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随想ー春分の日をエンジョイする

(『日本の年中行事を考える』をテーマに、2018年にブログで連載していた記事のひとつをリライトしました。元記事はこちら。)


2024年3月20日は水曜日だけど何故だか祭日。
理由はどうあれ祭日うれしー! 休めるうれしー!
そう無邪気に喜んでいる方も少なくないかもしれない。
でも、今日が国民の祝日となっているのには、それなりの理由があるのだ。

春分、それは彼岸の中日

日本には春と秋、2回のお彼岸がある。
いずれも春分の日、秋分の日を中日として、その前後3日を加えた7日間を指す。

2024年は17日(日)が「彼岸の入り」で23日(土)が「彼岸明け」。
そしてその中日20日は、太陽がほぼ真東から上がって真西へ沈む「春分の日」だから祭日となっているのだ。
「え? つまり、休みなんだから墓参りくらいしろ、とか、そういう話?」と、すでに拒否反応を起こしている方、少し待っていただきたい。
春分の日、考えようによっては案外楽しいイベント日にできるかもしれない。

お彼岸=墓参りなわけではない??

そも「彼岸」とはなんなのか?
素直に読めば「彼方(あちら・あなた)」の岸。
対語は当然「此方(こちら・こなた)」だ。

諸説あるようだが、仏教用語の「波羅蜜多(サンスクリット語で『到達・達成=到彼岸』を意味するらしい)」に由来するとか。
修行を達成することで彼岸に至れるというわけ。
つまり「此岸」が煩悩と迷いの世界なら、「彼岸」はそれらから解放された浄土(あるいは悟りの世界)なのだ。
そして目指すべき浄土は、阿弥陀仏のおわす西方十万億土の彼方にあるという。

実は他にも浄土、あるっちゃあるらしいのだが、なんか信仰のしかたが簡単だったかなんだかで一時阿弥陀信仰がすげー流行ったって話があったようななかったような。
まあたぶん、そんなこんなで「浄土(彼岸)は西」というイメージが庶民の間に定着していたのだろう。
なので、ひとびとは西に沈む夕陽を見ては極楽浄土を思い描いていたわけだ。
それがさらに真西に沈むときちゃ、いつもより真剣に拝まずにはおられまい。
そして、ただ拝むだけでなく、より能動的に浄土へ近づく努力をしましょうと始められたのが、六波羅蜜の修行などを行なう彼岸会なのだと思われる。

六波羅蜜については長くなるので略説に留めるが、要は他人に優しく自分に厳しく、怒ったりせずに常に正しい判断力を持つよう努力しろ、ってな事が書かれた六つの教えのこと。
これを一日ずつ実践するために彼岸の期間って7日あるのかもしれないなと思ったり。
(あるいは逆なのか?)

ここで注目すべきは、この六波羅蜜の教えの中に「先祖供養」なんて文言はいっさい書かれていないという点だ。
飽くまで彼岸会は、迷いや苦悩を断ち切るために自らを省み、修養する機会と捉えられている。

墓参りは日本独自の習俗だった!?

我々日本人にとって墓参はしごく一般的な行事に思えるが、世界的にはそうでもないらしい。

キリスト教徒は身近な死者を悼むために墓を訪れはしても、先祖供養という概念はない。(そもそも墓も個人名義だし。)
同じ仏教徒でも、インドには墓を立てる習慣自体ないのだとか。
日本人の感覚の中に息づいている、遠い祖霊までもが今生きている子孫の人生に関与してくるというような思想が、死者の家となる墓を立てて祀る行動へと結びついたのかもしれない。

この辺りもいろいろ考え方はあるようだが、日本の場合、古事記などを鑑みれば、死んだ先祖を尊ぶ、祀る、という感性がもともと備わっていたのだと考えられる。
先祖(守護霊的なもの)が超常力を得て神さまっぽいものになり、後から入ってきた仏教と習合したことで、「死んだら仏」となって浄土へ至る……みたいな話になっていったのではないかと。
本来は煩悩を祓い、悟りを開くために夕陽を拝んでいたものが、その夕陽の向こうに死んだご先祖さまたちがいるんだな~と思ったら、ついつい「見守っててね」と頼みたくなるのもしかたない。
その際、ただで頼むのは心苦しいので、供物を持って墓へ行く。
よって、いつの間にか「彼岸=墓参り」の図式ができあがったのではないか。

