【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】ヴィラ・ローレルへようこそ(6)
第6話 執事、うろたえる!
「ん~っ、いい天気!」
空は快晴、風は爽やか。小鳥がちゅんちゅん鳴いている。
ただ今AM7時半。今日は碓井さんに起こされる前に、自力で起きられたあたし。洗濯物もちゃんと籠にインしました!
(やればできる子なんじゃん、あたし!)
なんて、ごきげんモードで1階へと下りた。
ダイニングへ行くと、ゆきちゃんとユフィルが差し向かいでコーヒーを飲んでいる。ゆきちゃんの脇には、榊がいつもの仏頂面で突っ立っていた。
「おはようございます、お嬢さま」
あたしを見て少し驚いたような顔をする榊に、内心(よっしゃ!)とガッツポーズをする。
「おはよ」
「お? なんや嬢ちゃん、今日は早起きやん」
昨日は昼過ぎまで寝ていたあたしが、こんな時間に下りてくるとは思ってなかったんだろう。ユフィルもびっくりしている。
「うん、なんか目が覚めたの。ゆきちゃんも早いね」
「いろいろ立て込んでてね」
ゆきちゃんも普段の朝は結構遅めなひとなんだけど。ホントに体、大丈夫なのかな?
「お嬢さまはコーヒーでよろしいのですか?」
「うん、……」
いつもと同じように、榊が戸棚からコーヒーカップを取り出す。
チラッとユフィルのほうを見たら、軽く微笑んでくれて。勇気が出たあたしは、
「クリームたっぷり入れてね」
言ってから、ユフィルと目を見交わしてふたりでクスッと笑ってしまう。
こうやって少しずつ、『家族』になっていけるといいなぁ、なんて思いながら。
なのに……。
「いちいちご指示いただかなくても結構です。1度聞けば覚えます」
このやろう。
「おはようございます。ゆきさん、朝食……」
「ねえ、ちょっとあんた!」
あたしが大声を出すのとほぼ同時にダイニングへやってきた桂くんが、驚いて立ち止まる。でも、そんなの気にしてられなくて。
あたしは榊の前までずかずか歩み寄ると、その顔を睨み上げた。
「なに怒ってんだか知んないけど、なんでいつもいつもそんなケンカ腰なのよ!? あたし、あんたになんかした!? いや、してるけども! モンクがあるならハッキリ口で言ってよ!」
「……は?」
「毎日毎日そのツンケンした顔見せられると、メッチャ凹むのよ!! せっかくイケメンなのに台無しじゃん!!」
「………」
「わわっ、榊さん、手もと手もとっ!」
戸口から桂くんが慌てた声をかける。榊の手から注ぎっぱなしのコーヒーが、カップから溢れていた。
「え? あっ、失礼を……」
榊は慌ててポットをワゴンへ置くと、コーヒーを溢れさせたカップに触る。
「あつっ……!」
「えっ、大丈夫!? 今、火傷したんじゃない!?」
あたしはとっさに榊の手を取って、火傷してないか見ようとした。いつも純白の手袋の指先が、茶色い染みになっている。
「い、いえ、大丈夫です」
即座に手を振り払われた。でも、怒って、というよりは……どーよーしてる?
「あっ、新しいカップをお持ちしますので。桂、ここをお願いします」
「え……、カップって。ここにあるんだけど……」
バタバタとダイニングを出ていく榊を見送って、桂くんが背後の戸棚へ目を移す。
うん、確かに。榊だって、いつもその戸棚からコーヒーカップ取り出してるよね。
「いつになく執事がうろたえていたが、なにかあったか?」
榊と入れ替わるように、廊下から漣が入ってくる。
「……ぶ、ははは……っ!」
ユフィルがお腹を抱えて爆笑した。
「見たか、今の鷹弥! かわええ~~~っ!」
「でも確かに……榊さんに怒鳴りつけたひと、僕初めて見たかも」
「え? えっ? あたしのせい??」
実はこないだも1回怒鳴りつけてるんだけど。でも今、そんなにヒドイこと言ってないよね、あたし?
「いいんじゃない? 間違ってなかったし」
ダイニングの隅に置かれたクマのぬいぐるみが喋った!
と思ったら、その後ろからアーシュが顔を覗かせる。
「うわっ、あんたいたの!?」
クマを抱っこしているというより、ほぼ埋もれてるんだけど。
「理由もなく不機嫌な顔されたら、誰だっていやだものね」
「いや、あんたも結構あたしの前ではフキゲンそうだよ?」
「ボク理由あるもん、知らないひと嫌―い」
「知らないひととか言うなっ」
「なんだかよく判らんが……おもしろいものを見逃したようだな」
現場にいなかった漣が、のんきにそんなことを言う。
「……屋敷に、新しい風が吹き込んどるな」
ぽつりとユフィルの呟くのが聞こえた。
でも、とりあえず今のあたしはアーシュにヤキを入れるのが先!
