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死に急ぎクソポエム卍

生きている間の時間、少なくとも意識のある時間を私は意味のある時間にしたい。
私は天才でも秀才でもなく頭が悪いので、せめてもの努力として発想や創造のために思考を人よりも巡らせなければならない。
世界のあらゆるものに対して、人間は問いを向けることができるし、それに対して思考することができる。
それが答えにたどり着けようとそうでなかろうと、とにかく考えを巡らせることはできる。

私はちゃんと何者かにはなりたいので、何も考えずにただぼーっと生きていきたくはない。
快楽は快楽として享受し、また、常に懐疑と思考を抱いて生きていきたい。
持てる時間をただあいまいに、蒙昧に生きていきたくはない。
思考と創造の欠落した人生を送りたくはない。
そういう生き方をしようものならば、ただの何者でもない藻屑として死ぬしかないと思う、できればそうであってほしい。

人生とそれを構成するあらゆる決断と時間に対して、鑑賞することもされることも一定の苦痛を伴うと思う。
苦痛を受ける、あるいは与えるのであれば、それ相応の根拠がないとやってられない。
それは友人であろうと恋人であろうと家族であろうと、関係性によって変わるものではない。
むしろ、関係性の末に甘えが生じることで殺されるとすら思う。

どうして私の、何者かであろうとする努力をする時間を他人に易々と切り売りしていいだろうか。
あるいはあなたの、他者の時間もまた同様である。
時間は命であり、命は時間である。
命を燃やして、何者かであろうと努めているのにもかかわらず、どうして日常の一場面においてその命を軽く切り渡すのか。
死と共に何者でもないただの藻屑となる恐怖を、なぜ日常の中で忘れようか。

気づきは生である。
そこに思考が生まれ、創造が為される。
私は生を享受したいので、やはり意味のない時間に忌避感を覚える。

他者と交わること、それに伴う喜びや愛しみ、もしくは悲しみ、怒り、人間としての奥底から沸き起こる感情に対して無意味だとは感じない。
ただ根拠なき行為に意味を見いだせず、そこに失われた生を悔いるばかりである。
愛しているからこそ私自身の無意味な命の浪費を許さず、相手の命でもまた同様である。

このような生き方が、意地が、世間一般的な思想から外れていることは全く以て否定しない。
だが私は間違っていない。
私のこの無様な屁理屈まみれの生き方を笑う奴は全員、蒙昧な藻屑となって、何者でもないただのヒトとして、死ね。
肉体的な死を迎え、何者でもないが故の忘却によって、二度目の死すら願う。

ただ、幸いにしてこのクソな生き方でも許してくれる人はいるそうです。

おわり。

特に面白い記事でもなければ、 ためになる記事でもないのですが、 みのんさんに寿司を食わせるつもりでおひねりをください。