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風力発電に抱く違和感

三重県松阪市飯高町の奥で、大規模な風力発電所の計画が持ち上がっています。140m以上の風車が60基。大きなものは180mにもなるのだとか。今は林道もろくに通っていない山を削り、尾根まで一気に4~7m幅の道をつけるような大工事の計画です。事業者の青写真は壮大で、詳細を知れば知るほど驚きます。8月30日で環境配慮書に基づく意見書提出締切りを迎え、そこに集まった多くの人々の声(2007通の意見書!)に関わらず、計画はこれからも進められていきます。どれほど周到に準備をしていたのでしょうか。

長年山を管理しながら、険しくて危なくて、なかなか思うように材木が運べず苦労していた人々は、この計画のメリットに惹かれている一面もあります。事業者が付けてくれた道を後で使える。そして伐採した木材を高値で買ってくれるという持ちかけもある。風力発電と山仕事は両立できるのかもしれない。長年苦労してきた分、ぐらっと来るのが本音です。そうでなくてもいい話なら山持っておけばよかったかなと思っても不思議ではないし、工事関連で算盤はじくのも当たり前のことです。誰にだってどんな地域にだって仕事は必要ですし、降って湧くならチャンスはつかみたい。

過疎が進むばかりの地域に活気が出ればとは思います。工事が入ることは景気のいい話なのかもしれません。山持ちや工事に関わる人でなくとも、道路でおまんじゅうでもを売ればおこぼれにあずかれるやもしれません。蜜柑ならどうだろう、珈琲もいいかもしれない。宿や、飲食店などスモールビジネスを始めるチャンスかもしれません。人が集まりそうな話にアンテナを立てるのは基本の生き方です。

だがしかしそれでいいのかと、警告音が響きました。数年の工事の後、この地域に何が起きていくのでしょう。

何を建てるために何を壊そうとしているのか。誰が何のために。そこんとこしっかり考えてからでなくては、建ってしまった後で取り返せなくなるというのでは悲し過ぎます。壊されるのは豊かな山域です。水源地です。

山は人が管理しているものではありますが、人だけのものではありません。街で暮らしていると、どの土地も所有者があり地価がかかって、お金があれば扱えそうに思えるのでしょう。土地転がしも未だに行われているのでしょう。そしてその感覚のまま、過疎地域の山にお金を出して事業をすれば、安上がりになって儲け話につながると考えたのでしょうか。事業者が、経済力を握る人たちが、もしかしなくても国が。

しかし大自然の土地は、持ち主はあっても持ち主だけのものではないというのは自然を身近に感じていればわかることなのです。それが難しいから机上の計画が豊かな地域にのしかかってくるというおかしな事態になるのでしょうけれど。どれだけ山の地図に線を引いても、植林しても、道をつけても、山にあるのは人が管理しているものだけではありません。雨が降ります。光がさします。植物が茂ります。野生動物がうろうろします。植林したり土を動かしたりは人がやったことでも、雨や生き物の育ちにお金を払っているわけではありません。おおまか整えながらも管理はしながらも、自然のものと共存するのが第一次産業の根本的な在り方です。

そうしてずっと残されてきた豊かな自然が残る土地に、急に大規模な風力発電所というのは、滑らかな曲線が急に直線になったような違和感があります。天然パーマをストレートパーマにするレベルでなく、地図が書き換わったレベルです。時代錯誤感半端ないですが、為政者の思考は案外止まってしまっているのかもしれません。そんな思考ばかりではないことを願いたいものですが。

細かい違和感は他にもいくつもあります。黙秘を貫いている人々は一体何を信じているのか。事業者がすぐに答えられないようなごまかしの計画に見せかけて実は周到に根回しされているのか。表に出されている60基4か所はダミーで本当は違う計画があるのか。疑えばキリがなくて疲れるし、かといって自然保護を謳っていてもなかなか通じ合えません。通じたいなぁ、飯高の山河の良さを感じてほしいなぁ、気持ちよく過ごしてもらいたいなぁ、毎日そう願ってはいます。街の人が日本の奥地に目を向けてくれる日を信じて、違和感とぼちぼち向き合っていかなくちゃいけません。


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