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暗闇に呼ばれて

日本においてもっとも有名な障害者と言えば乙武洋匡であることは間違いない。
著書である「五体不満足」は希望を与える(障害者にではない!)本と言える。

この本にはなぜか障害者である著者が苦労する描写が極端に少ない。
障害はあるが家庭環境を含めていかに自分が恵まれているかに描写の比重が傾いている。
そしてはっきりとではないが裕福であることが本の中で示唆されているのも見逃せない。

「五体不満足」は障害者にではなく健常者に「障害者だけど頑張っている」という後ろ向きな希望を与える本である。
オーストラリアのコメディアンであり障害者のステラ・ヤングの言葉を借りて「感動ポルノ」と言えばよいか。

汚いものを見せず前向きな障害者を演出するその手法でマジョリティに向けて書かれた本は商業的にも成功した。

ただし、乙武氏本人も否定しているが彼は決して障害者の代表ではない。彼は力を持ち過ぎているし彼と大半の障害者の間には著しい乖離が生じている。
彼が障害者からいまいち支持に乏しいのは障害者の実態と乙武氏に埋め難い差があるからだ。
ゆえに彼を知ることが障害者を知ることにつながるなどと思ってはならない。
ただし、言い方は悪いが彼はメディアによって作られた客寄せパンダで彼のおかげで障害者というものが認知された面はある。

日の当たる世界の人間が日の当たらない世界を理解することは容易ではない。
誤解されがちだが障害者と健常者に限らず、マイノリティとマジョリティの間に相互理解は存在しない。

知識とは違いマイノリティが語る体験は聞き手がそれに同じ経験を持ち共感が発生してこそ真に理解することができる。

患者会やピアカウンセリングなど良い例だろう。

私の人生におけるもっとも古い記憶は幼稚園時代の夜の小児病棟の光景。私は生まれつき持病である筋疾患を持っている。
「ネマリンミオパチー」という病気は私と一体であり不可分の関係にある。
私が幼稚園児の時に身体障害者手帳一級を取得した時から私の社会的ステータスは「障害者」だ。(仕様上20歳になっても私の障害者手帳の顔写真は5歳児の時のままだった!)

私は夜の病院のベッドに横たわり身体は縛られている。

私は恐れ慄き闇の中で震えている。

私は夜の闇に怪物を見出した。

モニターや点滴に繋がれそれが恐怖を増幅させている。今から思えば精神病棟の自殺の恐れがある患者でない限り体を拘束されることはないはずだ。

恐怖と年月の経過によって記憶が歪められていたのかもしれない。夜の病棟は入院患者に恐怖と孤独を与える。

昼間には点滴で鼻からミルク(栄養)が流しこまれ喉の近くにミルクの風味を感じ取れた。ベッドから点滴を見上げるのはもはや我が日常となっていた。

子供である私は思想や価値観を持たず祈る神さえ持っていない。
これが大人であれば知識や信念によって自尊心を守ることができただろう。ゆえにこの頃の私は得体のしれない恐怖から逃れる術をもたない。

筋疾患患者は肺炎リスクが高く風邪やインフルエンザが入院や命取りに繋がる。
私が長期入院していたのも風邪が重症化し肺炎で挿管をしている状態だ。しかし園児にそのようなメカニズムを理解することはできるはずもない。

児童期における病気や障害に対する理解はあくまで感覚的なものにとどまる。
発達心理学が明らかにしたようにこの時期の子供は論理的な思考が未発達なのだ。

私のこの記憶は幼稚園の時の記憶であるのに20年経った今になって強く想起される。
今まではこの忌まわしい記憶を思い返すことはあれ四六時中意識することはなかった。

子供の頃に壮絶な体験をした人が大人になってPTSDを発症することがあると聞く。
しかし、私も大人になってから昔の凄絶な記憶が日常的に蘇るようになったがこれは精神医学でいうPTSDとは異なるだろう。

