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日本一の富豪村(2)~それは村山邸から始まった~
村山龍平がやってきた
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なびガラスくんがまず案内してくれたのは、お住まいである弓弦羽神社の東隣りにある、村山邸。
1900(明治33)年ごろのこと。朝日新聞創業者の一人である村山龍平は、御影町郡家に数千坪の土地を取得します。広大な敷地の中に1909(明治42)年に洋風邸宅を建てました。1階は煉瓦造、2・3階は木造で建坪235坪。設計は北九州市大阪商船ビルを手掛けた河合幾次です。
その後、彼は和風邸宅や茶室(玄庵)建て、本宅として居住しました。
なぜ御影に来たの?
三重県は伊勢国生まれの村山龍平が、縁もゆかりもない御影の地になぜ移住したのかははっきりと分かっておらず、この突飛な行動に対して、気が触れたのではないかと言われたこともあったそう。
当時の一流の財界人は茶道をみな嗜んでおり、1902(明治35)年、関西の数寄者財界人により、「十八会」という茶会が作られました。なぜ「十八」なのかと言うと、会員18名が毎月18日に持ち回りで茶会の亭主を務めるためでした。
この会には、藤田傳三郎(藤田財閥の創業者。美術品コレクターとしても有名。大阪の藤田美術館には国宝や重要文化財を含む数多くのコレクションが収蔵されています。)など、明治時代に成功した新しい財界人だけでなく、元々御影や住吉の地で酒造業を営んでいた名士である、嘉納治兵衛(白鶴酒造)や嘉納治郎衛門(菊正宗酒造)、小網與八郎(世界長酒造)なども名を連ねていました。
この「十八会」の発足は、村山龍平が御影に土地を求めた2年後ですが、村山邸の北側には嘉納治兵衛邸(白鶴酒造)がありますし、茶会や書画骨董を通じて地元の酒造家たちとの交流を深め、「茶会でお邪魔した嘉納さんちの辺り、なかなかいいよね。土地も空いてるみたいだし、移り住んでみようかな。」なんて思ったのかもしれません。
これも推測にすぎませんが、神道であった村山龍平は、弓弦羽神社の隣のということに惹かれたことも考えられます。
村山龍平の出身地は三重県伊勢国。伊勢神宮はお膝元ですが、熊野三山もそう遠くはありません。弓弦羽神社は熊野の神様を祀る神社で、八咫烏がシンボルです。「この土地に住むのは、八咫烏のお導きかもしれない。」と思ったかもしれないと、想像はふくらみます。なびガラスくんの活躍があったのかもしれませんね。
村山邸ってどんな建物?
この村山龍平邸(正式には、旧村山家住宅洋館)は重要文化財に指定されていますが、公開されていないため、画像を掲載することはできません。文化遺産オンラインで「旧村山家住宅洋館」と入力すれば検索ができ、建物についても詳しく解説されています。洋風邸宅だけでなく、書院棟・茶室棟などの和風建築も建てられ、当時の実業家の財力と本気度が伝わってきます。
また、村山龍平のコレクションを収蔵した香雪(こうせつ)美術館のWEBサイトでも検索できますし、中之島香雪美術館では、村山龍平が作った茶室「玄庵」の原寸大で再現され、広大な敷地内のジオラマが常設展示されています。洋風邸宅の居間の再現を見学すると、当時の様子が窺えます。ご興味のある方はぜひ一度足を運んでみて下さい。
私的村山邸の思い出
村山邸の敷地内にある香雪美術館は現在休館中ですが、以前はよく訪れたものです。こじんまりとした美術館ながら、重要文化財を含む日本美術の収蔵品は素晴らしく、展覧会の内容も充実しています。何より地元に重要文化財を擁する美術館があるなんて、誇らしいじゃありませんか!
