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玉川上水を歩く:羽村~拝島(2)

玉川上水43kmを、始まりの羽村から江戸四谷まで歩いてみるシリーズ。
最初は①羽村~拝島編、5回予定の2回目です。


プレ散歩
①羽村駅~拝島駅←←←イマココ

②拝島駅~玉川上水駅
③玉川上水駅~一橋学園駅
④一橋学園駅~武蔵境駅
⑤武蔵境駅~三鷹台駅
⑥三鷹台駅~下高井戸駅
⑦下高井戸駅~初台駅
⑧初台駅~四谷大木戸

今日のルート
羽村駅から廃線跡、導水管を辿り、第三水門、大ケヤキや羽村陣屋跡を見て、羽村取水堰まで来ました。
↑クリックして頂くと、ルートマップと前回noteにジャンプします。

今回はほぼほぼ取水堰、見所は↓こんな感じ。


というわけで、いちばん上流からスタートします。
まあ、陣屋跡あたりを歩いている時点で取水堰が見えてますが、そこは目を背けて(笑)。



投渡堰

前回の最終地点、陣屋跡から少し上流へ進み横断歩道を渡ると、取水堰全体が見渡せます。
多摩川の流れを堰き止め、第1水門への流れを作るのが投げ渡し堰。上流から見たところ。
上流から、中央~右岸よりを見たところ。
三本の堰柱が横に渡された青い鉄製の桁を支え、桁から杉丸太の杭が河床へと刺さり、横に渡された差込丸太(下の写真参照)が そだ(木の枝を束ねたもの)、砂利等を溜め、それによって水を堰き止めているのがお分かり頂けますでしょうか?
同じ右岸寄りの堰柱を下流から見たところ。
堰の前後での水位差、横に渡されている丸太の様子が分かるかと思います。
多摩川の水は、ここで左岸へ寄せられて第1水門から玉川上水へと入って行きます。
堰柱にモーターらしきものがあり、フックやチェーンが見えます。これを鉄製桁に掛けておいて巻き上げると丸太が支えを失って流れ出し、堰を開放する仕組みです。
2019年台風19号などでは開放したそうですが、水位が高くなっているなかでの作業はかなりスリリングなものに思えます。実際の作業はどうなんでしょうね??
堰を流すことを投渡木払い(なぎはらい)、水位が下がった後に堰を再構築する作業を作付け、この堰の仕組みを投渡堰(なげわたしぜき)と呼びます。
※参考:東京都水道局HP 東京水道名所 羽村取水堰


江戸時代からの技術を生かした仕組みが今でも使われているのが興味深い。


第1水門〜第2水門


左へ目を転じると第1水門。
穏やかに見えますが、ここから左の玉川上水へと水が流れ込んでいます。
ずらりと並んだスライドゲートが圧巻です。
重厚な花崗岩が歳月を感じさせますが、手前から2番目のゲートがメンテナンス中なのが現役の証ですね。
多摩川から水を取る許可を取ってますよと示す「水利使用標識」。
毎秒17トン!
陣屋跡の前を通って横断歩道を渡ると階段があり、こんな風景。
多摩川の流れが左岸へと寄せられているのが分かります。
写真手前側の歩道橋が第2水門で、上水へ流す水量を調整してます。
多い分は、第2水門と第1水門の間にある余水吐(よすいばき)から多摩川へ戻ります。
裏側=玉川上水側から。
ずらっと並んだ水門、全部で17門。
上流側の表面は花崗岩、内部はコンクリート造り。下流側の5門がレンガ造り。
堰の下流で、余計に取り込んだ水を流している余水吐。
第2水門=余水吐直後で、この水量。
わりと静かな堰周辺ですが、ここは水音が大きく迫力を感じます。

流れ図、牛枠、玉川兄弟像


前回も載せましたが、ここで原水の流れ図を見ると、なるほどねと納得がいきますので、じっくり眺めましょう。
往年の治水技術、牛枠。
これはさすがに使われることは少ないようですが、川の石を利用する蛇篭は、現在でも使われています。
玉川上水を開削し、その功によって玉川の姓をもらったと伝えられる玉川庄右衛門・清右衛門兄弟の像。
ですが、実際に彼らが兄弟だったのか、また開削工事にどう関わったのかは、同時代資料が無くて確実なところは不明です。

ちょっと一休み

なんだかんだで良い時間になったので、紅葉を眺めつつ、セブンで買ってきたパンでランチにします。
適当にベンチもあるので、良い休憩ポイントです。

むっしゃむっしゃ
お腹が空いたような顔してるけど、今回はずっとカバンの中に居るファン君。
紅葉がきれいな時期でした。
今日も社会科見学の小学生たちが居ました。
何枚も撮っちゃう。

