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一度きりの人生を輝かせるために
学校を卒業して働き始めてから、ダラダラしゃべって一日を終える日常というのがすごく貴重なように思える。
この前、某ファミレスで高校の時の友人3人(自分含め)とポテトだけを注文して3時間くらい居座っていた。
いい大人がそんなことをするのは、お店側としては大変迷惑だと思うので、とても推奨できるものではない。でも、思えば学生時代はそんなのは日常茶飯事で、そういう何気ない出来事を「青春」と呼ぶのだなとしみじみ思った。
仕事をしていると、みんなスピーディーなやり取りを交わし、簡潔で合理的な回答が求められる。正直、早口過ぎてほとんどなに言っているのかわからない時もあり、要するに辛いってことだ。
目的もなくただ何気ないことを話し、それに対する返答もテキトーで、人間のコミュニケーションとしては、随分と幼稚なものだったとしても、そういうのが実は、言葉を交わす本質なんじゃないかと思う。
溜めていた感情を解き放し、相手はただ聞き流す。だけど、答えが返ってくる。そんなことには何の意味もないのだが、面白いと思えたり、安心感を感じる。
勉強とか進路については努力次第で取り返しようがあるが、青春のいろはは二度と取り戻せない。学生という貴重な時間を、今でもつながりのある素敵な友人たちと過ごせたのは、とても有難いことなのだと思うよ。
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訳あって千葉県茂原市まで出張に行ってきた。
帰りは電車で帰ったのだが、まあ電車が来ない。
20~30分おきくらいに各駅に止まる。都心だと2~3分おきで来るのを考えるとすごく長く感じた。
でも、その時は別に不快に思わなかった。直帰する予定であったから、別に遅れることは問題にならない。むしろ、居心地がよかった。
田舎の時間は流れがゆっくりとよく言ったもので、あらゆるものの流れが静かでゆったりとしている。日々仕事に忙殺されていると、ただ駅のホームから風景を眺める時間がとても愛おしかった。
自分の人生というのは一度きりで、だからこそ特別な経験で満したい。お金や地位、学歴、恋人などを手に入れようと、必死になってしまう時がある。
そういうのを求めてしまうのは、別に体力を持て余しているからではなくて、ある意味自分の人生というのは、自分で決められる自由さがあるからだろう。
江戸時代とかだったら、身分制があって農家の家に生まれたら将来は農家になるし、商人の家に生まれたら商人になる。
結婚だって戦後しばらくまで見合い結婚が主流で、自分が好きになった人と結ばれる機会なんてそうそうなかったんじゃないか…
そんなことを考えると、僕たちは自分で自分の道を選んでいるというよりも、むしろ、選ばされている、選ばざるを得ない社会で生きているということになる。
そして、それは物事がスピーディーに変化していく社会だからこそ、より一度きりの人生を輝かせるために、邁進してしまうのではないかと思うのだ。
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何かを手に入れることがなくても、喜びや楽しみといった小さな幸せというのは、案外すでに自分の中にあったりするのかもしれない。
某ファミレスで友人とポテトだけで時間を過ごしたり、駅のホームからボーっと夕陽を眺める時間が、自分にとってはとても贅沢なことのように思える。
自分には仕事があって、家族がいて、友人がいて、在るものに目を向ければ、自分というのは世間一般で見れば、幸せに暮らしている部類だと思う。(自分で言うのもあれだが…)
でも、大事なのは「世間から見た自分」ではなくて、「自分には確かに持っているものが在る」という感覚があることではないか。
一度きりの人生で、趣味でも友人でもパートナーでも、一つでもそれを見つけることができたのなら、それはそれで輝かしい人生なのかもしれない。