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人生について。再考

自身のメモとしてつらつらと書く場なので、読む価値はないかと、、、

2024/10/27更新

今日、23歳になった。
これを機会に、自分の人生について再考する。



穏やかに燃える夢について


夢について考えなおそう。
私の夢は何であったか。

大学四年間、ある程度のエンタメや文章に触れた結果、私が得た結論は「野性的に生きることには意味がない」ということだった。

私たちには自意識(自分を認識する力)というのが存在し、それによって野性と理性が共存している。

野性というのは生きるのに必要なものではあるが、人間的な成長はもたらさない。

食欲のままに暴飲暴食し、性欲のままにセックスをし、怠けたいだけ怠ける人生のどこに教養や教訓があろうか。

そんな人生には人間として生まれた意味は存在しない。

美味しいものを食べてから自らの頭で考える=理性を働かせることによって、人間としての成長があるのだ。


また、自分の頭で考えることによって得られる歓びというのも味わった。
哲学書などを読み、一旦理解した後に日常を送っていると、ふとそれが「自分の考え」として発現することがある。

それによって、サルトルやハイデガーではなく「自分」が一歩進む。

この歓びは、スポーツで試合に勝とうと絶景を見ようと風俗に行こうと勝ることはない。唯一無二のものである。

この感覚、そう、これである。

この感覚を人生でより味わっていきたい。


しかし同時に問題となるのは、現段階でこの状態に私がなるには時間がかかるという点だ。

大学生時代、一日中暇な日が3日続き、本を読み耽っている時に起こる程度だ。

その証拠に、社会人になってからはこの感覚は一か月に一度程度しか訪れない。

また、労力と忍耐が必要なため、仕事で疲れた日などは本を読む、または考える気も起きず、ダラダラYoutubeなど見て時間を消費してしまう。

その度に自分の動物性を憎むわけであるが、そのような労力を時間を余す生き方をするには、もはや隠居しかあるまい。

そのため私の夢は「隠居をして、倫理や哲学など自分のしたい勉強をすること」となる。

もっと正確に言えば、勉強をして、「これこそ私の考えである」というような結晶体を生み出したい。



人生について考える時間を持つこと、考えずやり過ごすこと

というわけであるが、以前飲みの席にて上長に夢を聞かれ、これを答えると「つまらん」と一蹴されたので、これについても考えたい。

(答えたのは「隠居をして、自分のしたい勉強をすること」という一言だけである)

仕事ではいろいろと教えてもらって世話になっているだけあって、つまらんと言われ怯んでしまって考えが停止した。

そもそも私が夢をはなしたのは上長が「夢を持って熱く生きるべき」的なことを話してきたからだ。

反対に上長の夢でも聞いてやればよかった。クソっ。


私たちというのは赤子、幼稚園、小学生という幼少期、
中高校生の少年期、
それより上の青年期~という人生を経ていく。

幼少期には自分の可能性というのは無限である。野球選手やサッカー選手になれる気もするし、パティシエだって教師にもなれる気がする。

しかし中高生になると、自分の限界というのが見えてくる。ライバルのあいつに負け続けたり、自分の不器用さに呆れたりして、それぞれがそれぞれの夢を諦めていく。
中高生に夢を聞くと、多くの人が「サラリーマン」と答えるのはそのためだろう。