「ほらほらほら、あたしは誰~? 言ってごらーん」
アーシュの頬っぺたを両手で摘まんで、引っぱってやる。
「みゃー……、みゃぁー……?」
「くぅ~っ、この子かわいいーーーーっ!!!」
「未亜ちゃん、そのへんで。アーシュ、頬っぺた延びちゃうから」
桂くんが苦笑いしながらあたしを止める。
「……まあ、若干、暴風やけどな」
「うちの妹、元気でスミマセンね」
なんとなく。
なんとなくだけど。
あたし、ここにいてもいいのかなって思えた朝だった。
あ、こーゆーの『早起きは3分でゲット』とか言うんだっけ!
(※早起きは三文の得)
数時間後、あたしは榊の執務室前にいた。
実は、観光エリアにあるお店のショッピングサイトで昨夜ポチッた品物が届いたのだ。
(よしっ、これで本格的に仲直りするぞ!)
意を決して執務室のドアを開ける。
「榊、あんたにプレゼント!」
「……は?」
デスクで仕事中だったらしい榊が、思いきり渋い顔を上げる。
かまわずデスクの前まで行くと、かわいくラッピングされた箱を差し出した。
「いいから、開けてみて」
「………」
フシン感まる出しのまま箱を受け取った榊が、リボンを解く。
中から出てきたのは、海水浴用の黒のビキニパンツ。
(見つけた時、これだー!!って思ったんだよね~。榊って細身だけど結構肩幅とかあるし、眼鏡に黒ビキニってなんかエロくてサイコーじゃない!?)
想像するだけでニヤニヤしてきちゃう。
そんなあたしを、榊は特に感動した様子もなく冷たく見上げた。
「……で、これを私にどうしろと?」
「え? 穿いてよ」
ぷちっ。と、榊のこめかみの血管が切れた音がする(幻聴だけど)。
榊はデスクの引き出しを乱暴に開けると、中へ箱ごとパンツを放り込み、ガッと閉めて引き出しに鍵をかけ、その鍵を小さな保管箱の中へ投げ入れた。
「……ふー……」
「いや、なにやりきったみたいに息吐いてんのよ!? せっかくあんたに似合うと思って買ったんだから、穿いてよ~っ」
「穿けるか、ばかものっ!」
榊の頬が明らかに赤い。
思わず顔を見つめていたら、榊が椅子から立ち上がり、あたしの肩へ手をかけて戸口まで押し戻す。
「いいから、もう出て行きなさい! 私は仕事中です!」
バタン!
有無を言わせず閉め出された。
(もしかして今、すっごい照れてた?)
仲直り作戦は予想通りにはならなかったけど、まあまあ成功?
それにしても……。
(あのプレゼント、あたし自信あったのになぁ)
センスが合わなかったのは、ちょっとザンネン!
「うーん、うーーーん……」
リビングでスマホの求人サイトを眺めながら唸っているあたしを、榊がちらりと見る。
夕食の後、リビングでだらだらしていた時に偶然見つけたんだけど。
「うぅーーーーーん……」
もうひとつ盛大に唸ったところで、
「なに唸ってるの?」
ゆきちゃんが仕事から帰ってきた。
「おかえり。今日は少し早く帰れたんだね」
と言っても、もう夜の10時になるとこだけど。
「おかげさまで」
軽く笑ってネクタイを緩めると、
「なにかお困り?」
ソファに座るあたしの隣へ腰をおろす。
「うん、バイトしようかと思ってるんだけどさー。これ」
言って、求人サイトを開いたままのスマホを、ゆきちゃんのほうへと押しやる。
それは、街にある個室マッサージ嬢の募集広告だった。
「時給がすごくいいんだよね」
ゆきちゃんは画面をスクロールしてひととおり目を通すと、
「確かに、時給はいいね」
「でしょ!? 夜の時間帯だとさらに時給アップだって! 体が丈夫だったら誰でもできる簡単な仕事だって書いてあるしさ。それならあたしにもできるかなーって」
過去の経験から、レジ打ちとか商品と伝票を合わせるだとか、ともかく頭を使わなきゃならない仕事はムリだって判ってるので、体力勝負のこのバイトは、あたしにはかなりオイシイ。
ちょっとコーフンぎみに説明したあたしを、ゆきちゃんは少しの間じっと見て、
「……お小遣い、たりない?」
「え?」
「なにか欲しいものがあるのかな?」
「あ、違うよ。別にそういうんじゃなくて。ただ、あたしもバイトくらいしたほうがいいかなぁって。……え、あれ? もしかして反対?」