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ちなみにこの美術館入口の前の道は弓弦羽神社との境目の道なのですが、私が小学生のころは痴漢の名所として知られる暗い道で、通るな!キケン!と言われておりました。今ではすっかり明るく整備され、そのような心配はご無用ですのでどうぞご安心を。
庭園見学会に参加して
数年前に庭園特別見学会に参加したことがあります。邸宅は中に入らず外から見学し、ガイドの方のお話を聞きながら庭園内を歩きましたが、庭園というよりは森でした。東京・青山の根津美術館に行かれたことがある方は、あの庭園の様子をイメージしていただければと思います。村山邸周辺は今も静かな住宅地ですが、そんなに深い森があるとは想像もできません。
この見学会の際には写真をたくさん撮りましたが、ネットでの公開は禁じられましたので紹介はご容赦いただき、外から撮影した石垣と紅葉の様子から、中の様子をご想像下さい。
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美術館のWEBサイトによると「美術館の敷地は約5000坪に及び、調査で野鳥が17種確認されました。植物は常緑植物を中心におよそ60種類が確認され、樹齢が100年以上と推定される大木も多数あります。」とのこと。自然保護にも一役買っているのではないでしょうか。なびガラスくんもさぞ居心地がいいことでしょう。
村山カーブって何?
この村山邸には「村山カーブ」という逸話があります。村山邸のすぐ北側には阪急神戸線が通っており、岡本駅から御影駅の間に当たるのですが、岡本駅からの直線の線路が、村山邸のあたりでS字カーブを描きます。
阪急電車(当時は箕面有馬電気軌道)は1916(大正5)年に神戸線に着工し、阪神間をできる限り直線で結ぼうと邸宅街の真ん中を突っ切る予定にしていましたが、計画を知った住民らが反対運動を展開。村山龍平らは阪急創業者の小林一三に直談判します。結局村山邸の北側を迂回することで決着し、S字の「村山カーブ」が誕生しました。さすが村山龍平、やりますね。
一般公開に向けて
YouTubeを検索していると、毎日放送が洋風邸宅・和風建築を取材した番組が上がっており、ありがたいことに邸宅の内部を垣間見ることができました。一般公開に向け修復が進んでいるそうですので、公開された暁にはぜひ足を運びたいと思います。
「富豪村」の守り神
広大な敷地を持つ邸宅は、分割されマンションなどに姿を変えることが多いのですが、なぜそうならずに済んだのかと、香雪美術館の関係者にお聞きしたことがあります。すると、相続人が少なかったからではないかとの返答を得て、なるほどと納得した次第です。
「日本一の富豪村」華やかりし時代を彩った洋風建築はどんどん姿を消し、街並みが大きく変化をしていくのが残念でたまりませんが、戦争・地震だけでなく、阪急電車と闘い、区画整理を乗り越え、相続をくぐりぬけ、この村山邸が健在であることがせめてもの救いであり、地元民としてはここが最後の砦だと思うことしきりです。維持して下さる朝日新聞社には、感謝の気持ちでいっぱいです。
「日本一の富豪村」を最初から最後までを見守ってくれている村山邸。それはこの地域のランドマークでもあり、守り神のような存在にほかなりません。
村山龍平という一財界人が移り住んだことに始まって、これから様々な財界人が集まってきます。彼らは広大な敷地に洋風邸宅や日本建築、茶室を作り、御影・住吉という地域自体がサロン化され、「日本一の富豪村」と呼ばれるまでになるのです。その先のお話は、なびガラスくんの力を借りて、追々紹介することにいたしましょう。
【参考文献・資料】
・坂本勝比古「郊外住宅地の形成」(「阪神間モダニズム」展実行委員会編
『阪神間モダニズム』(淡交社、1997年10月)
・筒井紘一編『新版茶道大辞典』(株式会社淡交社、2010年2月)
・『十八會記』(泉屋博古館蔵)
・「関西数寄者のネットワーク 経済界と美術~「十八会」と「篠園会」を
通して」白洲信哉編『月刊 目の眼』(2014年9月)
・神戸新聞NET「急なS字、なぜできた?阪急神戸線「村山カーブ」誕生
秘話」(2019年2月3日)
・中村実里「幻の村の興亡ー住吉村・御影町の「富豪村」とその代表的な洋風邸宅の変遷」(2019年)
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