羽村小作間(∮1350)調圧水槽

小作浄水場へ水を送るために圧力をかけている調圧水槽。
よく見かける団地の給水塔より大きく圧倒される迫力があります。素晴らしい。
調圧水槽の足元に太い水道管があるから、「これが小作への配水管か!」と思ったんですが、普通の市内水道管でした。
給水塔は少し離れて見るのが良し。
近すぎると見えないものがあるのです。

川崎用水&川崎分水の痕跡

調圧水槽の辺りで右岸側の土手下を見ると、何か不思議な隙間があります。玉川上水と多摩川に挟まれた一角、取水堰から下流の運動場=S&Dフィールド福生の辺りにあった旧川崎村の水田へ水を供給していた川崎用水&川崎分水の跡です。

見るからに水路跡っぽい、怪しい隙間。
少し下流へ進んだ土手の下。
こちらは湧水を取り込んでいた水路の跡。
1947(昭和22)年まで使われていたので、しっかり残ってます。

江戸時代~明治初期には羽村堰からの余水を取り入れて田用水とし、1879(明治12)年からは、給水塔のある羽村橋前後の玉川上水から分水して川崎分水となり、これが1907(明治40)年には東京市に買収されて廃止、それ以降は湧水を集めて用水としていたが、最終的には1947(昭和22)年アイオン台風の洪水で壊滅・廃止されたという、複雑な経緯を辿っています。
羽村橋から福生市加美の第2サンシャインビラ付近までは断続的に水路跡を辿れて、なかなか味わいあります。
※参考:羽村市郷土博物館「特別展玉川上水羽村堰」2015年

こちらも、機会がありましたら是非。


再び第3水門、羽村導水ポンプ所


カモが すいーっと泳ぐ穏やかな水面。
人工の水路、上水or用水で流れが穏やかになるのは、水を分ける堰などが近い印。

第2水門までは江戸時代の絵図にも載っていて基本的なシステムは変わっていませんが、第3水門は近代水道になって、さらに山口貯水池=多摩湖への導水管が作られてからの新顔です。
そうは言っても大正〜昭和初期にかけて造られているので、もう100歳です。

水中のゴミを取り除くためのスクリーンがあって、ずらっと並んだ水門が多摩湖への水。
橋の左が玉川上水本流、右が小作浄水場への水門。
小作への水路。
奥の石造りのが村山貯水池への第3水門、その手前が玉川上水本流、いちばん手前が小作浄水場へ。



玉川上水本流へ

毎秒17tも取り込んだ水量も、多摩湖と小作への水を分けて、だいぶ少なくなった玉川上水を進んで行きます。
左岸側は崖が迫っていて道が無いので、引き続き右岸を進行。

穏やかな水面ですね。



堂坂と堂橋

調圧水槽の給水塔のところ、大ケヤキや歩道橋があったところが羽村橋、小作導水ポンプ所のあたりで頭上を羽村大橋が通過していました。
3つ目の橋が堂橋です。
ここと羽村橋は、どちらも江戸時代から存在していますが、明治末期までの名前は川崎橋。
多摩川の渡しを川崎街道が通り、この坂を登っていたようです。

堂坂の下にあるから堂橋。

新旧水路

このへん、水の流れは非常に穏やかです。
この先で河岸段丘の段を越えていくので、できるだけ標高を下げないように、逆流しない程度の勾配で作られているのが分かります。

「どうせニンゲンはこっちへは来ない」と安心してるシラサギさん。
湧水?


右側も山になってきましたよ?
5m以上の高さがある小高い丘、森があります。

堂橋から200mほど歩くと、右岸=多摩川との間に丘が現われます。
1654年の完成から86年が過ぎた1740年、この付近の600m余りが新堀へと切り替えられました。
当初は、この丘の右手、多摩川寄りを通っていたのですが、多摩川が氾濫した場合、上水の土手が水流で破壊されてしまうことが度重なっていたためです。
開削時は工事が容易な多摩川寄りルートを選んだけど、けっきょく多額の工事費をかけて新ルートへ付け替えたという訳です。

国土地理院の地図に標高別の色付けしました。
~127mまでが青・水色、~130mが黄緑色、~133mが黄色です。
5m程度の高さを切り開いて水路を開いたのが分かります。

というわけで、この先の旧堀跡は次回(3)でご紹介します。お楽しみに!

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