ケアリング/マザーフット:「母」から「他者」のケアを考える現代美術にいって~懐かしいという感覚~
GW。水戸美術館にヨガ仲間と訪れた。そこでやっていた企画が、上のテーマ。いった後にめっちゃ考えさせられたので。
展示では、「母」を彷彿させる展示が多くあり、
母の日記であったり、各国の出産のお話であったり、母を連想させる写真や、モノの数々。
そこには「ケア」について考えさせられる言葉がたくさんあった。
「ケア」というものは、私たちは受け取ることもあれば、することもある。そして、「ケア」という言葉はあるが、そのイメージはどんなものであるだろうか?
普段母がしてくれていたこと、
例えば「娘の髪をむすんであげる」「家に帰るとお帰りといって笑顔で迎えてくれる」「子供が泣いていれば声をかけて抱っこをする」など。
その数々は、「ケア」という形で表立ってはないけれども、「ケア」と呼ばれるものであったのではないか、と思わせるのが今回の展示会であったような気がする。そして、「ケア」の役割の担い手は、不可視化され、自己責任化されているのではないか?という問いかけをしてくるものだった。
この展示を見ている中で、
わたしは、確かに「懐かしい」という感覚に至ったのだが、一緒に来ていたヨガ仲間は、「懐かしい」というよりも「ああこんなだよね」という共感の感覚だった。
私は、「懐かしい」という感覚で、やはり母から「ケア」を受けていたのだな~ということを実感したと同時に、自分はこんなことができるのだろうか?という気持ちにもなった。
今は一人で生活しているので、ただ働いているだけでいいので、「ケア」をする立場ではなく、「マッチョな世界」(バリバリ?働いているという意味で使っている)で生きているので、その「ケア」の世界に入った人たちをみていると、本当にすごいな~と思うし、自分にはない色々な気づきをたくさん持っているな~と思う。
ただ、この世界に入ることはあり得るけれど、もしそちらの世界に行ったとしても、両方の世界に行き来できたら、もっとみんな生きやすいのではないか?とも考えた。(働きもしたいし、子供を育てたり、人に何かケアをするということもしたい。)
なので、この「ケア」というものを可視化している展示は本当にすごいな!と思ったし、これからもっともっと可視化していくことで、生きやすいものが出来上がるのではないかと考えた。
もし、機会がある方はぜひこちらのURLより
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