留学最終東欧旅行記②ポーランド編
8月31日
22時30分過ぎ、ポズナンからクラクフ行き夜行列車に乗るべく9人で大行列を成す。ホーム編成が少し複雑なのと、寝台車両が一番端にあったせいで一瞬ヒヤッとしたが係員のおじさんに助けてもらいながら部屋に入る。みんな寝台列車なんて初めての経験だった。ドアを開けたら窮屈な部屋に、3段ベッドと大きな鏡、簡易水道!これほどワクワクする部屋があるだろうか。キャリーケースを3つ入れたらさすがに歩けるスペースはほとんど残らなかったが、協力して場所を使うことすらも面白かった。男子部屋からウキウキの写真が送られてきたので、こちらも負けじと撮影会をした。
3段ベッドはさすがに高さがなくて、上半身を起こすこともできない。一番下の部屋ですぐに床に脱出できるところで個人的にはよかったが、代わりに空調を調節できることに気が付かず19度の中で寝たので少し寒かった。出発予定時刻が23時で、私たちは爆速で就寝準備をして23時半には床につけていたと思う。電気を消して静かにしていても、全く音もしないし振動も感じない。あれ、これ動いてる?という疑問がすぐに浮かんだ。もちろん答えはNo。動き出すのを待とうかとも思ったが、体力を考えて24時には諦めて寝た。後から聞くところによると、1時までポズナンに停車していたらしい。何があったんだ一体。朝になると車掌さんがアナウンス代わりに部屋に来て、到着時刻を教えてくれた。彼は夜の間におじさんから金髪のイケメンお兄さんに変身していた。男子が「おやつある!」とウキウキで教えてくれたために気付けたバウムクーヘンと袋がつぶれたチップスを食べながら到着を待った。
クラクフ駅で荷物を苦労しながら預け、至る所に売っているドーナツ型のパンを朝食用に購入。店のおばさんは全く英語が話せないようで、Waterすら通じなくて焦った(日本人英語の発音が悪かった可能性も一応ある)。私もカードがなぜか使えなくて、パンを取ろうとしたら「No」だけ言われて訳が分からず困った。どうやらカードがエラーしたらしかった。何とか無事に買い、アウシュビッツ行きのバスに乗り込む。そう、この日のメインはアウシュビッツ収容所の訪問だった。
バスの中で一瞬で意識を失い、次に目が覚めたらもう1時間半以上が経って収容所に到着していた。まず最初に目に入ったのはトイレ。英語、ポーランド語、ヘブライ語で案内が書いてあった。それを見て、ユダヤ人とその文化は今も存在していて、ユダヤ人問題は決して過去のものではないのだと感じ、自分の中に緊張が走った。朝のドーナツ型パンを頬張る。シンプルな生地の中に甘みが少しあって、まぶったゴマとマッチしておいしい。友達が隣でスカートの上にパンくずをボロボロこぼし、私の水玉のスカートとおそろいの模様にしていた。それを見て笑い、緊張した心が和んだ。
ガイドさんと合流していよいよ中へ。最初の通路では犠牲者の名前が読み上げられており、ガイドさんはここではガイドをしません(喋りません)と言った。数百万人が犠牲になったが、ここで名前が読み上げられているのはたった1500人程度だそうだ(うろ覚えの数字すみません)。家族ごと殺されてしまった場合、犠牲者を覚えている人がおらず彼らの存在がなかったことになってしまうという。人類の歴史から名前が消え去ってしまうなんて、なんて恐ろしいことか。「絶滅」というのはそういうことなのだ。
アウシュビッツ収容所は当初ナチスドイツがポーランド人を収容しておくためのものだったが、後にユダヤ人の強制収容所として悪名高き場所となった。そこではミュンヘン近くのダッハウ強制収容所などで試験された効果的な方法で、巧みにユダヤ人を分断しながら支配したのだという(以前何人かの友人がダッハウを訪れていてうらやましかったのだが、私は行く機会がなかった。次回のドイツ訪問で行きたい場所の一つだ)。例えば互いへの差別意識や理不尽な階級序列を作ることで、被収容者たちの団結を難しくしたのだという。
当時のドイツは日本からも留学生が来るほど学問的に最先端を走っていたのだが、なぜ学者までこのようなことができたのか?ガイドの中谷さんが問うた。それは、ここが「ドイツ人を守るため」の施設だったからだという。当時のドイツ人は第一次大戦後に多額の賠償金を請求され、被害者意識を持ち、そこに不況も重なり、自分たちを守るのに精いっぱいだった。だから敵とみなしたユダヤ人の徹底的な撲滅を掲げて、全力で間違った方向に進んでしまったのである。
