撮られることは演じること/撮ることは演じさせないこと
池袋の繁華街を歩いていると、雑居ビルの一階の廊下が入れるようになっていたので、そこを歩いてもらうことにした。薄汚れた蛍光灯の光が理想的だった。
私を背にして歩いて、という。
少し歩く。
うん、やっぱりこの光は合っている。
カメラを構える。
その状態のまま、「りんちゃーん」と、名前をよぶ。
少し高い、突飛な声。陰キャっぽい、きもい声。
するとりんちゃんは「え?」という顔で振り返る。
りんちゃんは、私がカメラを構えていることに気がついた。
その瞬間、シャッターを切る。
その次の瞬間にりんちゃんは、いつものりんちゃんの顔で笑った。
「何その呼び方」って。
カメラを向けられると多くの人は、カメラのこちら側にいる私にとって都合の良いだろうとその人が想像する表情を見せてくれる。盛れてる顔。かわいい顔。ピースをしたり、口角をあげて笑ったり、腰に手をあててどこか虚空を見つめる人もいる。それはその人の優しさだ。私がカメラを向けているという状況に適するように、それらしい表情をしてくれる。でも、別にカメラという特別な装置がなくても、人は、誰かと接するときに、その相手にとって適切であると想像する表情をしているのではないだろうか。その相手に見られるようの自分を演じている。嘘をついているのではない。見られていることに自覚的になっているというだけ。都合の良い表情で見つめられると、心地が良い。それをわかってやっている。
しかしカメラは、その演じているという事実を、顕著にする。
私は、見られている時のその人と、見られている対象のないその人の、そのちょうど中間を捉えたい。その瞬間には、誰も見たことのないその人がいる。
だから人を撮るということは、演じさせないことだと思っている。私に見られていることを知っていながら、ちょっと「私に見せる用のあなた」を失う時、その瞬間が見たい。その瞬間を捉えたい。
「あおいちゃんの撮るりんはブスだけど、好き」ってりんちゃんが言ってくれた。ギャルなのに。ほとんどすっぴんで、あんなど田舎で、あんなダサい服を着させられて、それで、好きだって言ってくれるって、すごいことだよ。
見られること、見つけることは、愛なのかもしれないと思えた。
以前、きっと私と同じようなことをしたくて撮っているんだろうという写真家のモデルをしたことがあった。ポートレートではなくスタジオでの撮影。スタッフがたくさんいた。
カメラを向けられた瞬間、「捉えられてしまう」と瞬時に察した。
だから演じた。演じ続けようとした。それっぽい表情をした。これがいいんでしょ、って。微笑んだ。でも、無駄だった。その写真家は、その心地よさの間に潜む、誰かに見せるようじゃない私、を、捉えていった。その人が使っていたカメラはフィルムカメラだったのだが、(つまり無駄打ちができない)つくづく的確だった。
だから戦うしかなかった。自然と、戦う流れに持っていかれた。捉えられてしまった、誰にも見せたことのない私の表情を、再度演じ直そうとした。捉えられた表情を、自分のものにして、魅せ直そうとした。
でも正直、戦いに私は負けたと思っている。以前所属していた劇団の公演の時のような、得体の知れないばかでかいものに立ち向かっている感覚があった。きっと、それを無意識にやっているモデルのことを、心地よいままに捉えることが得意な人なんだろうと思う。私はその写真家の、素人を撮った写真が好き。こんなこと考えていないだろう人の、意識と無意識の境目を狙っていく写真が。まだ出来上がった写真を見ていないので、「気がした」というところまでしか言えないけれど。
だから私がカメラマンをするとき、私の意図をわかった上で演じ続けてくれる人との撮影は、戦ってくれている、と感じる。この間、そういう撮影があった。戦うことが必ずしも良い写真を生むとは限らなくて、他の向き合い方もあるんだと思うけど、あの撮影は本当によかった。
捉えられまい、と、演じ続ける人。撮られている今その瞬間から「演じる」の幅を増やしていく人。私が捉えたその瞬間を、より魅力的に再度演じようとする人だった。
この時の写真は近いうちにお披露目があるのでお楽しみに。
