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釈迦の仏教・四法印「諸法無我」
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「釈迦の仏教」とは
「釈迦の仏教」とは、何だったのでしょう。三法印・四法印に込められた釈迦の教えはガイドのようなものです。お遍路では「同行二人」が当たり前のようにお大師様が寄り添ってくれます。三法印・四法印にこめたお釈迦様の心は道案内のように現代を生きる人々に心に刺さります。刺さらない人には刺さるまで教えてあげましょう。それがお釈迦様の心だからです。後に生まれて来るものたちのために「自灯明・法灯明」に託して逝かれました。
ただ誰かから聞いたからといって、それを信じるな。
何代も受け継がれたからといって、その伝統を信じるな。
たくさんの人の間で語られ、噂になったからといって、それを信じるな。
あなたが所属する宗教の聖典に書かれているからといって、それを信じるな。
ただ貴方の先生や先輩の権威だからといって、それを信じるな。
しかし、観察と分析を行なった上で道理に合っていて、すべての者の利益になると貴方がわかったならば、それを信じなさい。
涅槃教が説く
釈迦の仏教とは、苦を楽にする「正しい生き方のガイド」でした。
涅槃教では
「ブッダは私たちの外側ではなく、内側に存在している」と説きました。
つまりブッダとは私なのです、如来蔵思想も同じことを説いています。
しかし煩悩まみれのあなたは「そんなことはない!」と信じません。
こんな俺が涅槃にいけるなんて無理無理と断言します。しかし、そんなことはないのです。
即身成仏(そくしんじょうぶつ)の意味
空海もそのままで成仏できると説きました。
真言密教とは、お釈迦様と自分はこのままでひとつであるという思想であり、すべてのものは釈迦が姿を変えたものであるという考えです。
人も仏も本質的には同じであり、すべての人はその中に仏性を備えている。本来もっている仏性に目覚めれば、生きながらにして仏(釈迦)の境地に至ることができるというのが教え。
弘法大師空海は現実を肯定し、現世における肉体のままでも、それが仏であると密教で説きました。人は内に仏性を備えているが、凡夫(煩悩にとらわれている状態)はさまざまな迷いの雲に覆い隠されている状態である。その仏性に目覚めれば仏の境地に至る。
つまり誰もが慈悲の目覚めればお釈迦様の境地にたどり着けると問いたのです。
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その結果「高野聖」が誕生して、困っている人を助けては「即身成仏」を全国を旅して説いて回ったのです。
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親亀の背中に子亀を乗せて、そのまた背中に
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つまり親亀の背中に子亀を乗せて、そのまた背中に孫亀乗せて、そのまた背中にひまごを乗せ・・・「ラッパ節」ですね。四法印を歌いながら亀の集団が歩くように。四法印を唱えながら歩く釈迦の背中に空海を乗せて、そのまた背中に高野聖を乗せて、そのまた背中にお百姓さんを乗せて。。。なのです。
諸法無我
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「法印」すなわち「三法印」あるいは「 四法印」とは、すべての存在に共通する法則を表す教えであり、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静の四つの真理から構成されています。なかでも「諸法無我」はお釈迦様を理解する上でもっとも重要なことばです。
私は、四法印のひとつ「諸法無我」を密教でいう「即身成仏」に喩えて言いました、
「諸法無我」とは、お釈迦様の教えの一つで、あらゆる存在が自己独立的に存在するのではなく、諸法によって成り立っているという考え方で釈迦の仏教の中心となる考えです。
この教えは、個々の存在が独立的な存在ではなく、全体としての関係性によって成り立っている「相互依存」であることを教えています。「相互依存」はマインドフルネスそのもので、めの前のことになりきる状態をいいます。つまり没頭です。ウェルビーイングやマンダラチャートの基本的な概念です。
「即身成仏」つまり自分の中に、すでにブッダはいるのです、「諸法無我」は自分を消すことですなので、消したらブッダもいなくなるのでダメです。矛盾しています。そこで疑問が起こります。私とはなにか?仏とはなにか?次のセリフがヒントになります。
この風をおさめようと思うな!
己が風になれ!
この雨を止めようと思うな!
己が雨になれ!