「んー、そうだね、このバイトは、あんまりしてほしくないかな」
ゆきちゃんは画面をとん、と叩いて求人サイトを閉じると、スマホをあたしへ返してよこす。反対されるとはあんまり思ってなかったんだけど……。
「そっか。判った、やめとく」
「………」
自分が反対したくせに、なんでかすごく驚いた顔をするゆきちゃん。
「なに?」
「いや、ずいぶん従順なんだなと思って」
「ジュージュン?」
「ものすごく古いこと思い出しちゃった。未亜がまだ小学生だったかな、クリスマスだからケーキ買ってあげるよ、って、ふたりでスーパーへ行った時……」
・・・
スーパーの特設売り場に並んだクリスマス用のカットケーキ。
「ケーキ、どれがいい? 好きなの選んでいいよ」
「これ!」
幼い未亜がほぼ即決で、ひとつのケーキを指差す。
征斉は少し困ったように眉をたわめて、
「ああ……ごめん、こっちのケースから選んでもらえるかな?」
「判った! じゃあ、これ!」
・・・
「あの時貧乏だったから、左側の100円ケーキしか買えなくて。未亜が最初に選んだの、ちょっと高い方のショーケースからだったんだよね。当然そっちのほうが綺麗だし美味しそうだったんだけど、きみ、理由も訊かずにチョイスし直してくれたから」
「そんなことあったっけ?」
「聞き分けがいいのは助かるんだけど……少し、危うい気もするね」
「アヤウイ……?」
「いささか……僕の言うこと聞きすぎかな、って。なんでも言いなりになっちゃって、ちょっと怖いな」
ゆきちゃんが小さく肩を竦めてみせる。
「だって、あたしよりもゼッタイゆきちゃんのほうが正しいに決まってるもん」
「そんなことは、ないんじゃない? 僕は未亜じゃないから、きみが本当に望んでいること、すべて判るわけじゃないしね」
「うーーん……」
イマイチゆきちゃんの言いたいことが判らない。なんで言うこと聞いちゃいけないんだろう?
「でも、あたしバカだから、いろいろよく判んないし。ゆきちゃんの言うこと聞いとけば間違いないかなぁって」
「……もし、僕がきみに酷い要求をしたら、どうするの?」
「え?」
思ってもみなかったことを言われて、本気でビックリしてしまう。あんまりビックリしすぎて、笑っちゃうほどだ。
「……ゆきちゃんが酷いことって、なんか想像できないんだけど! だって、いつもゆきちゃん、あたしのことすごく考えてくれてるじゃん。あたし、ゆきちゃんにやなことされたことないよ」
「機会がなかっただけかもしれないよ?」
言いながら、ゆきちゃんが立ち上がる。あたしに背を向けると、
「僕は……きみが思っているほど、いいひとじゃないから」
リビングを出ていった。
(ゆきちゃん……?)
「あなたは……」
「ん?」
ゆきちゃんの去った後をぼけっと見ていたあたしに、榊が声をかけてくる。
「征斉さまに死ねと言われたら、そうするのですか?」
「えっ!? なっ、なによ、それ……」
「例え話ですが。ものごとの決断を他人に委ねるというのは、そういうことでしょう?」
またいつものイヤミなのかと思ったら、意外に真剣な顔をして訊いてきてる。だから、あたしもちょっとマジメに考えてみる。
「……もし、本当にゆきちゃんがあたしに死んでほしいって思うなら……死ぬよ」
「……っ」
「だって、ゆきちゃんがそんなこと言うなんて、きっと理由があるもん。思いつきとかイジワルで、ゆきちゃん、そういうこと言わないもん」
「依存、しすぎでしょう。そんなに絶対視されては、征斉さまも荷が重いのでは?」
「荷が重い?」
「妄信されていると判っている以上、征斉さまも迂闊なことをできませんから」
ウカツなことって、どういうことだろう? それって、あたしがいるから、ゆきちゃんは自由にできないってこと?
「……あたし、ゆきちゃんのお荷物になってる……?」
「さあ……私には判りかねます。ただ……もし自分の放ったひと言で、あなたが本当に命を絶ったら、その傷は一生癒えないでしょうね」
あたしにとってお兄ちゃんはゼッタイだけど。でもそれがお兄ちゃんの負担になるんだとしたら……。
あたしは、どうすればいいんだろう?