そしてそのまま大学に行けば、当然「社会に出たら辛いんだから今のうちに楽しんどこう」とその場限りの楽しみに没頭する。

就職してしまえば、なんだかんだ愚痴を言いながら目の前の仕事を続け、必要ないものを買い、そしてそのためにまた働く。

さて、どこに人生についてきちんと考える機会があっただろうか。
もしくはどれだけの人が人生から目を背けず生きることができるだろうか。

もし仕事が快感を与えてくれるものであったとしても、定年になったら「燃え尽き症候群」である。

目の前にニンジンがぶら下がってくれている間は良いが、ニンジンが無くなれば何を目指せばいいのか分からない。

燃え尽き症候群から抜け出して、やっと本当の愉しみを見出したころには、もう人生は終盤である。

哲学者セネカはこう言った。

ようやく生きようかと思った頃には、人生が終わってしまうのが常である。

だからこう考えてしまえば楽である。
「ああ、上長が私の夢を『つまらん』と言ったのは妬ましいからなんだ。
人生についてきちんと考えていれば、飲みの席でキャバクラや風俗の話や仕事の自慢話ばかりするのでなく、もっと深みのある話ができただろうに。でも考える時間をきちんと取らず目の前の仕事という分かりやすい報酬に走り続けた結果、自分の人生において何が重要かも忘れてしまったのだろう。でも、仕組み上考える時間を取りにくいようにできてるから仕方ないよね~」
と。

もちろんそうではないのかもしれないが、一旦、私の夢を深く聞くこともなく否定したことによる私の憎しみの表明である。


本来の「自分探し」は十分に価値がある

自分が小中学生の時分であっただろうか、「自分探し」という言葉が流行った。
そして現代ではそれを揶揄する風潮にある。

確かに、あの頃流行った「自分探し」というのは、「自身を探求しよう」というものではなく、目の前の大きな問題から目をそらすための言い訳として使われていた。

だが、本来の意味での「自分探し」として、探求の目を自身の内部に進めていくのであれば、それは揶揄されることのない十分に意味を持つものとなるだろう。



人生ヲ70年トス。

人生を70年として、もう三割が経過している。

現代では寿命が70年というのは短く感じるかもしれないが、こう設定しているのには理由がある。

人生において重要なのはどれだけ生きたかではなく、どう生きたかだ。
さらに正確には何をしたかではなく何を考えたかだ。

素晴らしい功績を残しても大した考えがないならそれには価値は無いし、
功績にならないようなことでもその人の内部で考えが熟成されているなら価値がある。

1900年頃の日本の平均寿命は31歳程度であった。
現在では80歳を超えている。

だが、寿命が延びたからそれに伴って人々の人格が成長したと言えるだろうか?

死を考えない若者と、若さにしがみつこうとする中年と、死を恐れる老人が増えただけではないだろうか?

、、、まあいい。だから少し短めの70年なのだ。


人生の折り返し地点まであと12年。
うかうかと野性に身を委ねている暇はない。


寂しい、はいけないことか?


現代では、大人数が集まってどこかに行く、なにかを買うことが奨励されている。
そうすることによって経済が回り、潤うからだろう。

しかし、独りでいることはそんなに悪いことだろうか?

独りでいることと、孤独とは異なる。
独りでいるから不幸なわけではないし、大人数でいるから幸せなわけではない。

私は友人と遊ぶのは好きであるが、本当に気の合う人しか誘わないので、選択肢が少ない。

話している途中で越えてはいけないラインを踏んでしまう人、ちょっとした仕草や言葉遣いが気になる人からは徐々に距離を取るようにしている。

こんな感じなので、独りでいることが結構多い。

そして、「寂しい」と感じることも時たまある。

特に、友人が別の人と遊んでいる時、会社での飲み会を断った時などによく感じる。(Instagramをやっている人が不幸になるのは、このように周りの人と比べてしまうからだろう)

独りで居ようとすると、暗に(もしくは自分の内側から)、「もっと多くの人と遊べ」とプレッシャーをかけられるのだ。

しかし少し考えてみよう。

「寂しい」ってそんなに悪いものだろうか?

確かにポジティブかネガティブで言えば、ネガティブな感情ではある。

しかし、気の合わない人と無理に話したり、行きたくなかった会社の飲み会に参加してストレスを貯めるよりかは幾分かマシだろう。


さらに言えば、独りでいるからこそできることもある。

例えば何かについて熟考する。
他人から話しかけられては、考えを深めることは難しいだろう。

(ゆっくりじっくり考えることを目的とした会合であればできるが、そんなものは希少である)


