玉川上水を歩く:羽村~拝島(2)
玉川上水43kmを、始まりの羽村から江戸四谷まで歩いてみるシリーズ。
最初は①羽村~拝島編、5回予定の2回目です。
序
プレ散歩
①羽村駅~拝島駅←←←イマココ
②拝島駅~玉川上水駅
③玉川上水駅~一橋学園駅
④一橋学園駅~武蔵境駅
⑤武蔵境駅~三鷹台駅
⑥三鷹台駅~下高井戸駅
⑦下高井戸駅~初台駅
⑧初台駅~四谷大木戸
今日のルート
羽村駅から廃線跡、導水管を辿り、第三水門、大ケヤキや羽村陣屋跡を見て、羽村取水堰まで来ました。
↑クリックして頂くと、ルートマップと前回noteにジャンプします。
今回はほぼほぼ取水堰、見所は↓こんな感じ。
というわけで、いちばん上流からスタートします。
まあ、陣屋跡あたりを歩いている時点で取水堰が見えてますが、そこは目を背けて(笑)。
投渡堰
第1水門〜第2水門
流れ図、牛枠、玉川兄弟像
ちょっと一休み
なんだかんだで良い時間になったので、紅葉を眺めつつ、セブンで買ってきたパンでランチにします。
適当にベンチもあるので、良い休憩ポイントです。
羽村小作間(∮1350)調圧水槽
川崎用水&川崎分水の痕跡
調圧水槽の辺りで右岸側の土手下を見ると、何か不思議な隙間があります。玉川上水と多摩川に挟まれた一角、取水堰から下流の運動場=S&Dフィールド福生の辺りにあった旧川崎村の水田へ水を供給していた川崎用水&川崎分水の跡です。
江戸時代~明治初期には羽村堰からの余水を取り入れて田用水とし、1879(明治12)年からは、給水塔のある羽村橋前後の玉川上水から分水して川崎分水となり、これが1907(明治40)年には東京市に買収されて廃止、それ以降は湧水を集めて用水としていたが、最終的には1947(昭和22)年アイオン台風の洪水で壊滅・廃止されたという、複雑な経緯を辿っています。
羽村橋から福生市加美の第2サンシャインビラ付近までは断続的に水路跡を辿れて、なかなか味わいあります。
※参考:羽村市郷土博物館「特別展玉川上水羽村堰」2015年
再び第3水門、羽村導水ポンプ所
第2水門までは江戸時代の絵図にも載っていて基本的なシステムは変わっていませんが、第3水門は近代水道になって、さらに山口貯水池=多摩湖への導水管が作られてからの新顔です。
そうは言っても大正〜昭和初期にかけて造られているので、もう100歳です。
玉川上水本流へ
毎秒17tも取り込んだ水量も、多摩湖と小作への水を分けて、だいぶ少なくなった玉川上水を進んで行きます。
左岸側は崖が迫っていて道が無いので、引き続き右岸を進行。
堂坂と堂橋
調圧水槽の給水塔のところ、大ケヤキや歩道橋があったところが羽村橋、小作導水ポンプ所のあたりで頭上を羽村大橋が通過していました。
3つ目の橋が堂橋です。
ここと羽村橋は、どちらも江戸時代から存在していますが、明治末期までの名前は川崎橋。
多摩川の渡しを川崎街道が通り、この坂を登っていたようです。
新旧水路
このへん、水の流れは非常に穏やかです。
この先で河岸段丘の段を越えていくので、できるだけ標高を下げないように、逆流しない程度の勾配で作られているのが分かります。
堂橋から200mほど歩くと、右岸=多摩川との間に丘が現われます。
1654年の完成から86年が過ぎた1740年、この付近の600m余りが新堀へと切り替えられました。
当初は、この丘の右手、多摩川寄りを通っていたのですが、多摩川が氾濫した場合、上水の土手が水流で破壊されてしまうことが度重なっていたためです。
開削時は工事が容易な多摩川寄りルートを選んだけど、けっきょく多額の工事費をかけて新ルートへ付け替えたという訳です。
というわけで、この先の旧堀跡は次回(3)でご紹介します。お楽しみに!