だけど私は、相手を見ること、見つけること、その眼差しは、暴力にもなり得るとも思っている。
私は、私を見ている人々の視線の中で、極端に不快に思えてしまう眼差しがある。見ることで私を管理した気になっているような眼差しだ。わかった気になられている眼差し、と言っても間違いではない。
私は以前、父親にTwitterのアカウントがバレていたということでパニックを起こしたことがある。バレて、何かを言われたということなら別によかった。妹経由で、お父さんはお姉ちゃんのTwitterのアカウントを知っているかもという噂を聞いた。あり得ない話ではなかった。父親はちゃんとネトストだし、以前娘たちを監視するために家に監視カメラをつけていたこともある。
別にやましいこと(犯罪とかそういうこと)はしていない。私が親の理想の娘像ではないということは、中学生の頃からバレていたことだ。私の知らないところで見られていることが気持ち悪かった。私が年頃の娘で、相手が父親だからじゃない。そういう視線を向けられていることが苦しい。
いまだに、実際にバレているかどうかはわかっていない。私がわたしのような天気だということ、スク水の写真集を販売していること。ミスiDのこと。ストリップが好きだってこと。友達のこと。Twitterの裏垢。もしかしたらもっと酷いことまでバレているかもしれない。今この文章を打っているこのパソコン画面が父親に共有されている可能性もある、いろいろなものにログインするためのパスワードも全部知っているんじゃないかって、本気で思っている。誰にも見られたくない私がいるということは、自分を守ることに他ならない。
でもそのような眼差しに対する嫌悪感は、「見たことによって管理した気になる」という感覚が、私の中に内在化していることの証明でもある。私も、元彼のTwitterを裏垢作ってみていたことがあった。覗き見も好きだ。管理した気になってるわけじゃないけど、私に見せたくて見せているわけじゃないその人はやっぱり魅力的だと思ってしまう。覗いてみたいと思ってしまう。あわよくば捉え(撮り)たい。
だから、撮るときも、暴力になっていないか、が、怖い。暴力はしたくない。
現像されたりんちゃんの写真を見た時はショックだった。
りんちゃんが望んでいないりんちゃんを私がこの画面上に取り出してしまったんだ、と思った。特にウミウシ姫撮影当時は、自分が撮りたい時に撮りたいりんちゃんを撮っていただけだから今までつらつら書いていたようなことには無自覚でだったのだ。
それでも好きだって言ってくれたからよかった。りんちゃんにははなから私を信頼してカメラの前に立ってくれていたのだ。感謝しかない。
ところで私は、最近、ウミウシ姫や裏修学旅行のように作品として撮っているわけじゃない写真も含めた、今まで撮った全ての写真を整理しなおした。そしたら、作品として撮った写真以外に似たような撮り方をしている写真が何枚もあることに気がついた。人の写真だ。
学校で撮った写真、地元、千住、栗橋、大洗、福岡、別府など。撮影地や時間は全く違うのに、ほぼ同じ距離間で、そして大体後ろ姿の、知らない人(たち)の写真を撮っていた。覗き見、である。
撮った後ろめたさのある写真だったし、ぶれているものも多かった。思い通りに撮れている写真ではなかったから「失敗作」として考えており、注視したことはなかった。だけどこれだけ数があったのだ。飽きずにずっとそれだけは撮り続けていた。無意識に。人を撮るのが好きなんだ。そして、これが私と人との距離感、眼差し、なんだと思う。これ以上近づけない、距離。これ以上近づいたら暴力になってしまうギリギリの距離。失敗作と思っていても、現像されてしまえばそれだけが真実だ。それが写真なんだ。
最近私は、世界を自分の思い通りに変えたい、という欲望がないことに気がついた。自分だけの世界で生きたいわけじゃない。自分以外の要因で作られたこの世界に、どうアプローチをする方が重要。そして、写真を撮ることで私は、カメラの向こう側にいる人との距離を見出すことができる。そして変えていくことができる。と思っている。今の私にとって、写真だけが頼りだ。撮らなくてはいけない。