「市民」でありたい~兵庫県知事選挙に寄せて
私は「兵庫県民」です。
しばらくの間、何も書けませんでした。いや、書くどころか、鬱々とした気持ちで11月を過ごし、何もする気が起こりませんでした。
全国的にお騒がせしてしまった県知事選から、1週間ほどが経ちます。ようやく落ち着きを取り戻し、あの騒乱を振り返ることができるようになりました。そして私はなぜ動揺したのか、何を恐れたのか、何に絶望したのか。それを検証しなければと思い、久しぶりにキーボードを叩いています。
私は生まれも育ちも神戸で、仕事で2年ほど他県に住んだものの、それ以外はずっと神戸に住む「神戸市民」です。
神戸出身者は自己紹介の際に「神戸出身です」と言うことはあっても、「兵庫県出身です」と言うことはほぼありません。兵庫県はとても広く、地域によって気候も気質もまったく違うことや、神戸という街への誇りがあること。そして神戸というブランドイメージが、全国的に「使える」ためでもありました。
その誇りとは、神戸という街は「都市」であり、そこに住む人は「市民」であるに違いないという信頼感でもありました。私が考える「市民」とは、よりよい地域と暮らしを目指すために政治に関心を持ち、自ら考え、自らを疑い、他の意見を聞き、議論を重ねて結論を導く人のことです。自他ともに疑うことができるのが真の知性であり、それを持つ者が「市民」だと。
・・・思っていたのに。
この県知事選挙期間中に見聞きし思い知ったことは、人の考えはわずかな間に覆されてしまうこと、それも180度裏返ってしまうこと。人は声の大きいものに簡単に流されてしまうこと。人は付和雷同しやすいこと。人は白黒や善悪をつけなければ気が済まず、悪とみなせば徹底的に叩き、善とみなせば祭り上げること・・・。
ネット社会において、その傾向が強いことは十分理解していました。ただ、こんなに身近で起こることとは思いも寄らず、その変化の過程を目の当たりにした今、脱力感でいっぱいです。
そして「神戸市民」の投票結果を確認し、神戸という街に抱き続けてきた誇りや信頼感が打ち砕かれ、絶望的な気持ちになりました。この街に住む人は「市民」だと信じていたのは、私の勝手な思い込みだったのかと。
自己紹介で「神戸出身です」と言うことも、今後は差し控えたくなりました。
県政や政治に対する関心が高まったこと、有権者の関心が高く投票率が上がったこと、既得権益への認識が高まったこと、それらは今回の県知事選のよかった点と言えるでしょう。ただ、今後の知事の施策について、引き続き関心を持って監視する人々が、果たしてどのくらいいるのだろうかと疑わしくなるのです。ただ一時的なお祭りに参加した気分なのではないのかと。
選挙というのは、祭りのようなものです。言ってみれば「ハレ」の状態です。でも本当に大切なのは「ケ」の状態、日常です。つまり今後の県政がどのように展開されるのか、公約が実践されるのかを監視することが大切なのですが、祭りが終わった今、すでに関心が薄らいでいる気配が感じられてなりません。県民でもないのに祭りに乱入してきた人たちは、祭りは盛り上げても、日常には付き合ってくれません。そしてあれだけ怒ったのなら、今後もしっかり関心を持ち続けなさいよと言いたい。
太平洋戦争の際も新聞やラジオは大本営発表を垂れ流し、戦後に反省をしたとはいうものの、今もテレビや新聞を始めとするマスコミの報道にバイアスがかかっていることは、周知の事実です。それを今になって、マスコミは信じられないと言い出すのも不思議な話。100%信じられるものなどどこにもありません。ネットだってしかりです。ではどうすればいいのか。各ソースから情報を集め、自分で判断するしかありません。そこで白黒、善悪を決めてしまえばスッキリしますが、生きていると何事もそう簡単に割り切れるものではないことを、有権者の年齢になればもう分かっているでしょう?
思えば、鬼畜米英から親米一辺倒に転換した太平洋戦争前後のように、180度の転換は本邦のお家芸かもしれません。あれから80年近くが経っても、本質的に何も変わっていない、いやネット社会の到来で一層激化しています。声の大きな者に流される。戦争はこうして起こるものなんだと実感したことが、今回の恐ろしさの一因です。
ここに書いているようなことを、本当は周囲の人と話したいのですが、これができないこともまた恐ろしい。まずはその人がどんな考えを持っているのか探らなくてはなりません。そしてもし何かを盲目的に信じこんでしまった人ならば、違う意見に対して聞く耳を持ちませんし、議論にもなりません。そのためそんな人に対し、「ああ、そういう人なのね。」とすこし距離を置くようになりました。これが分断というものなのかと実感した次第です。
私は2つの大学に入学しました。1度目は高校卒業後に、そして2度目はつい8年前のことです。なぜいい年になって再度大学に入ったのか。それは1度目の大学で取得できなかった資格を取りたかったからなのですが、卒業論文を執筆しなければなりませんでした。いまさら研究して論文なんて書けるかなと、大きなプレッシャーだったのですが、頭が凝り固まったいい年だからこそ、卒業論文に取り組む価値がありました。
自分が論じたいこと、結論づけたいことへ持っていくために、どれほどの量の資料にあたり、何度現地に行って確認したことか。それでも査読の際には更なる裏付けが必要と言われ、何度も資料を探しました。そう、自論を裏付けるためには、膨大な時間と労力が必要なのです。それが分かると、ネットでの情報を情報としては受け入れても、安易に全面的に信じることなどできなくなりました。だって、そんな即席情報のウラなんて、取ってるわけないのですから。
1度目の大学での卒業論文はちょうどバブル時代に書いたものの、いかにも単純なもので、あれで単位をもらって卒業してもよかったのか、ずっと疑問でした。でも2度目の大学生活で真正面から研究に取り組み、自論を展開するには確固たる根拠が必要だということを、身をもって知ることができたことは、資格を取ったことよりも大きな収穫でした。
そういえば今回の県知事選でネット情報になびいたのは、50代あたりに多かったという記事を読み、きちんとした研究の末に卒業論文を書いていない世代なんじゃないかな、と思い当たるフシがありました。・・・これこそ確固たる根拠のない自論で恐縮ですが。
ここまで書き進め、私は今回の県知事選の「結果」というより、「過程」に動揺し、恐れ、絶望したのだということがよく分かりました。そして今、私に何ができるのか、何をすればいいのか、その答えはまだ出ていません。ただ、いつまでも絶望し続けたくはありません。そろそろ気持ちを立て直したい。
私はやはり「市民」でありたい。政治に関心を持ち、情報を広く集め、自分の判断基準を持って考え、常に自分を疑い、他の意見を聞き、議論を重ねて結論を導く「市民」でありたい。兵庫県民や神戸市民といった枠に囚われない、本当の「市民」。自分の信じる「市民」でありたいと、今強く思います。