青空にお日さまがテカーッとしている。
こう晴れていては、ウツウツもしてられないのが人間ってものだよね。
とゆーワケで、昨夜の疑問はいったん忘れて、あたしは屋敷からすぐ近くにあるビーチへ海水浴にやってきた。
「パラソル、このへんでええか?」
「お昼のバーベキュー、焼きおにぎりとか食べるかな、みんな……」
一緒に来てくれたユフィルと桂くんが、いろんな準備をさくさく進めてくれる。
「暑い……眩しい……早く帰ろうよー……」
ユフィルに拉致られて連れてこられたアーシュは、さっきからあたしの後ろにうずくまっている。ひとのこと日よけにしてやがるな!
(ゆきちゃん達も来られればよかったんだけど……)
残念ながらゆきちゃんは、ボディーガード兼運転手の漣と共にお仕事へ出かけてしまった。
「お嬢さま、水着にお着替えになるのでしたら、コテージをお使いください。鍵は開けておきましたので……」
「え?」
どうやらビーチに一条家所有の小さなコテージがあるらしいんだけど。
榊が声をかけてきた時には、すでにあたしはTシャツを脱いでいる最中だった。
「……こんなところで脱ぎださないでください」
「下に水着着てるってば!」
家からすぐの場所だし車で来るんだから、みんな下に着てくればいいのに。
「もう少し女性の嗜みというものを身に着けていただきたい」
「だからーっ、下に水着着てきたんだってば!」
「それでも女性が脱衣しているだけで男は興奮するんです! 見なさい!」
榊の指差すほうへ目をやると、桂くんが手で鼻を覆って俯いていた。鼻血出てるね……。
「……ごめん、あたしが悪かったです……」
「判ればよろしい」
そんなトラブルはあったものの。
「桂ちゃん、あの岩まで競争せぇへん?」
「いいですよ、負けませんよ!」
ユフィルと桂くんがさっそく海へと入っていく。
漣いわく筋肉ダルマのユフィルはボディビルダー顔負けの体格で、研究者のはずなんだけど、どこ目指してるのかイマイチ謎だ。
それを追いかける桂くんも運動が得意みたいで、いい勝負になっている。桂くん、意外と負けず嫌い?
あたしはと言えば、ユフィルが設置してくれた大きなパラソルの下にあるリクライニングチェアに寝そべって、榊にトロピカルジュースをサーブしてもらったりして。
(こーゆーの映画で観て、やってみたかったんだよね~)
でもひとつ不満があるとすれば。
「別にあたし、あんたの裸が見たいとかそういうことじゃないんだけど」
ストローを咥えたまま、白シャツ、ベスト、蝶ネクタイ姿の榊を振り仰ぐ。
「ビーチでそのかっこ、ゼッタイ変だって! あんたひとり浮きまくってるよ!?」
「溶け込まなくても結構ですので」
いつもの調子で、榊はクーラーボックスから取り上げたシャンパンボトルを拭く。
「あんたさー、みんな海水浴楽しんでんのに、ちょっとはチョーチョー、ん? チョーキョー……んん?」
「協調性」
「それ! 持ったらどうなのよ?」
「私は執事ですので」
「なんでもそれで片づけるなっ! ってか、あたしだけ水着で、きっちり服着てるあんたが傍にいると恥ずかしいのよ……っ」
「……あなたから恥ずかしいなどという言葉を聞くとは、思いませんでした」
本気でびっくりした顔をしている。あんたのあたしに対する評価がよく判った!
「あたしだって、その、年頃の女の子なんだから……っ」
榊は細長いグラスにシャンパンを注ぐと、軽くそれへ口をつける。
「私は先ほどから大変目の保養をさせていただいておりますが」
「だからっ、恥ずかしいって言ってんのに、そゆこと言うな……っ!」
思わず自分の体を抱きしめるあたし。
「はいはい」
榊はグラスを置くと、脇にかけてあったストールを手にする。後ろから手を回すようにして、ふわりとあたしの体へかけた。
「これでよろしいですか?」
眼鏡の奥で優しく微笑まれて。
顔の近さにドキッとする。
「……あたしは、あんたに脱いでほしいんだけど……。あたしがあげた水着、どうしたのよ?」
「なんのことでしょうか?」
「記憶ごと抹消!?」
海ってもっと開放的になるもんじゃないの? ひと夏の恋的なものとか……。
(……ないな、榊だもん)
ふてくされたあたしは、ストローでジュースをずずず…と啜った。
「いちゃいちゃタイム終了?」
「うわ、びっくりした! あんたいたの!?」
チェアの横の砂浜に、アーシュが体育座りしていた。
一応水着には着替えてるけど、フード付きのパーカーですっぽり包まれている。
「……よし! 泳ぎに行くよ!」
あたしはアーシュの細い手首を掴んで立ち上がる。
「せっかくの海だもん、あたし達も泳ごうよ!」
「待って、ボク泳げない……っ」
「え、そうなの?」
「そうなの! だから来たくないって言ったのに……」
アーシュがむくれて、あたしの手を振り払った。
「ヴィラにひとり残しておいて、悪さでもされたらたまりませんので」
背後から榊がまたイヤミを言う。
「あんた、そういう……」
「どうぞ」
振り返ったあたしの鼻先へ、パンパンに膨らませた浮き輪が突きつけられた。
「執事、グッジョブ!」
あたしは浮き輪片手に、アーシュの首根を掴んで海へと連行する。
「鷹弥、これ嫌がらせ!? 嫌がらせでしょ!?」
ジタバタするアーシュを、頭から浮き輪へスポッとはめて。
ザッブ~ン!