寂しいというのは、集団にいて仲間に認められないと不安であるという、野性的な感情である。

そういう感情に耐え忍ぶからこそ、自身の理性が、人間としての成長を遂げるのである。

どうせ、これから老年になるにつれて、大事な人たちは死んでいく。

死ぬ間際、そばに居てくれる友人は居ても2.3人だろう。

そして、どうせ死ぬのは私一人だ。

寂しさには慣れておいた方がいい。


何でもいいから勉強しよう


勉強≠実用性

学ぶことはライフハックとは違う。

学んだことを生活に活かすのではなく、学ぶこと自体が幸福なのだ。

興味のないことを学んでも苦痛でしかない。

興味のある分野があるなら、Youtubeでも本でも何でもいいから勉強を始めよう。



何か夢があるわけではない。哲学や倫理の勉強はしたいが、研究者になるほどしたいわけではない。

というか「哲学」や「倫理」について本当に考えているならば、そこに立ち現れるべき行動は、「研究」ではなく「生きる」ということだと思う。

もちろん、哲学自体が自分の生きる道となっている場合は良い。歴史の中で名を馳せてきた哲学者は皆そうだろう。

特にソクラテスは、自身の哲学の正しさの証明のために毒杯を煽って死んだ。

究極的にはそうなりたい。鴨長明のような生き方がしたい。

しかし、哲学者が皆々そのようであろうか。いや、違う。

哲学を説いておきながら金銭や権力にしか目がないもの、あくまでも研究対象としてしか哲学・倫理を見ないものは多い。

そうはなりたくないのである。

哲学を説きながら痴態を晒して生きるくらいなら、山奥で誰とも関わらず心豊かに生きたい。

『ああ、そういえば自分はそういう生き方がしたかったんだった』

財産や人というのは、分かりやすい興奮を与えてくれる。人はそれを幸せと思い込む。もちろん少数の、心の友は在ってよいし、幸せを与えてくれるだろう。しかし、量が多ければよいというものではない。

「量より質」という言葉があるが、本来は量も質も大事なものなのだろう。

しかし、人間というものが「量」による興奮を得やすいため、そちらを増大させる方向に進んでいった。結果、量は増やしやすいが質が伴わない現状が生まれた。
沢山持っているのに満たされない。SNSのフォロワーはたくさんいるのに満たされない。見切れないほどのエンタメがあるのに満たされない。

今、「ミニマリスト」や「丁寧に生きる」などが推奨されているのはその揺り戻しではないか。

残念ながら、現在の量を保ったまま、質も補完しようというのは困難である。だから、捨てる必要があるのだ。モノを、人間関係を、当たり前を。

私がミニマリストを好むのはこういう理由か。質を保つためには捨てるしかないのだ。「質が高い」と思ったものでも、大量に持てば、質は下がる。
それに捧げる愛情が削減されるから。

幸せになるには、当たり前を捨てねばならない。何でもかんでもではないが。

ボーナスが出ても高いものを買う必要はないし、服のバリエーションを持つ必要はないし、会社の飲み会に出る必要はないし、休日に出かけなければいけないわけじゃない。

少ないモノと、少ない人と、少ないコンテンツと共に生きる。
そうすれば、自然と時間が生まれる。
することがない時間。現代人が忘れた「暇」である。
しかしその暇こそが、樽に入ったウイスキーのように、私をより熟成させるのである。

そのために必要なこと。
まずは本当に必要なものだけを買うこと。必要ないものを買うことは、直接的なモノの「質」の低下と、間接的な「金銭」という面での貧しさを生み出す。
次に、学ぶこと。机に向かってノートを取りながら学ぶ必要はない。時間をかけてじっくりと読み取る。直接的にそれを何かに活かそうなどと考えるのではない。良いワインを飲むとき、「これを何かの役に立てよう」などと考えていては、真には味わえない。しっかりと味わう。他人から見れば、ただ飲んでいるだけ、ただ読んでいるだけである。しかしそれでいい。他人のために生きているのではない。自分のために、自分の内面のために生きているのだ。しっかりと読んで、味わい、内省するのである。それによって何か行動を起こすのではなく、無意識下の行動・言動・もしくは考えが変わる。それで十分である。



「~しなければならない」と思い煩いながら、つまりは厳格なストア派のように、自然な心の揺れを強制的に逆にするようなことも好ましくはない。
周囲の環境が静かで、穏やかであったとしても、そのような心では静けさは訪れない。

