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なんでも読みます(4)恋文を読む

 年を重ねると自分で読むのが億劫になるようで、読んで聞かせてほしいという思いが強くなるのか、いつもはかなり年上のお客様が多い。だが今日は、40代くらいの女性のお客様が訪ねてきた。めずらしい。働くシングル女性という雰囲気だったので、何を読むのがご希望だろうと思っていたら、宛名が縦書きで書かれた封筒から取り出された、4枚の便箋が手渡された。

「この手紙を読んでほしいんです。」
「はい、かしこまりました。」
 達筆とは言えないにしても、一字一字丁寧に書かれた文字が並んでいた。便箋4枚にびっしりと書かれた長い手紙だ。男性の筆によるものだろう。
「録音してもいいですか。」
「ええ、もちろん構いませんよ。」
誰かに聞かせるために、録音が必要なのだろうか。
私はゆっくりと、手紙を読み始めた。
 
 それは恋文だった。
 彼女のことをどれほど大切に思っているか。自分はこれまでこんなに女性を愛したことはない。彼女と出会って初めて、自分の人生が価値あるものに思えた・・・。などなど、麗しい言葉が並んでいるが、空々しさはない。おそらく本心からの言葉で、本当の気持ちが伝わってくる。
 読んでいる私まで、少し照れくさくなってしまうような愛の言葉の数々。メールやLINEのように、ディスプレイの上にただ「言葉が並ぶ」のとは異なり、便箋の上に「言葉が刻まれている」と言った方が的確かもしれない。

 便箋は古びておらず、彼女の母や祖母に宛てられた手紙ではないはずだ。となると、やはり彼女に向けられた言葉なのだろう。これほどまでに愛されているとは、なんともうらやましく思う。何かを結論づけたり、約束するような手紙ではなく、ただ彼女を思う気持ちを文字にし、伝えたいためだけの手紙だった。そして「大切な○○へ」と締めくくった手紙を読み終えると、彼女は録音を止めた。

「幸せなお手紙ですね。」
「・・・幸せだった頃の、ね。」と彼女は含みのある言葉で答えた。

「S県の支社で重要なプロジェクトがあったので、転勤して1年近く住んでいたんです。彼はそこでの上司でした。一緒に仕事をして、本当にお世話になりました。私は仕事を始めて5年で、まだまだの時期でしたし、初めての転勤で、しかも知らない土地だったので、知り合いもいなくて。彼は地元のおいしいものを教えてくれたり、名所に連れて行ってくれたり。」
そして二人は、離れられない間柄になってしまったのだろう。
「でも、彼には家族がありました。」

 彼女は反応を窺うような目で私を見、私は黙ってうなずいた。否定されないと判断したのだろう。言葉を続けた。

「彼を本当に愛していたし、かけがえのない存在だと思っていました。彼もそうだったと思います。彼のそばにいたいとは思っていたものの、彼をご家族から奪おうとは思ったことはありませんでした。彼という人を、彼を存在を、ただ愛している。それだけです。」

「彼と過ごした時間、訪れた場所、交わした言葉、見た景色。それらは今も私の宝物です。彼と愛し合い、生きていてよかったと、きれいごとなどではなくそう思いました。ちょうどその頃、彼からもらった手紙です。」彼女は慈しむように便箋を見つめた。

「おかげさまでプロジェクトは成功し、会社に評価もしてもらいましたし、二人とも本当にいい仕事ができました。それは彼が公私ともに支えてくれたおかげです。ただプロジェクトが終われば、私は本社へ戻らなければなりませんでした。」
 それは避けられないことだけに、二人にとってつらいことだったろう。プロジェクトが永遠に続いてほしいと思ったのではないだろうか。

「私はS県を後にしましたが、彼は出張を口実に会いに来てくれる。そんな日々が3か月ほど続いたでしょうか。」
 彼女はそこで言葉を切った。もしや、家族に見つかってしまったのだろうか。

「こちらに戻ってきても、彼のことは愛していましたし、大切に思っていました。でも同じプロジェクトのメンバーとして、同じ目的に向かって走っていた頃とは何かが違う。公私ともに一緒だった、あの頃とは違う。今の二人は異なった人生を歩んでいるということを、感じざるを得ませんでした。」
「私は30代の半ばで、結婚して子供を産むにはそろそろタイムリミットがやってくる。彼とこのまま付き合い続けていいのだろうかと、次第に思うようになったんです。」
 ああ、男性と違って、女性はなんと哀しいのだろうか。恋愛も結婚もいつでもできる。ただ、子供を産むことにだけはリミットがある。そのために消えてしまった恋は、この世界にいったいいくつあるだろうか。