空海が満濃池の改修工事の着手したとき、村人全員に50日でやり遂げようと叱咤激励します。そんな時間では無理だ、わしらのそんな力はないという村人にいいます。昼夜では働けば倍になると返します。
つまり仏(ブッダ)は遠いどこかにいるのではなく、わたしの中にいるのです。私を救うのは私の中にいる仏(ブッダ)なのです。
いままでの苦しみを思い起こしてみよ。
水に死に、病に倒れ、若い娘は身を売り、産まれた子供は間引きされる。その苦しみ、悲しみから脱するには、いましかない。
この世で救われたいと思わないか。この世で幸せにならずして、なんのこの世か。わしは天地の力を集める。昼も夜も合わせて100日だ。
諸法無我は、草木も含めて、あらゆる存在が自己独立的に存在するのではなく、諸法によって成り立っているという考え方です。
私たち一人ひとりが、一つの社会や地球社会の一員であり、他の人や生き物、自然と共に生きているということを再認識することで、あらゆる存在に対する思いやりや共感を養うことを説いています。
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また、この世界ではあらゆる存在が相互に依存し合っているということも示しています。私たちは孤立した存在ではなく、全体としての一部であることを思い起こさせてくれます。一人一宇宙で、誰も他者の宇宙に入ることもでることもできないが、一人一宇宙で全宇宙を形成しているのです。
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言い方を変えると全宇宙が釈迦の仏教であり、一人一宇宙が大乗仏教の役割をしています。つまり一人一宇宙にはお釈迦様がいて、つなでいるのは煩悩まみれに隠れた一人一宇宙のお釈迦様であり、悟った全宇宙のお釈迦様なのです。
現代を生きる私たちは恵まれていて繋がることに恐怖すら感じ、ピンと来ないかもしれません。いま、ここ、この瞬間”にフォーカスすることで、自分だけでなく他者に対してもマインドフルネスする力を呼び起こすのです、
「諸法無我」の教えは、私たちに自己中心的な考え方を超え、広い視野を持って世界を見ることを促すものです。自己を省みることで、他者に対する配慮を持ち、豊かな慈悲の心を育むことができます。
自己鍛錬が慈悲を育て、苦しみを除いて、安楽を与える抜苦与楽の精神に繋がるという教えは、個人だけでなく社会全体にとっても大切なものであり、生涯学び続けることが求められるといえるでしょう。
自我を消すことが悟りの始まりだとしたら、辻褄が合いません。一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう) 」 (生きとし生けるものは皆仏になる素質をもっている)とも「衆生本来仏なり」ともいう。 人間の本性、本質は「仏性」というのである。 だから、ささやかなことでもいい、困っている人を助けたり、良いことをしたときは気持ちがいい。「如来蔵思想」を取り入れると釈迦の仏教ではなくなるという声があります。
如来蔵は如来を如来たらしめている本性として法身(永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏の姿)にほかならず、ただそれが煩悩を纏(まと)っているため、まだ如来のはたらきを発揮出来ない状態にあるという考え方。
原始仏教はじめ様々な仏教を研究、学問として論じるならそうでしょう。
大乗仏教にある釈迦の仏教を論じたことで、芯がなくなるなら問題ですが、それぞれの個人が芯を間違わずに論じるなら大いに結構。
なぜなら人は幸せになるために釈迦が苦行して培った叡智を活用することは間違っていないからです。自灯明・法灯明で、自分で考えて、それが人々のためになるならそれで良いと釈迦は言い遺されています。
つまり自分で生きて、考えなさいなのだから、「諸法無我」が「即身成仏」の無我であってもおかしくないのです。誰でも成仏するために自由自在に無我になって良いのです。
諸法無我の正しい意味
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そこで「あるべきようわ」を提案します。
人は本来空海が叶えたように、この地上で望みを叶える力を持っています。しかしほとんどの人はその力を使っていません。
なぜでしょう?使えると思っていないからです。
しかしネガティブことには使っています。病気のイメージを潜在意識に送り込んでいますが、ポジティンブなイメージを送り込むのは苦手なようです。顕在意識に送り込もうとすると自分で否定するのです。
諸法無我の大切さは、目に見えない世界に希望を送り込むことです。潜在意識は自動運転で行きたい場所に案内してくれます。余計なことは言わないことです。潜在意識は顕在意識より多くのことを知っていて、必要な分析も終わっています、あとは涅槃寂静を実行すればいいだけです。涅槃寂静の邪魔をして騒がないことです。
物事が生起するとき、感情と同じように物事は取捨選択しません。良いことも悪いことも全て起こります、善悪の取捨選択しているのはあなたです。つまり一切の全責任はあなたにあります。エネルギー資源のマネジメントはあなたがしています。「あるべきようわ」の基準をコントロールするのはあなたです。マンダラチャートでマネジメントすることをおススメします、
マンダラチャートに諸法無我の心を
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マンダラチャートは内から外に、外から内に流れます。内は内側の力、外は外側の力、相互依存で互いを支えます。
そうして両界マンダラを具体的な形に取り込みます。
諸法無我で、目標になりきるのです。
禅の入門書「十牛図」の十番目の絵は入鄽垂手(にってんすいしゅ)といい、主人公である「牧人」は見た目が変わっています。誰も同じ人だと思いませんよね。なぜここまで変わってしまったのでしょう。
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牛を追いかけてる内に、すっかり風貌が変わり行動も変わりました。「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」とは、「ぶらりと町に入ってきて、何をするということもなく帰っていく」という意味になります。
大宇宙の道理を悟っても、繋がらなければ、いのちは枯れてしまいます。
平凡な日常生活にいのちの本性をいかして、いのちの意義があります。(=生きるということ)
つまりぶらりと町に入ってきて、何をするということもなく帰っていくだけで、何も語らなくても、そこにいるだけで、気軽に声をかけるだけで、いのちの本性が、一切衆生に慈悲を持って接するのです。
学問があっても自分だけのために、使うことにどんな意味があるでしょう
お金があっても、自分だけのために、使うことにどんな意味があるでしょう
権力があっても、自分のためだけに、使うことにどんな意味があるでしょう
この境地を禅では、「直指人心、見性成仏(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)」といいます。
「直指」とは、直ちに指すこと、文字や言葉ではなく感覚で捉えるといえばいいでしょう。
「人心」とは、一般に想像する「心」ではなく、本心・本性、禅でいう仏性です。
「見性」とは、対象になりきること
「成仏」とは、覚った人間になること。
4つをひとつにすると、一瞬にして相手の仏性になりきる。といえませんか?
つまり「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」は、本質を実践している絵です。目標に対しても同じ心で実践してみてください。
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