コーヒーをたらす理由
コーヒーで絵を描いている自分が
絵を描いていくなかで
いろいろ体験したことを書いています
コーヒーで絵を描いているとき
人物画でも抽象画でも
いつもコーヒーを
垂らしたような
飛び散らせたような
そういう部分を
どこかに作るようにしています
勢いがでたり
感情が表現できたり
とても特徴的なので
自分の絵の
トレードマークになっていると
思っています
かなり最初の頃から
こういう描きかたをしているのですが
↑すごーく初期の絵たち、恥ずかしい・・
この飛び散った表現を大切にしているのには
ふだんあまり人には話すことのない
ちょっとした理由があります
まだ絵を描くずっと前に
NYに1人で行ったことがありました
そして
まったく何もわからないまま
行ったので
とりあえずセントラルパークで
迷子になりました(笑)
とにかく大きいセントラルパーク・・
歩いても、歩いても
出口がわからない
寒いし、1人だし
歩き疲れてきたし
不安になって
いったいいつ出られるんだよ・・と
涙目になりながら迷っていると
木々が点在してる
少しひらけたところに出ました
見渡す限り、人がいない・・
あんまりにも1人なので
他に見るものもなくて
そこらの木を眺めながら歩いているうちに
一本の
木の節に目が止まりました
そして何気なく
幾重にも層になっている
樹皮を見ていたら
そこから
目が離せなくなりました
どこまでも、どこまでも
細胞が重なり合っていて果てがない
そのうえで、いくら見ても見飽きない
完璧な形
すごい
すごすぎる・・
木を見上げたまま放心状態で
穴が開くほどに
凝視していました
(まわりに人がいなくて良かった・・)
わたしが
たとえ
どんなに練習しても
この節の1センチ四方だって
描き写すことはできない
再現して作り出すことは
絶対にできない
こんな完璧な形が
この木の中に無限にあって
それが見渡す限りの
全部の木にあって
この広い
セントラルパーク中に
広がってて
さらに世界中にあって・・
考えているうちに
なんだか目が回ってきました
とても敵わない
どんなに努力しても
手のひらに収まるような
木の節ひとつだって
自分には
再現することはできない
もう両手をあげて
自然に
完敗したような気持ちになりました
そして
この林を超えたところにある
メトロポリタン美術館には
今日も人が並んでいて
そしてお金を払って入っているのに
ここには誰もいない
こんなに完璧なものが
無数にいくらでも展示されてるのに
誰も見ていない
その時、逆に
じゃあ私は
「ぜったいに自然には敵わない」
ということを描いていきたい
と思ったのです
私が絵を描くときは
いつも主役は
飛び散った自然の線だと思っています
そこに何かの「絵」を描いておくと
人が見てくれやすいけれど
でも本当に仕事をしているのは
自然そのもので
そこに右手を貸している
みたいな感覚です
重力が
1番カッコいい線を描いてくれる
逆に
我欲が出て
自分で「描こう」「描こう」とすると
作品が描き上がらなくなって
苦しむことになります・・
(これが良くあるから、しんどい)
これからも
この
初心を忘れないで
描いていけるといいな
と思っています