言い訳としての「平和主義者」
突然ですが、わたしは男2人とシェアハウスしています。
その詳細はまた別途記事にしますが、
そのうちのひとりは、親友であり、家族であり、元恋人です。
今日は、そんな彼のことを書きます。
彼は言い争いや喧嘩を好みませんし、ほとんどしません。
自他ともに彼のことを「平和主義者」と呼んでいます。
性格自体は非常にアクティブで人懐っこく、
それでいて穏やかな・・・と表せるのではないかと思います。
一方でわたしは、年上だろうが意見のぶつかり合いを厭わず、
超バッチバチに争ったりします。(手は出しません。口論だけです。)
「お前、戦いの神みたいな性格してんな」って言われたこともあります。
余談ですが、細○数子氏の占いでわたしは「火星人」と出たのですが
>火星人は「知恵の世界」に住み、マイペースでプライドが高く、反骨精神が旺盛です。
>しかし、その行動において「奇人・変人」が多く、まわりが理解されない傾向があります。
と書いてありました。
いちいち刺さるんだよなぁ。
まぁでも確かに、不要な喧嘩は決して気持ちの良いものではないし、
不毛な言い争いは極力避けたい。
では、なぜわたしは言葉にしてしまうのか。
今思えば、
わたしはわたし自身をどうにかして守りたかったんだと思います。
世の中にはいろんな人がいます。
例えばアイデアをポンポン思いつく人は、
裏を返せば、会話の中で膨大なタスク量を投げつけてくることもある。
つまり、こちらが興味のないことに対して「興味がない」と言わなければ
(悪気なく)どんどん負荷をかけてくる可能性もある。
自分の時間は、自分でしか守れない。
自分のやりたいことを、やるべきことをできる時間を守るために、
戦うことが必要な時もある。
守るものは時間だけではない。
権利とか、メンタルとか、名誉とか。
大切にしている誰かかもしれない。
「彼」の話に戻ります。
彼は、「平和主義者」の名のもとに
自分を守ることを放棄していた時期がありました。
「何がやりたいのか?やりたくないのか?」ではなく、
「何をすべきなのか?するべきでないのか?」
ばかり頭にあったようでした。
やりたい道を突き進んで生きてきたわたしにとっては、
それが無性に腹立たしかったんですね。
誰が何を望んでるか、じゃねぇんだよ。
お前が何やりたいかなんだよ。
別に喧嘩をしろとか、拳をぶつけよ、というわけではない。
ただ、言葉にすることを放棄しないでほしい。
何度もそう伝えては、
困ったように「僕はそういうの、分からないな」って言われました。
うるせぇ、分かれよ。バカ。
言葉にすることを放棄するならば、
自分の時間を、権利を、メンタルを、名誉を、
あるいは誰かのそれらを、傷つけ、奪うかもしれない。
しかし、言葉にすることは一種の戦いだと思っています。
自分と戦い、また相手とも戦い・・・
考えている以上に、言葉にするって難しい。
自分の伝えたいことは言語化しつつ、
その中で、相手を尊重し、自分も大切にし、会話を進める……
(別に不快にさせてもいいけど、メリットはあんまりなさそう。)
いや、人間生活、難しすぎかよ。
以心伝心、テレパシーでも使えればいいけど、
少なくともわたしはそれじゃわからない。
今、彼は研究や就活に追われています。
その過程の中で彼は、
「何をすべきか、何を望まれているか」ではなく、
「何がやりたいのか?やりたくないのか?」
ということを考えるようになった気がします。
この先どんな道を選んだとしても、
彼が彼自身の「声」を聞いて、やりたいことをやってほしいなと思います。
友人として、家族として、元恋人として祈っています。
「平和主義者」の名のもとに、それを言い訳にして、
言葉にすることを、何かを守ることを放棄しないように。
自分のために、誰かのために。
あるいは、これを読んでいるあなたのために。