「わ~、気持ちいい~~~~!」
「どこが!? 暑いし、しょっぱいし……!」
「海水飲んじゃダメだよ~」
しっかり浮き輪を捕まえたまま、あたしはゆっくり沖へと向かう。
「あーつーいー、日陰入ろうよー」
「ないよ、そんなもん」
「もう疲れた」
「早いな!」
でも確かに、アーシュはだいぶ華奢だし体力もなさそう。あんまりムリさせないほうがいいかな?
「お、嬢ちゃん達も来たんかー?」
白波の向こうからユフィルと桂くんが手を振っている。
「どっちが勝ったのー?」
「僕―!」
桂くんが両手を挙げた。ちょっと意外!
「歳には勝てんわー!」
「ふたりとも来たなら、みんなでボール遊びでもしますか? 未亜ちゃん、アーシュ、ボール取ってくるねー!」
桂くんが浜のほうへと泳ぎだす。
「待って、桂! ボクも帰るー!」
アーシュが桂くんに近づこうと手で水を掻いた。
「あ、」
あたしの手が浮き輪から離れた瞬間、大きな波がやってくる。
(マズイ……!)
慌てて浮き輪を押さえようと手を伸ばしたんだけど……目の前で水が弾けてなにも見えなくなった。
……て言うか、これたぶん、あたしが海中に沈んでる!?
(脚、攣った……!!!)
焦れば焦るほど、どっちが海面でどっちが海底なのかも判らなくなる。うっかり息をしようとして海水を呑み込んで……。
「お嬢さま!」
誰かがあたしの腕を掴んだ。
「抱きつかないでください! 私まで溺れてしまいます!」
「ぷ、あっ、わ、わかった……っ」
なんとか顔が水面に出て、あたしは咳き込みながら息をする。
「……案外、冷静なんですね」
「え? がふ……っ、また水飲んだ……っ」
もうあたしには自分で泳ぐ力はなくて、抱きかかえられたまま砂浜へ引き上げられる。
「ひとまず、コテージや!」
「若月さん、僕も手伝います!」
ユフィルと桂くんが砂浜を走り去っていくのが見える。
「寒……」
急に寒気を覚えて、なにかに頬をすり寄せる。そこで初めて、自分が抱き上げられていることに気づいた。
(……誰?)
「少し我慢なさい。すぐ温めます」
裸の胸に、ぎゅっと抱き直される。
「ああ……榊か……。眼鏡してないから、判んなかった」
「私は眼鏡で個別認識されているのですか?」
「ダイジョブ、手袋してるから榊だ……」
シャツは脱いだのに手袋はそのままなところが、なんとも榊らしい。
「みーあ……」
足元からか細い声が聞こえてくる。アーシュが真っ青な顔で見上げていた。
「……ごめんね……」
(なに謝ってるんだろう?)
ダルダルな腕を伸ばす。榊が気づいて、軽く膝を折る。
ぽん、とアーシュの頭を撫でたところで、あたしは気を失った。
「ほんっとにごめん!」
ソファでぐったりしているアーシュに、あたしは両手を合わせる。
「普段、陽に当たらんからな。桂ちゃん、かき氷できるか? あれ、軽い熱中症には結構効くで」
「判りました、すぐつくってきます!」
桂くんがバタバタと厨房へ向かう。
「嬢ちゃんはもう大丈夫なんか?」
「うん、このとおり!」
心配するユフィルへ胸を張ってみせる。
あの後コテージで一休みしたあたしは、驚異の回復力で今やすっかり元気なんだけど。
屋敷へ戻ったとたん、アーシュが頭痛を訴えて倒れ込んだ。どうやら熱中症みたい。
「頭と同じく体も粗雑にできていらして、大変助かります」
さっきからアーシュをうちわでぱたぱた煽いでいる榊が口を挟んだ。
「それって褒めてる? けなしてる?」
「文脈からご判断ください」
ブンミャク? ブンブク?