無理に動かすのが良くない。強い力を使うのが良くないのである。
この「良い」は善悪の意味ではなく、好みの問題である。
全力が100であったとして、100の力を出す瞬間は、どうしても騒がしくなる。

そうではない。
「この本を読んで行動を変えよう」と思うのではなく、ただ読む。何度か読むうちに、自然とそれが心に染み入る。

私の倫理や哲学などそんなものである。傷付けようとする人を愛そうとする必要はない。距離を取ればいい。いや、「~すればいい」もなく、自然に行動すればいい。
ただ、書物から、生活から得ていくうちに、自分がなりたい性向に自然に向かってゆくだろう。
思い煩う事勿れ。

ただ、ぼうっと生きているだけではそうはなれないので、書物や、スロウな映画を見ること、バラードを聞くこと、人肌のカクテルを味わう、目的地を持たずに旅に出ることによって、
頭の中で無数に沸き起こる、文字にすらならない無限の思考が、生き方を形作る。

反対に、まあ簡単に言えば簡単に快楽を得られるものに流れることが良くない。SNS、TicTok、Youtube、どこにでもある酒、金で買うSEX、下品なゴシップなどである。

全力が100であったとして、100の力を出す瞬間は、どうしても騒がしくなる。

そう、これで困るのが筋トレである。
筋肉を増大させるにはどうしても全力を出さねばならず、そのために心は騒がしくなる。

じゃあ筋トレなど辞めればいいじゃないかと思われるかもしれないが、自らの身体がみっともなく成ってしまうこと、「男性性」を失うことが怖い。

カッコいい体で居たい、良い腕時計を付けたい、大きな車に乗りたい、おしゃれをしたい。
ああ、なんと無駄で、そして手放しがたい性向であろうか。

何度も腕時計を手放そうと考えても、それを失うのがひどく怖い。

それらを手放すことは、「賢者」となるための一歩となるかもしれないし、若い間に失ってはいけないものを手放すこととなるかもしれない。

いつかは手放すだろう。

身体を壊さない程度にトレーニングをする。(腕立て30回程度)
腕時計など飾るものもない。おしゃれもしない。
車は装飾のない、武骨なもの。
持ち物は最小限で、傍から見れば何でもない人間。
だがしかし内に確かなものを秘めている。

そういう人間になりたいし、物質的な面ではなるだろうと思っている。
だが、今そうなるために手放すことが恐ろしい。


、、、とまあこんなことを書きながら、先日から腕時計を外して生活している。筋肉の次に手放しがたいと考えていた男性性である。

意外にダサくもならないし、気にもならない。職場でPCを触る際に「邪魔だなあ」と思うこともない。

ただ、ある程度きちんとした服装をしていること、正しい姿勢をしていることは絶対条件かと。

大学生を経て、ある程度オシャレをするようになった。少なくとも昔のようにTシャツ一枚で出かけることはなくなった(最低でもポロシャツだ)。そしてその程度の服を着ていれば、「ダサいなあ」と思われない最低ラインは超えているようである。

男性性と言っているが、決して男性であることがいけないわけではない。ただ、雄らしい野性味、つまりは「偉そうさ」を手放したいのである。

普段から「他人より上に立ちたい」なんて考えているわけではないが、ふとした時に頭によぎる。そして自分の浅慮に気付くのである。

だから、せめてモノから偉そうさを手放していきたい。




恋人に会うたび、大事なものを失った気がする。
正確には会って、離れた後、と言うべきか。

もっと愛せた気がする。もっと濃い時間を過ごせた気がする。もっと彼女のことを見ていられた気がする。

なぜ会ったら何かしなきゃいけないのか、どこかに行かなきゃいけないのか。

手が届く場所に、彼女がいる。それで十分ではないか。

つくづく、野性というものに振り回される人生である。
これから一刻も早く抜け出さねば、ただ一日という色んなバリエーションを繰り返すだけで、大事なものをいつまでもつかめない。