……とまあ、かなりザックリした考察だが、彼岸だからと言って必ずしも墓に詣でる必要はないという事は説明できただろうか。
でも別に墓参りを否定するわけでもないので、そこに意義を見出せる方はぜひともお参りしていただきたい。
また、春分の日には歴代天皇や皇族の霊を祀る『春季皇霊祭』が皇居内の皇霊殿で斎行されるので、「陛下とお揃い!」と思えば墓参のモチベーションも上がるかもしれない。
(怒られそうだな、この記述(^^;)
……余談だが、こういう宮中祭祀、テレビ放映とかしてくれると日本古来の行事ももっと盛り上がるのにな~と思ったりするのだが。
儀式の性格上、そういうわけにもいかないのか……残念。

供養も修行も楽しみながら!

で、結局どうやってお彼岸を楽しめばいいのさ!?という話に戻るワケだが。

実は国民の祝日である「春分の日」は、国の規定で「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」日とされている。
農耕民族である日本人には、本格的な春の始まりとなるこの日は結構たいせつだったのだろうが、海外ではさほど意識されていないようだ。
天文学的な興味以上の意味を付加しているのは、日本以外だとイランなどの中央アジアやアフリカの一部だけらしい。
イランの春分の祭『ノールーズ』はゾロアスター教に端を発するとかいう噂もあるので、森羅万象に霊が宿る的な根本思想が日本との共通点なのかもしれない。
……そう、日本では森羅万象に霊が宿っているのである。
そしてその霊は、神霊や精霊であると同時に度々先祖霊だったりもする。
民俗学者の柳田國男によれば、かつて日本には、普段山や海に住んでいる先祖の霊が盆暮れ正月になると子孫の元へ帰ってくる、という考え方があったのだとか。
つまり。

自然に親しむだけで先祖供養になっちゃうんじゃね!??

3月は「古いものを捨て、再生を計る」季節だ。
年度末であり、卒業のシーズンでもある。
何かを終わらせ、新しい何かを始めるための準備期間。
それが3月なのだ。
要不要を判断し、穢れを祓うためには、己を省みることが必要だろう。
振り返ったそこには、嫌でも親や祖父母の存在があって、良きにしろ悪しきにしろ必ず影響を受けている。
そして供養とは、死者の極楽往生を祈ること。
彼らを気持ちよく成仏させるためには、できるだけ生前の善行を思い出してやるのがいい。
大上段に構えて「感謝しろ」と言われれば反発も覚えるが、地球誕生まで遡って思いを馳せ、そこから現在までの月日の中でご先祖さんたちも懸命に生きてたんだろうな、と思いやることくらいはできるかもしれない。
ひいては、後世の者たちから「しょーもねぇ先祖たち」と言われない程度に自分の襟を正すことも。

だから春分の日の今日、ハイキングや川遊び、植物園なんかにでかけるのはどうだろう?
もちろんインスタ映えする秘境へ赴いてもいい。
手軽に自然を楽しんで、ついでに自己修養もできちゃう――題して『春分ツアー』&ぼた餅のおやつつき。
どうせならぼた餅もインスタ映えを狙って、うぐいす餡にさくらの塩漬けを載せたものとか、ピンクの梅餡とか、可愛く3色ぼた餅なんてものにすれば、結構ウケるんじゃ?
そんな企画を立ててくれる旅行会社、ないかな~?

春分をエンジョイする(ついでに先祖も供養する)

自然の中で思いきり遊び、ストレスと共に穢れを捨て去る。
おむすびを頬張りながら、稲作を考え出した遠いご先祖、偉いな!と時折感謝してみたり。
今、目の前にある豊かな自然を、100年、200年先の人たちにも見せてあげたいとか思えれば、充分お彼岸を満喫したと言えるのではなかろうか。
遠出でも、手近なところでもかまわない。
太陽の恵みを体感し、今日という日をエンジョイするために出かけよう!

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