「アーシュ、かき氷できたよ!」
ふわふわ氷を持ったお皿を手に、桂くんが戻ってくる。
ユフィルがソファのひじ掛けへ腰かけると、支えるようにしてアーシュの上体を起こさせる。
「少しだけど、とりあえず。今、厨房のひとが追加で氷かいてくれてるから」
アーシュの正面に屈んだ桂くんがかき氷を載せたスプーンを差し出すと、アーシュは素直にあーんした。
「ごめーん、あたしが炎天下に連れ出したせいだよね。まだ頭痛い?」
こくこく頷くアーシュ。
「軽い暑気あたりだとは思いますが……、あまり酷いようなら医師を呼びます」
榊が煽ぐ手を速める。
「へーき。だいぶよくなってきた……」
「本格的に寝るんやったら、部屋まで運んだるで?」
アーシュの髪を手で梳かして、ユフィルが問いかける。それへアーシュは、小さく横へ首を振った。
「……ここがいい……」
ユフィルの胸へ頭を凭れさせると、不意にあたしの手を握ってくる。潤んだ瞳で一瞬あたしを見上げてから、瞼を閉じた。
「……天使や……!」
「嬢ちゃん、騙されとるで」
昼間そんなことがあったので、アーシュの夕食は榊が部屋まで冷製スープを持って行くことになった。
ゆきちゃんはまだ仕事から帰ってなくて。今ダイニングには、あたしとユフィルのふたりだけだ。
「ね、あのさ、アーシュのことなんだけど……」
あたしは鱧の天ぷらを突つきながらユフィルのほうを見る。
ちなみに今日の夕飯は和食みたいで、テーブルには鱧と野菜の天ぷら、蛸と海藻の酢の物、ウニの載った冷ややっこにクルマエビのお味噌汁が並んでいる。料亭か!
「ホントに家族とか探さなくていいのかな?」
「探してはみた」
「そうなの?」
「俺らは多紀ほど非常識やあらへんからな。でも、今のところ手がかりなしや」
ユフィルがお味噌汁のクルマエビをかじる。あ、頭ごと食べちゃうんだ。まあ、いいけど。
「多紀はまったく帰す気ないみたいやったから、まあ、よっぽどの事情があるんちゃう?」
「ね、多紀さんのこと訊いていい? どんなひと?」
「とんでもない女」
「ごめん、も少し具体的にお願いします」
ユフィルはしばらくカリカリやってから、エビのしっぽを汁椀の蓋へ置く。あ、しっぽは残すんだ?
「俺らは……少なからずみんな、多紀には世話になっとる。実を言うと、俺らもアーシュとたいして変わらん」
「どゆこと?」
少し遠い目をして、ユフィルが話し始める。
「俺の親はおかんが日本人で、一条グループに勤めとった。仕事でアフリカ地域へ赴任した時におとんと出会って……おとん、その時妻子おったらしいんやけど、まあ大恋愛して、駆け落ち同然で日本へ来たんやて」
「えっ、マジで? リアル・ハー○クイン!」
「でもふたりとも、俺がちっさい時事故で逝ってもうて。おとんの親族とは連絡つかんし、おかんのほうは……俺、見てくれがこんなやから、引き取りを拒まれて」
「………」
「施設に入る手続きしてたら多紀が現れて、面倒見るからうちへ来いって。よく訳も判らんうちに当時多紀の住んどった豪邸へ連れてかれたん。後から聞いた話やけど、おとん達の駆け落ちを手引きしたん、多紀やってん」
「なるほど、とんでもないキューピッドだね」
でもそのおかげで今ここにユフィルがいるなら、あたしは感謝するけどね!
ユフィルが椅子の背へ凭れかかって、天井を見上げる。
「ほんまにあんひとは……豪胆で人情家で……無責任やった」
「ムセキニンなの?」
「そ。ひと屋敷へ引き取っておいて、自分は仕事が忙しうてほぼ留守なんや。まあ使用人はおったんやけど。で、俺が引きこもり始めた時、鷹弥が来た。鷹弥はあのとおり世話焼きやけど不器用なところもあるから、そこは俺がフォローせんとあかんな思って、今に至る」
「え、待って待って、じゃあ榊も多紀さんに引き取られてたってこと? でも養子にはなってないんだよね?」
松平のオヤジの話を信じるなら、そういうことになる。
「……鷹弥のことは、俺が話すことちゃうんやん?」
軽く釘を刺して、ユフィルが味噌汁を啜る。
(それもそうだ)
気になるのなら、あたしが本人に訊くべきだ。
でも。
(聞いてあたしは、どうするんだろう?)
窓の外から、車のドアの閉まる音がする。
ウトウトしていたあたしは、ベッドから起き上がって時計を見た。
午前0時を12分くらい過ぎたあたり。
(ゆきちゃん、やっと帰ってきた?)