なぜならブラッシバックのように日常生活で支障がおこっているわけではないからだ。ならば俗な言い回しであるトラウマと呼ぶのがふさわしい。

私は身体障害者に対するインタビュー活動を行っているのだがゲストの中に「子供の頃障害にまつわることで馬鹿にされた」と言う方が何人かおられた。
小さい頃に親戚からカタワと呼ばれそのことを強く記憶している人もいた。

子供の時に病気や障害で嫌なことを言われるとそれはひどく心に残る。

しかし、私ほどトラウマに近い記憶を抱えていると公にしている人を私は見たことがない。
障害の背景には特定の疾患が原因としてあることが多いが私などがまさにそうだった。

障害と病気が重なる人は多い。
病気を持っていてそれが障害につながっている場合と脳性まひや二分脊椎症のような疾患や遺伝とは関係のない先天性のアクシデントによる障害は異なる。

だがそんな定義づけは健常者にはどうでもいいことであろう。

個人差のある病気の場合は症状の度合いが患者間で隔たりがあることは珍しくない。
私の持病である先天性ミオパチーも歩くことができず気管切開をしている「典型的な重度障害者」もいれば車椅子や呼吸器なども必要としない一般人に近い生活を送る人もいる。

障害者や患者みんなが共感を持てるというは大きな誤解である。障害の分野の違いも含め一枚岩になりにくい。

もっとも先ほどの夜の病棟のトラウマに関しては趣が異なるかもしれない。小児病棟の話は語るのには不向きである。
なぜならそれは子供心に刻みつけられた恐怖そのものであり口に出すのも恐ろしい体験であるからだ。

ある話題がタブーになるのには理由がある。口に出すのも恐ろしいからである。思い出すだけで恐怖が蘇る。それは体験した人しかわからない。

ゆえに仮に私と似たような体験をした人がいてもそれを言いたくないことだろうし、そもそも言語化するのが難しい(夜の病棟には悪霊が存在すると言っても誰も理解できまい!)。

世界は違えど質が違えど、戦争やレイプによって心に安らぎを失った人の気持ちが私にはなんとなくわかるのだ。そういった体験には根本的な一致があるのかもしれない。

今話した病院は小児病棟が各階に存在するだがこの時に私がいた病棟は特に小さい子供が多く、死ぬ患者も珍しくない。
外来では発達障害の患者も見かけたが入院患者は循環器や内臓に問題を抱えていたり白血病の患者が多い。
彼らはカラフルなバンダナをしているのですぐわかる。

さて、小学一年の時だ。

最悪の状態を脱してもすぐに退院とはならず先述の病棟とは違う階でしばらく入院をした。
併設されていた特別支学校(当時は養護学校と呼ばれていた)から先生が来てくれた。

若い女性教師と初老の男性教師を覚えている。
2人とも担当教科は算数で前者の先生はことあるごとに「残念賞」というのが口癖だった。
初老の先生は生徒から「のりべぇ」と呼ばれ筆記体を自慢気に書くのが印象的だったのを覚えている。
先生たちはおはじきを使ってくれたり計算を教えてくれたり授業が終わるとpcでインベーダーゲームをやらせてくれた。

その後、併設された特別支援学校に病棟から通うことになり2年生からは退院して自宅から通うことになる。

2年生からは母とそう歳の変わらない中年の男性教師が担任でだった。生徒数が少ないせいか私はしょっちゅう怒られていた。
ぬるま湯の環境ゆえかと思ってみれば今から思い返せば私の母も昔はやんちゃしていたようなので私もそういう片鱗が出ているたのかもしれない。
自分の中に秩序を持たない母を忌み嫌って反面教師にしていたが今から思えば蛙の子は蛙だなと思う。

私が地元の学校へ転入したのは小学三年生の後半のとき。
一度小学一年生の時に形式上入学したがすぐに入院してしまったので事実上のリスタートである。
私はマイノリティの世界からマジョリティというより大きな世界へ引越しをした。

もちろん、マジョリティ世界へ復帰を果たしてもそこからは尋常ではない労苦があった。
だが私は今回あえて小児病棟での入院生活を題材にして、回顧してあなたに語りかけている(そうでないと大長編になってしまう)。

