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「ミオパチーの母」が一人暮らしを強行したワケ

まきさんは「先天性ミオパチー」の一種である「ネマリンミオパチー」という筋疾患を抱える50代女性である。
私の母とほぼ同い年だ。共通の友人はこれを茶化して彼女を「ミオパチーの母」と呼ぶ。ミオパチーとは筋疾患の意である。
私とまきさんは親子ほどの年齢差があるが温度差はなく率直にものを言い合う仲だ。SNSではもっとも親しい人物の一人である。
そして、先天性身体障害者へのインタビュー企画、「マイノリティスポットライト」の同志である。インタビューを通して共に障害の本質を探求しているのだ。

以前、私は筋ジストロフィーを患う50代女性にインタビューしたが、彼女が「筋ジストロフィー」の母とすればまきさんは「先天性ミオパチーの母」といったところか。
私は個人的な調べとして、個人で先天性の障害を持つ人にインタビューをおこなっている。今回は本人から「私にインタビューしてほしい」という申し出があった。

まきさんは先天性ミオパチーを患っているが、若い頃から重度だったわけではない。かく言う私も同じ疾患を抱えているが10代の頃は健常者の中で育った。まきさんも同じなようだ。

筋疾患を持ちながら健常者の中で生きるのは並大抵の苦労ではない。そんな境遇にあってもまきさんは無事に短大を卒業した。


ご両親がまきさんに最初に違和感を感じたのは当時彼女が保育園の時だった。その頃彼女のかかとが浮き始めていたのが違和感のきっかけだったという。
父親に連れられて病院をいくつも回った。病気がはっきりとするまでは父親は当初「スパルタ式リハビリ」によって問題を克服しようと試みたという。
当然、そんなことで状態が好転するはずもない。
某大学附属病院にきていた先生に「うちの病院で筋生検をしないか?」と勧めを受けた。筋生検とは筋疾患を判別するための検査であり、確定診断をするために筋疾患患者の多くが通る道だ。

父親が先天性ミオパチーにスパルタが通用しないと悟るまでそう時間はかからなかった。
小中高と学生時代を健常者の中で育ち、障害を抱えつつもリタイアせず短大を無事に卒業した。
そして一般企業に就職して3年間働いた。社内恋愛をして順風満帆かに見えたが側湾手術をしたことを契機に暗転する。

私にも側湾がありわかるが側湾は先天性ミオパチーを持つ人間にはつきものである。側湾手術は全身麻酔をしてボルトを入れる大規模な措置だ。
筋疾患でなくてもボルトを入れる手術はあるがそれを行うことでかえって状態が悪くなったというのはよく聞く話である。

基本的筋疾患患者には全身麻酔はすすめられないことが多い。体への普段が大きいからである。まきさんの場合も医師から止められたが彼女はそれを押し切り強行したという。案の定、予後は芳しくなく呼吸の状態も悪くなった。
「やっていなければ肺が潰れていたかもしれないしどうなったかもわからない。」

彼女はそう話すが結局、側湾手術を契機に職場を退職。

その翌年、風邪をひき呼吸不全になる。肺炎になりかけていたようだ。入院前に知り合いにあった時にまきさんはおかしなことを口走っていたという。どうやら意識も半分朦朧としていたようだ。

「それで意識不明になるまでよく何日もおったなと思う。」
まきさんはそう振り返る。そして気管切開を気に彼氏と別れた。そこに障害(筋疾患)は関係あったかと聞いてみた。

「ある。あるよ。」

恋人である男性は入院中に見舞いに来たが彼女は面会を拒否した。気管切開をして喉に穴を開けた姿を見られたくなかったのだ。
関係の終わりを切り出したのはまきさんのほうからだった。彼氏は「分かったよ」と答えた。

気管切開をすると発声が困難になり頻繁な痰の吸引が必要になる。精神的に大きなダメージがある措置だ。緊急性の高い場合にこの措置がとられることが多い。この時期はしばらく泣いて暮らしていたという。

5年ほど家に引きこもる日々を送りその間は手芸をして過ごしていたという。
28歳の大晦日に自宅で転倒した。手術をして3ヶ月のギプス生活を送ったがその後も怪我をする前のように歩けず、立つこともままならなくなっていた。