いや、大事なものはつかみに行くのではない。そこにあるのだ。
それを大事にするかどうかで、それが大事かどうか決まるのである。

人生について考えるというのは、「これから何をするのか、どう行動するのか」だけを指すものではないと思う。

自分の人生の中で何が大切なのか、何を大切にしてきたのか。
その点では、何をこれから大切にしたいのかについても考えてもいいだろう。

(そう、こういう考え方だから子供が生まれる前から「子供を大切にしよう」と決めて産める人の気持ちが分からないのである。)

こんなことを何度も考えても、そうそう内容が変わるようなものではない。しかしそれでいい。前にも書いたように、味わうのである。反芻するのである。ミルフィーユのように層を重ねていくのである。

「現状維持・停滞は退化だ」なんていう人もいるが、それは成果主義の中での話だと思う。

現状維持であろうと、それどころか退化ですらも、ただの変化でしかない。

同じトレーニングを続けられることは素晴らしいことだし、年を取って体が衰えてしまっても、体が動かない分考えることができる。

早く老いたい。
誰かが、「年を取ったことで食欲も性欲もなくなった」と言っていた。

食欲も性欲もあまりない状態で、本を読んで、文章を書いて、大切な人と過ごして、散歩に出かけて、、、

そんな凪の心でずっと過ごしていたい。


アーネスト・ヘミングウェイはあるところで、こう書いている。

「人が真の男になるためには、四つのことを成し遂げなければならない。
木を植える、闘牛をする、本を書く、そして息子をつくることだ」

・愛読書を持つこと
・オムレツか卵焼きを上手く作れること
・使い古した何かがあること(万年筆・カメラ・鞄・靴)

→味のある個性を持つことが男らしさ、いや、人間らしさである。


道端の花を綺麗だと思い、
他人に道を譲り、
空を見上げてその広さに驚く。

そんな心で、私は生きたい。


昨夜、夢の中にエーザイのCMが出てきた。
家事に疲れた母親役と、まだ自身の行動の影響に無自覚な子供役の二人が、「それでも生きててよかった」って感じる、みたいなCM。
裏では小田和正が流れていた。

生きるというのは辛いことだらけだ。
それでも、私たちは半ば義務的に、習慣的に生きている。

『元気出していきましょう。』

静かにそういわれるからこそ、響くものがあった。

エーザイってそんなに感動的なCMないのね、どちらかと言うと明治安田生命でしたか。

まあ「元気出して」っていろんな言い方あるけど、
ウルフルズやサンボマスターみたいに
「元気出せよなんとかなるって!」っていうのは、もう一歩進みたいって人には効果的だけど、人によってはプレッシャーにもなってしまう。

そんな時に「元気出していきましょう」って静かに言われるのは、辛いのは分かってる、でも今日を生きるしかないんだよって、諦めを含んだポジティブを与えてくれるようでいいなあと感じた、という夢の話でした。


「ゆっくり歩いて、たくさん水を飲む。」

村上春樹『アフターダーク』

理想の生活の話。
私の理想を叶えるのは、かなり難易度が高い。

特殊能力とかそういうものよりかは現実的ではあるが、普通に生きていった先にあるものではない。

まず、田舎に住みたい。
田舎といっても、そこそこ田舎だ。

近所に服屋やエンタメ性のある店もない、最寄り駅まで徒歩25分くらいかかって、その電車も30分に一本しか来ないくらいの。

でも食料を自給しなければならないほどではない、スーパーマーケットは車で10分くらいのところにある。
エンタメ性には乏しいが、実用性はあるスーパー。

家は集合住宅でも賃貸でもいいが、一軒家を新しく建てることはない。

往々にして言えることだが、本来生物には造作していいものの大きさが概念的に決定されている(と思っている)。

人間で言えば車程度が最大(それもハイエースほどだと過剰、ラングラーが限界くらい)で、家というのはその範疇を超えたものである。

家を一軒建てるということは、人間の脳の処理容量を超えてしまうのではないか。

「家は造作できるもので、だからこそ自宅のこういうところにイライラする」ということになりたくない。
だから一軒家を持ちたくはないのだ。

最適なのは、二人暮らしができるアパート。

狭めの個人部屋が2つと、リビング兼寝室が1つ。
最低12畳、最高20畳、最適15~18畳。
(私には部屋が広ければ広い方がいいなんていう常識はない。)

