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「読書」はした方が良いのか。

「読書」をすることは良いことなのだろうか。
読書が好きな人たちは、みんな口を揃えて読書する人を増やしたいという。
自分の好きな作品を読んで欲しいという人もいれば、教育面で良い効果を期待できるからという人もいる。立派な社会人は読書しなければいけないと思っている人もいるだろう。

他方で、映画やドラマ、アニメやゲームにはこのような言説は聞かない。読書はどうやらある特権的な地位を保持しているようなのだ。

読書の歴史は明治時代からはじまる。国民国家建設のため公教育が整備されると同時に読書の美徳が発信された。小学校の校庭には二宮金次郎像が建てられていることからもわかるように、読書は立身出世に必要な行為として認識され、その実学的効用が強調されるとともに、立派な大人になるために必要な徳を涵養する行為としても定着した。

つまり、かくも読書が特権的な地位を確保できたのは、国家主導によるところが大きいと言わざるを得ない。
現在に至るまで「読書」が良いものであるという「信仰」も、遡ればそこに端を発しているのであろう。

とはいえ数十年前と比較すれば、読書好きの絶対数はかなり減っているだろう。特に情報技術革命以後は、書籍という媒体は極限まで弱体化した。しかし、そのような時代の変化の中でも、読書が陣取っていた地位が未だ揺らいでいないことが驚きなのである。

なぜ読書は未だ特権的な地位にいるのか。なぜ映画やドラマ、アニメやゲームと同列には語られないのであろうか。
ここで、ぼくが最近読んだまんが、児島青「本なら売るほど」から考えてみたいと思う。

「本なら売るほど」は、脱サラして古本屋を経営する主人公の店に、色んな人々が来店してくる。そして各エピソードでお客さんたちの色んな背景が描かれていくヒューマンドラマである。
そこには書籍という物体へのフェティッシュが余すことなく描かれており、読書好きにはたまらない作品となっている。

どのエピソードも秀逸なのだが、ここではあるサラリーマン(ジョージさん)が蔵書を納めるために本棚作りをするエピソード「第4話 201号室入居者あり」を取り上げたい。
色々あってホームセンターの店員に手伝ってもらい、3,000冊の蔵書を収める本棚を完成させるが、実はジョージさんは蔵書のほとんどを読んでいないことが判明する。

いわゆる「積読」というやつだが、それ以上に自分の蔵書コレクションを本棚に並んでいる風景が見たかったのだという。
ポイントは彼にとって書籍は読むものではなく飾るものになっているということだ。

このことは、読書好きな人にとって「あるある」なのではないかと思う。書籍が綺麗に本棚に収まっている光景は、なにか読書好きな人の心をくすぐるものがある。
ぼく自身、本の雑誌社が出版している「絶景本棚」という著名人の本棚の写真集を3巻まで買ってしまうほどくすぐられているのだ。

しかし他方で、これは「読書」とは到底言えない。
フュギュアやプラモデル、花や盆栽を飾るのと何も変わらない「ファッション」としての書籍なのである。

ジョージさんは、なぜ読まないのか尋ねられると「僕 読めないタイプの本好きで…」と語る。
ここには一冊を読み終わるという読書のハードルの高さが描かれている。

そうなのだ。
「読書」は実は大変ハードルが高いものなのだ。
特に、「ちゃんと読もう」と思えば思うほど、読書は困難なものになっていく。

よくTwitterでは定期的に「積読」の問題がバズる。
明らかに読むペースよりも本を買うペースが上回ってしまい、際限なく未読本が積み上がっていく読書好きは掃いて捨てるほどいるのだ。(かく言うぼくもその一人だ。)

本を買う、本棚に並べる、という快楽は読書好きにはある程度共通しているのだろう。
そこには先のジョージさんほどではないが、「ファッション」の要素も多分に入り込んでいることを認めないわけにはいかない。

ここで話を元に戻そう。
なぜ読書は特権的な地位を保持し続けているのかという問いだが、おそらくこの読書のハードルの高さが起因しているのではないかと思う。

映画もドラマもアニメも、基本的に始まれば受動的に進んで行く。視聴者が寝てしまったとしても、停止ボタンを押さない限り必ずエンディングまで進む。
ゲームはこれらよりも能動性が必要だが、やはりエンディングまでの道のりは読書に比べてハードルは低い。
他方で読書のハードルはかなり高い。このハードルの高さが、読書を実際以上に祭り上げているのだ。

しかし、読書はそんなにすごいものではない。
例えば小説を読むこととアニメを観ることで、大きな文学性の違いなどあるわけがない。
有体に言えば、良い本もあれば悪い本もあり、良いアニメもあれば悪いアニメもあるというだけの話であって、読書だから価値があるというのはまやかしでしかない。

一番冒頭の問いに戻ろう。
「読書」はしたほうが良いのか。それは、映画やドラマやアニメやゲームと同じように、好きな人が読めばいいだけであって、必要のない人には必要ないだけではないだろうか。
むろん読書は役に立つのかもしれない。徳を涵養できるのかもしれない。
でもそれは読書でなくてもできるだろう。読書だけが特権的に価値があるわけではないのだ。

ぼくたちはもう一度、「作品(=内容)」について立ち返った方が良い気がする。
ここまで読書について書いてきたが、そもそも読書といっても小説もあればビジネス書もあるし、絵本や漫画も入るだろう。
読書というカテゴリー自体が、実は何も名指しできていないのだ。

本来、「読書」云々ではなく、何を読むかという「作品」に焦点を当てるべきなのだ。
読書は作品を受容するための手段であって目的ではない。目的ではないものについて語っても不毛なだけなのだ。

それに現代では読書も多様化してきている。紙の書籍、電子書籍、オーディブルのような聴く読書も増えてきている。
TwitterなどSNSでは、これら多様化した読書形態に対して、オーディブルは読書ではないとか、喧しく議論されている様子も観測できる。
しかし「作品」をベースに考えれば、読書形態など心の底からどうでも良いことなのだと思えるだろう。
作品にちゃんと向き合うことができれば、そのための手段はまったくの無関係なのだから。

「本なら売るほど」の最終章は、脱サラして古本屋を経営する主人公の過去編となっている。古本屋を開くきっかけとなったストーリーなのだが、そこで出てくるセリフがある。

「本は劇薬だ。時に人を死に至らしめる。助かる方法はひとつだけ。至って簡単だ。本など読まなければいい。」

なるほど、そうだろう。ぼくも死ぬまではいかないが本を読んで人生が狂ってしまった自覚がある。本なんか読まずに、もっと仕事に打ち込んだり、もっと外出したりしたほうが普通の楽しさを感じられた人生だったであろう。

しかし、やはりこのセリフも読書を特権化しているように聞こえる。
おそらく、
「好きな作品は劇薬だ。時に人を死に至らしめる。」
が正しい。

世の中には、好きな作品を必要としない人もいるだろう。そんな人に好きな作品を見つけろと、ぼくは間違っても口にできない。
しかし、好きな作品がなければ生きていけない人も、同時に存在していると思われる。根拠はないけれど、少なくともぼくはそうだ。

ぼくたちは明治時代以降、伝統芸能のように崇め奉られていた読書という行為の特権性を解除しなくてはならない。
まず、そうしなければ作品について真に語ることができないからだ。

読書という手段はどうでもいい。作品について語ろう。


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