しく伝わることは不可能に近い。それらを私はずっと言葉によって試みているけれど、それは試み続けるという形の人生であって、達成があるものではないように思う。私が愛しているものを語るときの愛と、世の中で使われる愛が必ずしも同じだとは思えない。私が美しいと思うこと、私が絶望すること、悲しむこと、それらの手触りを伝えるには、意味世界はあまりにも不十分なのだ。
( 私はそういう道具としての言葉に絶望しながら、実存としての言葉をとてもとても愛している。)
私がかろうじて集団に混じりながら生活をする上で、人がどのように物事を記述するかを見ることは思考の糧になることのひとつだ。それはたとえば書籍であり、論説であり、物語であり、歌詞であり、SNSの投稿であり、アプリのマイクロコピーであり、医学における診断という枠組みである。
私はADHDという診断を受けていて、それについて私は納得している。障害の病理モデルの考えを私は基本的に採用しないが、病理モデルの価値観の中では注意欠如多動症になることは自然だと考えている。
私自身は、私の中心となる性質は注意転動性の高さにあると説明できる、といまのところは思っている。それによって私は多くのことを忘れ続けているし、自分の意思で自分の行動をコントロールすることはとてもむずかしい。「気づいたら」日々なにかが発生していて、そこに私の主体性があるのか、本当にはわからない。
また、注意が無限に逸れていくことによって、思考の中で時代を超えて俯瞰したり、宇宙の遠くから地球を見たりすることもできる。別の見方をすることが得意だとも言えるし、逆に言えば、同じ観点を維持し続けられないということでもある。すくなくとも、喉元を過ぎた苦痛を忘却しやすいその性質に助けられてもいると思う。そうでなければ、いままで生きていなかったと思う。
『発達障害と精神病理Ⅳ ADHD編』(星和書店)で興味深かったのは、二人の研究者がそれぞれの論考の中心ではない部分で、ADHDを「浅さ」という性質でとらえて言及していたことだ。内海健の論考ではADHDについて「対人的に関係性が浅いという印象」があると書かれている。「ADHDの小児は、基本的にひとなつっこい。裏表に乏しく、直情的である。そしてうつろいやすい。これが彼らの基本形である。」そのために、回復のストーリーを描くような治療と相性が悪く、臨床家の陰性反応を引き起こすことがあるという。
兼本宏祐は、ADHD的なもの(≠臨床レベルでのADHD)として、アンディー・ウォーホルのマリリン・モンローを例に用いて「浅さ」を説明しようとしていた。
「浅い」という表現はおもしろい。なるほどと私は思った。当事者であっても、人によってはいやな気分になる表現かもしれないし、当てはまらないと感じる人もすくなくないような気がする。ただ私は実感として自分の中に「浅い」と言われるあり方を見出しているように思う。また、それもそれでいいものである気がしている。
私は基本的に人間という生き物が好きで、私のできる限りにおいては、大切にしていると思う。(同時に恐怖してもいる。)ただ、人は人、自分は自分でいるのが自然だと感じるし、他者のあり方に継続的に自分を沿わせることは制約や拘束だと感じるので苦手だ。そういうことが求められる関係性や集団の中では強い不適応を起こしてしまう。そして私が知る限り、この社会のほとんどの集団は、私にとってそのような不適応を起こさずに関わることができないものだ。そうならないために生活することは、表面的で浅い人間関係を持つということだとも言えると思う。
また、これも私の自己理解としての話でしかないが、世の中の人びとを見ていると、彼らは私と比べて、凹凸の大きくて複雑な世界で生きているように感じる。私の世界はとてもフラットで、だから注意は滑り続ける。
よく、私はとてもシンプルな人間だと思うことがある。それは私が私自身に対して単純な理解をしているというだけのことかもしれないが。
ただ、だからこそ他者がなにを考えて生きているのかに私は興味を持ち続けているのだろう。他者が語る物語は私には難解であり、おそらくたくさんの誤読を常にし続けることでしか、読むことはできない。
それでも他者の語ることからしか、触れられない多くのことがあり、それによって他者を知りたいと願っている。
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