あたしは寝間着のまま部屋から廊下へ出る。
1階から榊の声が聞こえて、それに対してゆきちゃんが、もう遅いから休んでくださいって言ってる。
こんな遅くまでお仕事してたゆきちゃんも大変だけど、それを出迎えるために待ってなきゃならない榊も、考えてみれば確かに大変だよね。
ゆきちゃんと榊は玄関口で少し話してたけど、やがて榊の足音が遠ざかっていって自分の部屋へ引き上げたのが判った。
「………」
ゆきちゃんが小さく溜息を吐く。
(疲れてるのかな?)
夜更かしを叱られるかもしれないけど、あたしは1階までゆきちゃんをお迎えにいくことにした。
「ゆきちゃん、おかえり」
「……ああ、未亜……」
あたしの声に、ゆきちゃんが階段のほうを振り返る。
その途端。
ぐらりと、ゆきちゃんの体が揺れた。
「えっ、ちょっ……ゆきちゃん!?」
あたしは倒れたゆきちゃんの傍まで急いで走り寄る。
「だっ、誰か……! 榊! 榊、来て!!」
「なにごとですか? ……っ、征斉さま?」
「どうした?」
榊がゆきちゃんの脇へ膝をついた時、玄関の扉を開けて漣が中へ入ってきた。
「漣! ゆきちゃんが急に倒れちゃって……」
あたしの言葉を最後まで聞かずに、漣がゆきちゃんのほうへ屈み込む。
「ゆき? 大丈夫か?」
「ああ……だい、じょうぶ……ちょっと、視界がぐるぐるしてる、かな?」
漣がゆきちゃんの脈を取ったりしている間に、榊は携帯でどこかへ電話をかける。
「石田医師、夜分に恐れ入ります。当家の征斉さまが急にお倒れになって……」
「意識はある。脈は少し遅い。おそらく過労だとは思うが」
「過労ではないかと思いますが、念のため往診をお願いできますか?」
榊は手早く通話を終えて、漣のほうへ向き直った。
「医者がすぐにこちらへ来ます。とりあえず、征斉さまをお部屋へ」
「ゆき、立てるか?」
ゆきちゃんは立ち上がろうとして、肩から床に突っ伏してしまう。
「いい、むりするな」
漣はゆきちゃんを、ひょい、とお姫さま抱っこして、階段を上り始める。榊はそれを追い越すと、ゆきちゃんの部屋のドアを開けた。
榊が布団をめくったベッドの上へ、漣がゆきちゃんを寝かせる。
あたしはただふたりの後ろを、おろおろとついていくしかできなかった。
「熱は?」
「あっても微熱だな。むしろ下がってるかもしれん」
ゆきちゃんの額に手をやりながら、漣が答える。
「眩暈がしていると言うからメニエール発作の可能性もあるが……意識ははっきりしているし呂律も回ってたから、脳の問題ではないだろう」
「あ、あんた医者なの?」
「違う。簡単な診立てと応急処置ができるだけだ」
「ともかく、医師が来るまで寝かせておきましょう。桂になにか胃に入れるものをつくらせます。ここをお願いしてもよろしいですか?」
そう言って、榊は慌ただしく部屋を出ていく。
そのうちに榊の呼んだお医者さんがやってきて。ゆきちゃんは過労だから、しばらく安静にしてなさいと言って帰っていった。
「ここのところ、ずっと仕事で根を詰めていたし、今朝も顔色が悪かった。おそらく寝不足もあっただろうな」
「そうですね」
ベッドの脇に立った榊がゆきちゃんの寝顔を見下ろして、ひとつ小さく息を吐く。
「枳津くんも毎晩遅くまで大変でしょう。後はやりますから、もう休んでください。ほら、未亜お嬢さまも」
「いい、ここにいる」
「いてもなにもできませんよ?」
「いいの、いるっ」
青い顔をして目を閉じているゆきちゃんを置いて、自分の部屋へ戻れるはずなんてない。
そう思って大きく首を振ったあたしに、榊はあからさまな溜息をよこした。
「まったく……征斉さまにも困ったものですね」
「なによそれ!? あんたなんかなにも知らないくせにっ。ゆきちゃんがどんな気持ちでいたか、どんなにプレッシャー感じてたか、あんた判ってないよ!」
今まで溜めてたものが、一気に噴き出した。
「ゆきちゃんは……ここに来る前、不安だって言ってた。ちゃんと期待に応えられるか自信がないって。だからムリして頑張って……。それなのに、あんたったらいつもおっかない顔でガミガミ言うばっかでさ! お兄ちゃんが倒れちゃったの、あんたのせいなんだからね!」
「未亜……違う」
半泣きで榊へ喰ってかかっていたあたしの腕に、そっとゆきちゃんが手をかける。
「お兄ちゃん!?」