 彼女は彼から離れることを決めた。彼への思いは変わらないし、他に好きな人ができるほどのすき間もなく、心は彼に占められている。では、どんな理由で別れればいいのだろうか。
 彼女は悩んだ末に、気持ちをそのまま話すことにした。
 彼にしてみても、彼女を愛するあまり、自分に縛り付けておきたいという気持ちと、それが彼女の本当の幸せかどうかという、迷いはあっただろう。そして彼は別れを受け入れた。その時彼女は、自分より一回りも年上の男性が激しく涙する姿を、生まれて初めて見たという。
 そして二人は知らない者同士になった。あまりに深く愛し合った者たちは、別れたらといって、友人になれるわけではないのだ。

「別れてから5年が過ぎました。でも私は結婚していないし、子供も産んでいません。この人と結婚したい、子供がほしいと思うほど愛することは、そう簡単なことではないと気付いてしまったんです。生まれて初めてと言っていいほど、彼を心から愛したからでしょうね。皮肉な話ですが。」
「彼と別れるのではなかったと、心の底から後悔しました。結婚はしなくても時々会って、ただ彼を愛して、彼からも愛されて、一生を送る方法もあったのではないかと。」
「愚かな話ですが、彼に電話をしてしまったんです。何回も、何回も。できることならやり直せないかと伝えたかった。でも彼はが電話に出ることは、決してありませんでした。」
 この彼のすごさを感じた。こんな恋文を書くほど愛していた彼女から、もう一度会いたいという連絡が入ったら、心はさぞ揺らいだことだろう。でも彼は電話に出ず、会うこともしなかった。彼の思いは推測するしかないが、別れに耐えたプライドと、がんばって生きてほしいという、彼女へのエールだったのではないだろうか。

「本当に情けない人間ですよね、私は。彼のことは忘れて、いいかげん前に進まないといけないと思うのに、今もまだ手紙を読み返したりしている。だから今日は手紙を読んでもらって、他人事みたいに客観的に振り返って、手紙も捨ててしまおうと思ったんです。」
「ではなぜ録音を?」
「音だけは、言葉だけは残しておこうかと思って。だってこんなラブレター、なかなかもらえないでしょ?」
ここを訪れてから、彼女が初めてすこし笑った。

「ええ、こんな気恥ずかしい、でも愛に満ちた手紙、なかなかお目にかかれませんよ。」とうなずき、続けた。
「これはひとりごとだと思って聞いていただけますか?」

「私は「なんでも読みます」という仕事をしていて、本当になんでもかんでも読むんです。でも直接書かれた思いのというのは、なんて生々しく力強いのだろうかと、あらためて気づかされました。一文字一文字に思いがこもり、心が伝わってくるというんでしょうか。第三者の朗読では、とてもとても表現できません。」

「生きていく上でこのお手紙が重荷になる、あるいは後悔の証拠として、見たくはない、というお気持ちなのであれば、断捨離されてもよいかと思います。ただこれは、愛した人にこれだけ愛されたという、証拠のような手紙です。それは時に、あなたに自信や勇気を与えてくれるかもしれない。そしてうんと年を取った時、私にもこんな時があったんだと、懐かしく愛しく、読み返すことができるかもしれません。お客様はみなさんね、いろいろなものをお持ちになって、読んで下さいっておっしゃるんですよ。時にはちょっと自慢げにね。」
 彼女は何も言わず、手紙に目を落としていた。
「勝手なことを言ってごめんなさい。」

 彼女の前の冷めたコーヒーカップを片付けながら、昔々の恋を思い出していた。生々しかった恋も、別れの後の生木を裂くような思いや後悔も、みんなみんないつかは癒える。激しい思いは浄化され、いい思い出だけが結晶のように残っている。そしていつか、クローゼットの奥から宝物を取り出して眺めるように、微笑みと共に思い出せるようになる。思い出の数が多ければ多いほど贅沢な人生だと思うが、なかでも恋は格別の宝物だ。そんな宝物が一つでもあれば、年を取って体が満足に動かなくなったとしても、きっと退屈することはない。
 そのときのよすがとして、あんな恋文が残っていればきっと楽しいはずだなんだけど・・・。余計なお節介だったかしら。

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みのむし庵主の1K日記
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