これ以降は車椅子を使うになる。

彼女の親は自営業をしていた。両親ともに夜遅くまで仕事をしていたという。定時まで仕事をしてまきさんの食事を作るとまた仕事へいく。
そうなるとまきさんの世話も回らなくなる。彼女にとって何より耐え難かったのは入浴についてだった。
「ごめん、今日も入れれんわ。ごめんね。」
お風呂は彼女の母親が介助するのだが母親も仕事で疲れている。風呂に入れない日が続いた。だからといって母親を責めることはできない。
しかし、風呂に入るというのは現代人における当たり前の行為である。これができないのは尊厳が損なわれた気がするし、単純に不快なはずだ。彼女の立場であれば皆そう感じるだろう。

疲れる親を見て一人が暮らしを決意した。だがここで両親の猛反対にあう。
すでに述べた通りまきさんとは遠慮なく話す間柄でありこのインタビューも終始良いテンポで進んでいた。だが一人暮らしの話題になるとまきさんの声が震えzoomの画面越しにも関わらず空気が一変する。

「靴下も一人ではけん子がどうやって一人暮らしするの!?」

当時の母親の言葉を彼女は涙声でこう再現してくれた。怒った父親には殴られたという。

そして反対する両親を尻目に知人と協力して準備を進めて強引に一人暮らしを強行。
最初はまきさんの一人暮らしに反対していた父親も本人の意志がかたいと悟り、バリアフリーのための日用大工をすすんでやってくれたという。
本記事序盤の「愛の鞭」であるスパルタ式リハビリに加えて、反対したにも関わらず一転して協力するなどどうも父親は「感情的な人物」だったらしい。まきさんが家を出ていく当日、べランダでこちらに背を向けており泣いているのが分かったという。

そもそも、まきさんは収入がなかったはずだ。どうしていたのだろう。、聞いてみたが両親が仕送りをしてくれていようだ。

一人暮らしを始めた当初は重度訪問介護もなく一人で過ごす夜は寂しかったという。

そんな中まきさんは当時ヘルパーをしていた現在の夫と出会い結婚する。

「波長があった感じ?」「そうだね。」

私が聞くと彼女はそう答えた。当初は父親は結婚に難色を示していたという。今のご主人が挨拶に出向くと次のようなやりとりがあった。

「たいへんだぞ、まきは」「大丈夫です。頑張ります !」

あまりに軽いノリに父親も了承するしかなかったようだ。


彼女は過去ピアカウンセラーをやっていた経験がある。まきさんは相手の話を聞くことができる女性で思いやりもある。適正があると思った。
ピアカウンセラーは自分の心に余裕がなければできることではない。一時は事務所の開業届までしていた。
現在はピアカウンセラーから手を引き、音楽を趣味にしている。持病がなければカラオケなどもガンガンしていたのではないか。そう思って彼女に言ってみた。
「20代はカラオケにガンガン行ってました。まだ呼吸不全になる前ね。」
障害が進むとできることはどんどん少なくなる。その現実に向き合うことは憂鬱だ。だがそれを避けることはできない。
また頻度は少ないがライターの仕事も引き受ける。

人生を楽しもうとしているまきさんだが50代になってたから自分の死を意識するようになった。

「一生懸命生きていつ死んでも後悔はある。それが少ないように今を楽しむ。」

私とまきさんは同じ持病を抱えておりTwitterでは共通のフォロワーが多い。障害者の界隈は自分の障害に近い人をフォローする傾向がある。
例えば先天性ミオパチーの人が筋疾患の人をフォローしても視覚障害のある人をフォローすることはほとんどない。

そうなると年に数回くらいタイムラインで界隈の住民のアカウントで家族から死亡報告ある。
先日も私とまきさんが所属している30人ほどの先天性ミオパチーのコミュニティで死亡者が出た。30代男性で死因は肺炎だった。

この界隈では珍しいことではない。まきさんの先ほどの発言はそういった「筋疾患の事情」も関係している。

「周りに感謝しつつ、少しわがままに生きようかと。」

彼女はしみじみとそうつぶやいた。





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