中谷さんはナチスドイツがここで何をしたかということよりも、このようなメカニズムや民族のエゴについて多く話してくれた。不況も争いも避けられないし、自国や自分自身が絶望的な状況になることがないわけがない。そのような時、きちんと理性を保って他者にまで思いをいたせるか?自分を守るために、他人を傷つけることが絶対にないだろうか?Yesと答えるのはきれいごとだろう。私だって正直自信がない。まして日本の中で日本人として生きていたら。
ではどうすればいいか?これを、現代の私たちが考えなければならないのだ。
差別や不平等といった迫害の芽を、まだその小さいうちに摘み取らなければならないのだ。部落、移民、在日、障害者、日本にもまだまだたくさんの差別や偏見がある。これらのひずみが、ある時大きな闇となって私たちを飲み込んでしまうかもしれない。決してアウシュビッツの問題は日本から9000㎞離れた場所で起きた他人事として片付けられるものではない。
ナチスドイツが起こした悲劇はヒトラーだけの責任ではない。この党を支持した民衆がいたのだ。だからこそ、この場所を訪れる人ひとりひとりが、たとえ政治職に就いていなくても、考えなければならない。
このメッセージを伝えるため、アウシュビッツにはヒトラーの写真がほとんどない。人のせいにしてはいけない、自分たちだってこの悲劇を起こし得るのだから。
アウシュビッツは歴史ではなく、現代人への啓発メッセージを伝える場所だった。繰り返し私たちに問いかけてくれた中谷さんに、この展示とガイドのメッセージがすごく刺さりました、来てよかったですと伝えることができた。彼はこれがヨーロッパの教育の考え方なのだと教育の重要性を強調した。
アウシュビッツにはユダヤ人の若い集団も来ていた。揃いのパーカーを着ていたのですぐ分かった。彼らは神妙な顔つきで歩いていたり、逆にふざけていたりした。彼らはああして精神を保っているのだという。無理もない、ヨーロッパじゅうのユダヤ人が迫害されたのだから、彼らの親類の誰かは確実に犠牲になっているのだ。ここから生還した世代はもうすぐ世の中からいなくなってしまうけれど、次の世代が何をどう伝えるか。広島や長崎と同じ課題がここにもあった。ただ、中谷さんはこうも言った。犠牲になった親類のことを直接は知らなくても、ユダヤ人たちがこの場所を簡単に訪れられる時代になった。この場所で例えば私たち日本人と挨拶を交わすなどすることで、この問題が世界に広がっていく、と。
バスに乗って隣の収容所ビルケナウにも行った。あの有名な、ユダヤ人を乗せた列車が止まる「死の門」と言われる場所だ。
ここにはナチスドイツによって爆破されたガス室のがれきが残っていた。このがれきや先ほど展示されていた犠牲になった人々の髪の毛は、遺族らの要望で再建や永久保存のための加工はされず、風化するがままになっていくのだそうだ。まだ見られるうちに来れてよかった。ここではベッドや無力な小さな暖炉、それに洗面所を見た。洗面所には石鹸台まで備わっていて、設計者は常識をわきまえた優秀な設計をしていたことが良く分かった。ただ、ナチスドイツが石鹸を渡さなかったのだ。
それゆえ現代残っているものを見ると、そしてこの日の天気は晴れで周囲には花が咲いていたので、ここでたくさんの人が倒れて死んでいったとはにわかに信じがたい部分もあった。それだけ月日が流れたということだ。
ちなみに、アウシュビッツというのはドイツ語で、現地の地名はオシフィエンチムだ。最近ウクライナ戦争で、キエフをキーウとウクライナ語読みに変えたのに、なぜここはアウシュビッツのままなのかと中谷さんに聞いてみた。すると、この地域の他の部分はもちろんオシフィエンチムと呼ぶが、この施設はナチスドイツが作ったものだし、歴史を伝えるにはアウシュビッツという名前のままのほうが適しているということだった。確かにそうだ。
ちなみに、私はこれを書くにあたってドイツではなくナチスドイツと表記するように気をつけたつもりだ。日本の大戦の歴史に関しても、外国は「軍国主義日本」と今の日本と使い分けて呼んでくれているらしい。
中谷さんと別れ、ショップで冊子を購入して少しだけ敷地内を歩いてから、バスに乗って帰った。クラクフ駅行きのバスでは、また意識を失って熟睡してしまった。
