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映画GO HOME, GIRL

(これは2021年に出演した渡邉龍平監督の映画GO HOME, GIRLの感想文です。仮面ライダー2号の佐々木剛さんと共演させていただきました。渡邉龍平監督に送った文章をそのまま載せています。映画のこと、物語のこと、演技のことなど。映画公開の時はまた告知するよう)


 まず演技のこと。撮影時から思っていたことですが、佐々木さんがいる時の画面の包容力がすごかったです。今まで舞台や映画など数少ないですが、やってきた中で、同じ空間にいると取り込まれる人、とか、共演者・観客ともども空気を持って行ってしまう人はいたのですが、「包容力」を感じたのは初めてでした。佐々木さんと共に演じると、現実から物語に迷いなく連れて行かれる、というか、導かれる感じがしていました。演劇・舞台の場合は良くも悪くもその空間全体を物語の世界に持っていく必要がある(とされている)ように感じます。それが乗りやすい役者もいますが、物語と現実とのさかいが曖昧になってしまうことが役者として必ずしも正しいこととは私は思いません。しかし逆に、映画はカメラを向ける人がいて、カチンコを持つ人がいて、「カット」の声と共に役者は全員現実に引き戻されてしまいます。それは役者にとって物語に没入しにくいのではないかとも思います。私は映画の経験が薄いためか、撮影が始まった当初、そのような現実と物語の境がはっきりしていることによるギャップに悩んでいました。切り替えがうまくいかなかったのです。特に共演者が予備校の先生だとか、その微妙な現実の距離感と、演技の中での距離感を掴むのが難しく、苦戦しました。しかし、初めて佐々木さんと同じ画面に入った時、佐々木さんがその場の空気を包括して、私の迷いなんかないように、現実の世界から物語の世界に連れて行かれる感覚がありました。佐々木さんはそれを自覚しているのかはわからないけれど、決して強引な感じではなく、引っ張るような感じでもなく、振り返って「こっちにおいで」と言ってくれているような。それは確かな演技力と経験によるものだけではなく、彼の纏う空気や性格のためでもあると思います。だから佐々木さんと演じたあと、特に佐々木さんと同じ画面にいる時はとくに安心して、迷いなく演じられたと思っています。それを映像で見た時最初に思いました。やっぱり画面から見てもそうなんだって感じ。あの場で演じた時と画面で見た時のギャップが少ないのも佐々木さんと演じた時でした。
 物語や配役、風景の撮り方も、その佐々木さんを中心とした世界の作り方がとてもとても魅力的でした。夏に撮影した映像を一回見せていただいたことがあるじゃないですか。あの時の淡い色合いより、最新版の色合いの方が私は好きです。そして色合いもそうですが、音楽、画面のカットの仕方も、仮面ライダー2号の住んでいたマンションで撮影するというコンセプトの通り、どこか感じるノスタルジックな雰囲気と、でも時間軸は確実に零と隆之が住んでいる現代だということを感じました。過去から通じて今があるような、時代を感じさせながらも、今この時間を強調しているような。それは昭和の映画がきっかけで、映画作りを志た渡邉さんのアイデンティティによるものなのでしょうか。過去を通じた今という世界観の中で、役者、配役、物語、が、ピッタリって感じでした!!!!
 あとアッシーさんの演技も独特で面白かったです。ばったもんで顔合わせをした時、私が言えた話じゃないですけどアッシーさんの演技が正直不安でした。棒読みだし声ちっちゃいし。でも!マンションで初めて撮影したときにびっくりしました。場所によってこんなに演技が変わるのかと!そのとき渡邊さんの配役にも大変納得しました。そして、それも演劇にはないことなので新鮮でもありました。演劇はやはり何もない舞台に物語を役者が1から作り上げなくてはならない。でも映画を作るということは、何か元々の設定や物理的なもの、人がある場所に物語を引き寄せるような感覚なのかと思いました。どちらが難しいとかではなく、物語を引き寄せることって、作り上げることよりもずっと繊細なことなんだと思います。自分が自分の監督する映画、一羽鶴の撮影をした時からずっと、映画はさまざまな役職がはっきりと分かれていて、だからこそ映画をやる上ではそれぞれの役割・立場を経験することが必要なのではないかと考えていました。その点アッシーさんは監督や他のスタッフの経験があるからか、それともアッシーさんのポテンシャルによるものかわからないですけど、場に寄り添う力というか、場とともに物語を展開していく力強さを映像で見て改めて感じました。以前は監督をやる上で様々な役職を経験したいと思っていましたが、今は役者をやる上でもそれが必要なのだと思っています。

