宗教絵画を理解するとはどういうことか (留学日記#3)
イギリスの博物館、美術館はほとんどが無料である。芸術や文化に触れられる機会は、誰もが等しく持つべきという理念らしい。日本にいた頃はほとんど美術館なんて行かなかった僕もイギリスに来てからは、無料と知ってしまったからには、建物を見かけるたびに寄っている。
ある日、同じシェアハウスのルームメイトRと一緒に美術館を回ることになった。
ロンドンの国立美術館で、ゴッホのひまわりを見た。無料で。これが環境活動団体によってスープをかけられた絵かと思うと、感慨深かった。絵自体の良し悪しは、芸術オンチの僕にはよくわからなかったが…
しかしそんな不勉強の僕でも、これはいい!と思える絵がたくさんあった。気に入ったものは全部写真を撮っておいた。あとでRに指摘されて気がついたことには、僕が好きなのは、なるべくサイズが大きくて、大自然や動物がリアルに描かれている絵だった。自分が単純な人間なようで恥ずかしかったが、実際デカい風景画の前に立つと、視界全体が絵で覆われるため、そこにいるような気分になれる。ちょっとVRみたいで面白い。
その一方でRがキリスト教の宗教画の前で感動しているのを見て、僕はちょっと不思議に思った。はっきり言ってのっぺりしているというか、リアルっぽくもないし色も地味だし、何がいいのかわからなかった。
一緒に大英博物館にも行った。ギリシア神話の彫刻を見たとき、「あーこれ本で勉強したやつだ!」と思わず声を上げてしまった。実はイギリスに来る前に、ギリシア神話に興味を持って本で少し勉強していたのだ。ゼウスやヘラ、アポロンといった神々の物語に夢中になったことを思い出した。Rもかなり詳しく、このギリシア神話に関する彫刻については宗教画と違って二人で感動を共有できた。
Rとは年齢が近いこともありかなり親しくなり、飛行機で数時間ほどかかるエディンバラにも一緒に行く仲になった。エディンバラ城ももちろん美しかったが、僕がより興奮したのはスコットランド国立博物館でクローン羊ドリーのはく製を見たときだった。ドリーは世界初の哺乳類クローンであり、その存在自体が科学の進歩を象徴していた。高校生のころに教科書でドリーの写真を見たとき、科学に対する尊敬と同時に恐怖、畏敬のような念を抱いたことを思い出した。一方でRはあまりドリーに関心がなく、「ふーん、かわいいね」といった程度の感想だった。僕がドリーと一緒に記念写真を撮ると言ったときも、「なんで?」といった表情でこちらを見つめてきた。
これは僕が宗教画に対して無感情だったことと対照的なように思えた。その瞬間、Rが宗教画に感動できる理由が理解できた。彼はその絵に描かれた物語や背景を知っており、またそれに感動した経験があるからこそ、絵画からその深い意味を感じ取れるのだ。僕にはそうした経験がないので、宗教画はただの絵としてしか見ることができない。
以前、パンダの可愛さについても似たようなことを考えた気がする。
ケンブリッジのシェアハウスに戻り、Rにこの話をした。すると彼は「感情の連鎖」についてよく考えるのだと言った。Rが宗教画で感動したり、僕がドリーで感動したのは、まさに感動しながらその事前知識を記憶したからだと彼はいう。事前に情報とポジティブな感情の結びつきがあるからこそ、絵画やはく製から読み取られた情報がトリガーとなって、感動をリプレイするのだろうと。
そんなに単純なものかな?と僕は思ったが、当たっていないこともないかなとも思えた。というのも、そのあと一人で宗教画を目にしたとき、なぜか以前よりは少し楽しい、ポジティブな気持ちになった。たぶん、宗教画についてRといろいろ話したり考えたりしたのが楽しかったから、その感情が宗教画という情報と結びついてしまったのだと思う。これもある意味で、彼の言う「感情の連鎖」かもしれない。
もっとポジティブな感情がトリガーされる情報をどんどん連鎖的につないで、網目のように広げていきたいと思った。そのためには部屋にこもるよりは外に出る、同じ店に通うよりは知らない建物に入る、あえて興味外だった本にも手を出すとか、そういうことが有効なのかななどと考えた。
しかし僕が国立美術館で見た、大自然や動物がリアルに描かれている絵たちに感動したことはどう説明できるだろう?それはたぶん、実際の犬と触れ合って本能的にかわいいと思ったこと、森の中を歩いて理屈抜きに気持ちいいと感じたこと自体が、トリガーになっているのだと思う。つまり「感情の連鎖」の一番上流には、そういった直感的に得たポジティブな感情の記憶があるのだと思う。そういった種をもっと拾っていくのも大事だと思った。そのためには、本とかネットとか、身体性を伴わずに情報だけ摂取するより、なにか実物に触れに行く体験が必要なのかもとぼんやり考えた。
(続く)