クラクフ市内のトラムの乗り方がよくわからなかったので、ホテルに向かうため、重い荷物を引きずって15分ほど石畳の上を歩いた。ホテルは広場の隣で立地がよく、道中かわいらしいお店をたくさん見つけた。ホテルにはエレベーターがなかったので、20㎏超のキャリーケースを汗だくになりながら2階まで運ばなければならなかった。半年分の荷物が入っていて私のが一番重かったので、これでも仲間内の中で下の階を譲ってもらったのだ。3階まで頑張ってくれたみんな、本当にありがとう。重力に逆らうのは疲労した体には大変なことだった。
アウシュビッツで疲れた心を晴らすために、ガイド中昼食を食べていなかったので、レストランに行こうという話になった。しかし広場に出てみるときれいな塔や教会、そして大好物のお土産屋さんがたくさん並んでいるではないか。
私と一人の友達(俺のラブだから、ラブと呼びましょう)はそこへ踊りながら駆け出した。店内正面にはたくさんの織物が並んでいた。クラクフの景色や可愛らしい花や動物の柄に織られた布たちが飾られた光景は、見ているだけで楽しい気持ちになった。ドアの前には刺繍の額縁があり、東ヨーロッパっぽい!とときめいてしまった私は迷わず一つ購入した。他にもステンドグラス風の天使がショーウィンドウの光越しに輝いていたり、民族衣装が飾られていたり、クラクフで一番楽しいお店に早々に出会ってしまった。
屋台では花のカチューシャが売っていてそれも可愛かった。一人ひとりに選んであげたい衝動に駆られたが、活躍の場がなさそうなので諦めた。きれいな建物をバックに写真を撮り、ひと満足したところでレストランへ向かう。そこは我がグループの誇るトリップアドバイザーが選んだ店で、人気店のようだった。店内は予約がいっぱいで入れませんと言われるが、その直後キャンセルが出たからやっぱり入っていいよと呼び戻され、歓喜しながら地下の席へ。驚いたことにそこには(多分有志の)音楽隊が3人、ライブミュージックを奏でていた。店員さんの民族衣装と木造り風の店内、そして楽しいBGMというこの上ない雰囲気の中、一テーブルに9人が詰め詰めでおさまった。ベルリンではレストランではなく食事をすべてスーパーや屋台で済ませてきたので、私にとっては初めてのみんなとのレストランだった。数の多さに改めてびっくりした。
早速ビールを頼んだり、ポーランドだからということでウォッカを頼む強者がいたり。私は名前は忘れたが、度数の強いラズベリーのお酒を注文した。友達が頼んだ甘いオレンジジュースもおいしかった。強者はあとからウォッカの飲み比べを追加注文していた。
9人もいると、いろいろな料理を頼んでシェアできるのがありがたいし楽しい。ピエロギに始まり、パンに入ったスープや酸っぱいスープ、ポテトパンケーキなど全8種くらいを少しずつ味見した。それぞれの量は少ないながら、ポーランド料理を網羅できたので旅行は大人数で行くのが正解かもしれない。私はポテトパンケーキが気に入った。ソースとしてかかっている肉の煮込みがほろほろでめちゃくちゃ美味しいし、チーズも臭みがなくて食べやすい。もちろん生地も美味しい。ていうかヨーロッパの肉煮込み、だいたいほろほろで超美味しいと思う。ハイデルベルクの学食でも一番おいしかった。ちなみにピエロギしか料理名を覚えていないのは、記憶力が悪いのもあるけれどそもそも全然言語が分からないので、最初から読めていないからだ。隣の席からドイツ語が聞こえてきて、もうドイツ語が恋しくなっていたのを覚えている。
みんな疲れているので酔いが回るのが早く、女子たちのテンションが上がってきた。私も向かい側の人たちの写真を撮りまくり、あげくには人のスマホを取り上げて変顔の自撮りを大量にするという迷惑行為をはたらいた。でも隣のてぇてぇ(尊え)ともこの変顔を見ることができたので後悔はしていない。そりゃもう可愛かった。そして、これだけ飲み食いしたのに日本円で合計25000円行かないという安さ。ポーランド楽しい。
広場を通ってホテルに戻る時、あのお店の楽しさが忘れられなかった私とラブはまだ開いていたお店に飛び込んだ。そこもポストカードやお皿が可愛くて、お土産に買うことにした。ここで両替した50ユーロのうち、1.1ズオチを残して現金を使い切った。私買い物うっま。その後も夜の散歩をしようかと思ったが、いつも元気はつらつな同部屋人がお疲れのようだったので、迷惑をかけないように部屋に戻ることにした。翌日の朝散歩の集合時間を確認し部屋に戻ると、もうえみはベッドの上に転がっていた。少し仮眠したいとのことだったので先にシャワーを浴びて急いで出てきたときには、彼女の脳は既に睡魔に食われていた。声をかけても全く反応がないくらい熟睡していたので、諦めて下着を洗って寝た。ここまでずっと洗濯する機会がなかったのでもう服がギリギリのところまできていたのだ。わたしもほろ酔いだったのですぐ眠りに落ちた。