 役者という立場上ほとんどが演技の話になってしまいました。でも、本当に本当に役者としてこの映画制作に関わらせていただけたことをとても感謝しています。以下は自分語りになってしまうのですが、お礼も含めて書かせてください。
 Go Home Girlの撮影当初はあまりそのようなことは考えていなかったのですが、この一年、私は自分の制作において、現実と創作物との距離、そしてそこにおける自分の立ち位置をかなり意識してきました。最近あるアーティストのエッセイを読んでことがきっかけで、自分が芸術家(芸術家の定義は色々あるとも思いますが)になった瞬間はいつか、を考えています。初めて舞台に立った時か、初めて絵を描いた時か。過去の様々な記憶を掘り返してもしっくりこなくて、未だに考えているのですが、一つ気がついたことがあって。過去の私の記憶は、なぜか私が自分の視界で捉えた景色のはずなのに、私の肉体がそこにあるのです。まるで自分が登場人物の映画のワンシーンのように、自分の記憶の中に自分がいる。幼い頃からそれが自然だったので、ずっとそれが他の人にとっても当たり前のことなのだと思っていました。しかし、自分で舞台に出たり映画に出るようになって、初めて、自覚的に演じているときの自分を離れた目線でではなく、自分が本当に物理的に見た景色を記憶できるようになりました。しかし、演劇という場所では、観客から見えている自分をいつも想像して演じろ、と言われてきました。私は演じることでやっと、客観的な視点を脱して自分を見ることができているのに、舞台の上では逆に客観的視点を持つことが求められる。だから多分私は、声が小さいとか動きがしょぼいとか体が小さい以前に、舞台自体向いていないんだと思います。まあそれに関しては、去年やっていた劇団などは一般的に「上手い」役者じゃないからこそできたことがあったと思うし、その劇団以外でもその個性を自分のものにして輝ける舞台もあると思うので、悪いことじゃないと思うんですが。しかしその点映画は、役者として、自分が見た視点で演じ、客観的に見た自分が作品化されるという点で、私に撮って最も自然な芸術だとか思いました。でもそれだけじゃなくて、その「客観的視点」というのが「私の客観的視点」で終わらず、「他の製作者の客観的視点」というのが一番面白い。私は写真集「火星はもうすぐ死ぬ」で、すくなめさんという人に撮影を依頼したのですが、それは彼女の撮る私が私を見る時の私に最も近いと感じたからです。しかし渡邉さんはもちろん私が見る私を撮ってくれるわけじゃない。渡邉さんが見た私を、もっと言えば、渡邉さんが見たい零を撮っているんだと思います。それが映画制作の一番面白いところだと思いました。様々な役職の、現実と創作物の間の様々な立ち位置にいる人が、その距離を交差させて生まれる芸術。とても興味深く、おもしろかったです。そしてそれは監督が全員の統率をきちんと取ることでなし得たことなのだと思っています。一羽鶴の時私ができなかったことです。単純なことかもしれないけれど、渡邉さんが、自分のやりたいことを確実に通しつつ、全員を気持ちよく自分の創作に巻き込んでいたことに、とても感動しました。映画だけではなく、他者を自分に参入させる作品の制作の際、自分が渡邉さんのような姿勢でいられるように、修行をしていこうと思います。

 最後になりますが、この映画で零役をやらせていただけたことをとても感謝しています。演技のこと、映画のこと、自分のこと、人間関係のこと、様々な分野でたくさん勉強になりました。ぜひまた機会があれば渡邉さんの創作に参加したいです。至らないところもあったと思いますが、ありがとうございました!!!!

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