存在しているというだけで
母親からの電話は、大体午前中で、偏差値の高くない東北の私立大学にだらしなく通う私は大概出られない。
昼過ぎに起きて、着信を確認して夕方ぐらいにかけ直す。しかし、その頃には夕飯の支度なのか運転中なのかで、母親が出られず連絡がつくのはいつも夜になるという具合だった。
けれどもその日は天気もよく、一人暮らしのアパートの前の川沿いには桜が咲き始めていたので、身分をわきまえず散歩でもしようかと思い炬燵で気持ち良くうとうとしていた。
高校時代から使っていたPHSは、最初に落とした時のショックだけを私の心に刻み、以降何度となく落として角の塗装が剥げ、灰色の下地が色気もなく露出していた。
高校卒業と同時に携帯電話に移行していたが、まだPHSの契約は続いていた。電波範囲が狭いので、アパートではギリギリの状態なのに母親は毎回なぜかこちらに連絡をするのだった。
その日も、せっかくの散歩の準備を兼ねて珍しく午前中から起きて、うとうとしているところに単音で作られた着信メロディが鳴った。
何の強がりかは知らないが、母親からの電話はすぐに出ないようにしていた。恐らく暇だと思われたく無かったんだろうと思う。
焦らしに焦らして鳴り止まないようなら出る、という売れないホストがやるような出口を母親に使っていたのは恥ずかしい事この上無いと思う。
少し不機嫌そうな声を作り、いかにも作業を中断されたような感じで電話に出る。実際、気持ち良くうとうとする、という作業を中断させられたので嘘は付いていないはずだ。
もしもし、と言い終わる前に母親が喋り出すのはいつもの事だが声のトーンが違っていた。
爺ちゃんが倒れた。茨城訛りのイントネーションで伝えられた言葉は現実味を帯びるのに時間がかかった。
爺ちゃん。まぁそんな歳だよな。そんな歳だよなって思ってるけど、ちゃんと歳知らないかも。誕生日も分からんかも。100歳とかなら盛大にお祝いするから分かっただろうに。爺ちゃんが倒れたのか。
まだ肌寒い東北の春を、石油ストーブと炬燵で戦っていた部屋の温度が分からなくなっていて、自分がショックを受けていることに気づいた。
電話を切って一人『そっか』と呟いて
そこからの支度は早かった。荷物をまとめて歯を磨き、車のエンジンをかけ砂利の敷かれた駐車場を、タイヤを空回りさせながら高速道路の入り口へ急いだ。
爺ちゃんは仕事人間で朝の6時に家を出て19時ぐらいに帰って来て夕飯を掻きこみ寝てしまう。
倒れたと聞いてショックを受けた私だが、思い出がある訳ではなかった。というか、爺ちゃんとの思い出というキーワードが存在していなかったように思う。
田舎の本家なので正月や夏休みに、みんなで出かける事は無かった。我が家に人が集まって来れば、爺ちゃんは久しぶりに会う親戚と話す事になるし、こちらも久しぶりに会う従兄弟や叔父さんとの時間を楽しむだけだった。
思い出は無い。
なのにこんなにショックなんだな。その証拠に高速道路に乗ってからはあんまり覚えていない。
気がつけば、地元で1番大きな病院についていた。
古く動きの遅い自動ドアに肩をぶつけながら受付に向かう。4階の病室を教えられ、縁起の悪さにムカついた。
ドアを開けると母親と近くに住むおばさんがいて、落ち着いたので他の人は1度帰ったと言われた。
今の所、すぐに死んじゃうって事じゃないらしい。けどまだまだ元気で行ける!って事でも無いという事だった。
管が何本か繋がってる爺ちゃんは作り物みたいで、そういえば寝顔を初めて見たなぁ、とか思っていた。
思い出もほとんど無くて、最近の会話も覚えて無くて、寝顔を見るのも初めてなのに、あんなにショックを受けるんだな。
病室に入ってからは私の方も落ち着いていた。
もう永くは無いよって聞いたのに。
そっか。『居』るって事が大事なんだな。それだけで安心出来るんだ。って思って詠んだ歌です。
見てもらえたら分かると思いますが、恋愛っぽくなってて、見た人によって思い浮かべる情景はかなり違うかなと思います。(ここまで私の背景書いたので邪魔かもですが)
産まれた時も、成長して恋をした時も、長く付き合ってマンネリしても、新婚さんでも、病室の爺ちゃんでも
『居る』って事が凄くいとおしいなと思って頂けたらと思います。
↓短歌です
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