9月2日
7時にアラームが鳴って、いつもは寝起きが悪い私も今日の朝は楽しみだったので一瞬で起きる。7時間くらいは寝ることができた。えみはまた反応がなかったが、さすがに起こす。驚くべきことに彼女は一瞬で状況を理解し、チャッチャとシャワーに入りチャッチャと準備を済ませ、8時の朝さんぽに間に合った。さすがのタフガールだ。集合してみると、男子二人が散歩より睡眠を優先する決断をしたようだった。
まだ店は閉まっていたが、ショーウィンドウや街並みを楽しみながら歩く。天気はどんよりとした曇りで、暑くなくていい。朝の目的地は近くのヴァヴェル城。途中十字架が立っていて、何だろうと思って見たらKATYNと書かれていた。カティンの森事件という、ソ連に多数のポーランド将校が虐殺された事件の記念碑だろうとトリップアドバイザーが教えてくれた。でも現場はここではないらしい。どういうことだか、よく分かっていない。でも国旗の色である赤と白の花が、今なお大量に供えられているのが印象的だった。この色の花が供えられた記念碑は他にもあった。
到着した城は大きくはないがきれいなつくりで、隣には教会があった。しかし両方ともまだ入れる時間帯ではなかった。丘の上なので景色が見えるかと思いきや塀が高すぎて見えず、結局ここで一番よかったのは大量に咲いていた花だったと思う。オレンジ色の小さなバラは可愛らしくて綺麗だった。あと城壁の渡り廊下も、姫が通っていそうな雰囲気があってよかった。
眠り王子たちをホテルで拾ってチェックアウトを済ませ、荷物を預けて再び町へ繰り出す。朝ごはんにはドーナツを食べた。ラズベリージャムの酸味が揚げドーナツの甘ったるさを和らげて、美味しいハーモニーを成していた。ここで買った水もおいしかった。昨夜飲酒後なのに水を買い忘れて、渇きに苦しみながら寝たせいだ。ポーランドの水道水は飲んでいいのかよく分からなかった。トリップアドバイザーはパンプキンとパッションフルーツの組み合わせに感動し、この後二軒の系列店を覗き回ることになる。
ちょうど市場が開く時間で、私たちはウキウキで通りへと繰り出す。この時間からお客さんはかなりたくさんいた。黄色い宝石がたくさんあると思ったら、クラクフは琥珀交易の経過地点で名物だという。母に琥珀が埋め込まれた小鳥のネックレスを買った。かわいい木箱もたくさんあった。原色に近い色で塗ったうえに、白で花の絵が描いてあったりする。それがたくさん並んでいたので、見ていて楽しかった。この市場が入った建物は織物会館というらしいが、昨日見たお店の他には織物は置いていなかったような気がする。印象に残っているのはピエロギ柄の靴下で、すべての靴下にガタがきていたので買おうか迷ったが、日本では餃子だと思われそうだからやめた。その他にもステッカーやキャンドル入れなど、お土産らしいお土産が揃っていてついつい財布のひもが緩んでしまう場所だった。
さてこの日は飛行機でウィーンに向けて移動する日だったので、11時頃に空港に向けて広場を出発した。早めの電車にギリ乗れたので空港では余裕があった。何人か、前日のレストランで飲んだウォッカの小瓶を買っていた。確かにレモンウォッカは飲みやすくて美味しかった。レモンってビールにもチューハイにもウォッカにも、なんでも酒にはいいんだなあ。
中には免税店がそこそこあったので、一緒にまわっていたラブたちと香水をつけて遊んだ。私はディオールの女になったが、かなりいい香りがした。初香水、買ってもいいかもしれない。他にはシャネルの女とグッチの女がいた。
フライトは1時間ほどで、我々は常に機内食を楽しみにしているのに、出てきたのは水とチョコレートだけだった。取っておいたローズマリー味のチップスをみんなに回しておいてよかった。せっかくお腹を空かせておいたのにこれだけとは、私たちは不満だったが、フライトが1時間ならば仕方ない。それよりもオーストリア航空ということで、飛行機の中に2日ぶりのドイツ語が書かれていることに感動し、再会を喜んで写真を撮った。私にとってはウィーンが最後のドイツ語圏なので、観光はもちろんそうだが、ドイツ語で店員さんたちとコミュニケーションを取ることもかなり楽しみな要素だったのだ。
ということで、次回、ウィーン編です。着陸します。