あたしは慌ててベッドの脇へひざまずく。
「鷹弥さんのせいなんかじゃないよ。僕が自己管理できなかっただけだから……」
ゆきちゃんは横になったまま、前髪を怠そうにかき上げる。
「そんなにむりしてるつもりは、なかったんだけどね……」
「年明けからずっと慌ただしかったですからね、疲れも溜まっていたのでしょう。石田医師からもしばらくゆっくり休むよう言われていますから、まずはお眠りになってください」
「すみません、ご迷惑をおかけして……」
「仕事ですから」
「……っ、あんたって……!」
「お嬢さまも! ご自分のお部屋へお戻りなさい。あなたにまで倒れられては、私は手が回りません」
「仕事仕事って、なんなの、それ……っ」
「枳津くん、彼女を部屋まで送ってください。ここで騒がれては征斉さまの体に障ります。今夜は私がついていますので」
「あんたになんか任せられ……」
「判った。なにかあるようなら携帯鳴らしてくれ」
漣があたしの腕を摑んで、言葉を遮る。
「じゃあな、ゆき」
そのままあたしを部屋の外へ、ズルズルと引きずり出した。
小さく手を振りながら、ゆきちゃんがあたし達を見送っている。
「ちょっと! 放してよ、漣! あたしもゆきちゃんについてるってば! あんなレーケツカンひとりに任せておけないよ!」
「おまえな……。兄貴の気持ちも考えろよ」
漣がドアを静かに閉めた。
「おまえが寝ずに看病でもしてみろ、ゆきは今度はおまえの体を心配して、結局ゆっくり休めないだろ」
「あ……」
確かに……それはそうかも。
「その点、榊は仕事でついてるだけだ。ゆきも気兼ねせずに済む。……それに、おまえが思ってるほどあの執事は、冷血漢なわけでもないぜ」
「え?」
まさか漣が榊を庇うなんて思ってなくて、ついハト豆みたいな顔で見返してしまう。
「まあ、でも、反目する相手には容赦ないからな。せいぜい敵に回さないようにしとけよ」
肩越しに言い置いて、漣は階段を下りていった。
翌朝。
空が明るくなり始めたと同時くらいに、あたしはゆきちゃんの部屋を訪ねた。
「ゆきちゃん、どう?」
ドアを開けてくれた榊に訊いて、部屋の中を覗き込む。
「よく眠ってらっしゃいます。薬が効いているのでしょう」
「……見てもいい?」
「ええ、もちろん」
ベッド脇からゆきちゃんの顔を覗き込み、そっと額へ手をあてる。
「……少し熱あるのかな?」
「かもしれませんね。ですが、昨夜は体温が35度を切っていたのですから、マシになったということでしょう。血色もだいぶ戻りましたし」
「うん……」
「……あなたは、昨夜はちゃんと眠れたのですか?」
「あー……やっぱ気になっちゃって。今まであんまりゆきちゃんって、病気とかしたことなかったから。たぶん具合悪いことはあったんだろうけど、あたしの前では平気なふりしてたんだよね。だからそれができないって、相当シンドイ状態なんだろうな、って。そう思ったら、不安になっちゃって……」
改めて言葉にしたら余計に不安が増した。
「もしお兄ちゃんがいなくなっちゃったら……あたし、ひとりぽっちになっちゃう……」
「……ご両親は離婚されているんでしたね」
「うん。1歳かそこらの時に離婚してるから、あたしはパパのこと全然知らないし、ママも何年か前に再婚して、もう連絡取ってないんだ。ママの実家にも戻れないし……。あたし本当に、もうお兄ちゃんだけなの」
榊の眉間に薄いしわが寄る。
「……ひとは誰でもいつかは死にます。そして生まれる時も死ぬ時も独りです。あまり依存されない方がよろしいかと」
「うん……判ってるよ。お兄ちゃんだって、いつまであたしの面倒見てられないだろうしね」
いつまでもお兄ちゃんのお荷物ではいられない。判ってる。だけど……。
「……まだ時間も早い。部屋へ戻って、あなたももう少しお休みなさい。あなたがしおらしいと、私の調子が狂います」
そう言って榊はあたしの背中へそっと手を添え、部屋の戸口へと誘導した。
「お部屋までお送りしましょうか?」
「ううん、大丈夫。ありがと。……あんたは少しは眠れたの?」
「私は昼間少し休ませていただこうと思っております」
「うん、そうして。ごめんね。……ありがとう」
うまくできたか判らないけど、一応笑ってその場を後にする。
背後から、
「……本当に、調子が狂いますね……」
榊の呟きが聞こえた。
・・・つづく