マイノリティの中の障害者という種。その中でも私は異端に当たると自覚している。
生来の質もあるが家庭環境の影響もあるだろう。
私はネマリンミオパチーという疾患が障害の原因でありすでに述べたように呼吸筋が弱く風邪が重症化し入院することは珍しくなかった。
親戚などは「またか」といったリアクションである。

先天性の障害と言っても病気と障害は一致しないことが多い。脳性麻痺を病気というには語弊があるだろう。
障害者と言ってもみんな入院ばかりしている人ばかりしているわけではないと留意していただきたい。

私は「マイノリティとマジョリティに相互理解は存在しない」というスタンスに立っている。

誤解されがちだが障害者と健常者に限らず、マイノリティとマジョリティの間に相互理解は存在しない。

この考えに賛同する障害者は決して多くない。
もしこれを読んでいるあなたが健常者であるならばマイノリティの中のさらに超少数派である私の考えを読者であるあなたにうまく伝えるのは容易ではない。

先天性の障害者はある程度の年齢になるまでに障害に影響されそれにまつわる数えきれない経験をする。
もちろん障害が原因で生活の中での行動に大きな制限を受ける。病気が障害の原因であれば年月とともに状態も悪化するだろう。
若い障害者の中には特別支援学校の通学経験があるかもしれない。
それがどれほど異質なことはすでに読者に伝えた。

いずれにせよこれはマイノリティの内面に関わる問題であり健常者であるマジョリティが理解できることではない。
いわゆる普通の人とは違う経験をした障害者と健常者はお互いが想像の及ばないところにいる。お互いがそういう環境の中で育ったのだ。
最初の方で述べた通りマイノリティ(障害者)とマジョリティ(健常者)の間に相互理解は存在しないと言ったのはそういう意味が含まれていることをご理解いただきたい。

病気や障害を抱える人相手に相応しい言葉は「私も〇〇の経験があるからわかるよ」「かわいそう」などと言ったなんにもならない言葉ではない。

「何か私にしてほしいことはある?」だと思う。

私にも親友がいるが彼は私の病名さえ知らない。

彼が私の病気・障害をしないと言うことは私のことを理解していないのと同じである。
なぜなら障害者は障害によって形成された場のなかで育ち、考え、経験、生き方に影響受けるからだ。
障害なくして障害を持つ人間を理解し語ることは不可能だ。

だからお互いに兄弟と呼び合う私の親友との間に本当の意味での理解はないのかもしれない。

しかし、全て分かり合えなくても友人にはなれる。

だがちょっと待ってほしい。
私は「まともな友人」と向き合うことで自分が心に何かを抱えた人間だと認識させられる。

得意な体験をしてきた私はここで自分の中に闇を感じとる。闇は「他者との差」によって生まれるからだ。

もちろん地元の学校に復帰したのちも私は障害においと体力面や人間関係などもかなり気を遣った。
だがやはり私の特別支援学校時代の2年間(前後の入院体験も大きいが)は特別で自分と「他の人は違う」とは違うというのを植え付けられた気がする。

がっかりさせてしまったら申し訳ないがこの記事は物語ではないから結論というものは存在しない。

病気や障害を抱えた人でさえ誤解している人が多いのだがこれらには物語
やロマンが生まれると思っている人が多い。

障害それ自体は生活への不便さにつながれど物語やロマンと同質ではない。
物語やロマンは後から人によって作られるものである。体験と物語は違う。自ら物語を作り出すのは単なるフィクションへの逃避である。

私の頭の中では今、病院の酸素モニターが鳴っている。これが「トラウマ」である。

私は今、記事で書いているのが「体験」である。

そして、テレビや小説において「〇〇だから今の自分がある」「私は〇〇として生きていく」と言って結論を出すのが「物語」である。

だが現実としてトラウマの有無に限らず全ての障害者に結論はない。救いや終わりがあるのは健常者の「健全な物語」であって他者との違いという心の闇を抱えた人間には結末はない。

仮にそれを物語と無理矢理定義したとしても物語が救われることはない。



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