車は1台。高級車とは言い難く、男らしくもない(偉そうでない)。
しかしダサくもない。そして静かな車。

ダイハツのコペンや、マツダ、スバルと言ったところだろうか。
(外車は論外)

「国産の車じゃあかんのか」

クリントイーストウッド『グラン・トリノ』


それと、バイクか自転車。
バイクと言っても中型程度で、大人しい、けどダサくはないもの。
やっぱりカブかな。

もしくはロードバイク。
今乗ってるのはもう修理不可らしいので、そうなったら買い替えることになる。

ロードバイク(自分用)と電動自転車(恋人用)だろうか。

うん、バイク人数分は身に余るので、自転車2台ですかね。

で、これが問題。仕事に関して。

まず、会社に勤めるというのは論外。
フリーランスと言うか、自分の店をやるのか、無職か。

自分の店というのが難しい。
服や香水を売るのは、市場の競争をより激しくすることに助力するようなものなのでやりたくない。

だからと言って喫茶店みたいに早い時間から仕込みとかも嫌だ。
たまにはゆっくり眠りたい朝もある。

だからと言って、都会のBARみたいに毎日夜中の1時まで、、みたいなのも嫌だ。

そもそも、「あの店は定休日が◯曜日で◯時~◯時が営業してる」というのが完全に決まってるというのがおかしい気がする。

競合が沢山いて、その中で勝ち残るためには、「この時間には必ず開いてる」というのは必要だろうが、細々とやっていけたらいい、自分の愉しみのための仕事、詰まるところ暇つぶしに、そんな厳密さは必要だろうか?

基本この時間は空いてるけど、マスターの気分次第で閉まってる、みたいなのもアリではないか。
今時そんな情報SNSで出せばすぐに見られるのだから。

まあ、それを顧客に受け入れてもらうためには確かなクオリティは必要とされるから、その辺の修行は必要なのかもしれない。

何と言うか、現代の仕事っていうものには、必要以上に正確さとか厳密さが求められ過ぎている気がする。

これだけ大量に飲食店がある中で、多少働く側の気分でお店を休ませたとして、果たして問題があるだろうか?

もちろん、金銭であったり人件費の点で曖昧にするのは良くないだろうが、働く側の苦労を無視して、100の要求に対して金さえ払えば100の答えを出してもらえると思うのは、傲慢ではないだろうか?

「ああ、今日はこの店閉まってるんだ、まあ仕方ないかぁ」って言うくらいの寛容さをみんなが身に着ければ、もう少し楽しく働ける可能性が開けるのではないだろうか。

そうだ、私が幻想郷が好きなのはそういう理由だ。現代的なしがらみがないのだ。「店をやりたいからする、やりたくないからしない」という、価値基準が自分にある。「働きたくないけど働かなきゃ生活できないから仕方なく」とか、「働きたくないけど、働いて得たお金で○○を買いたいから働く」というのは労働であって、本当の意味での仕事ではないし、人生を豊かにはしえない。

金銭的不安を払拭されたうえで、「自己実現」つまり自分がどのような形で周りの人の役に立てるか、どのような形で役立つことによって自分の幸せが高まるのか、と考えてするのが本当の仕事である。

しかし、最低限の金銭的不安を払拭するベーシックインカムを日本が導入する可能性を懸けるわけにはいかないので、一旦投資のリターンでそれが得られるくらい貯金をするしかないのだ。

音楽

音楽を一つの趣味にしたい。
現在私の大きな趣味として、読書がある。

休みの日の半分は本を読んで過ごしている。専ら村上春樹しか読んでいない。(ハルキストと呼ばれるにはまだまだだろうが)

しかし、趣味が一つというのは何というか、少し寂しい。
もう一つ分かりやすい趣味、、例えば音楽に類するものが欲しい。

音楽を聴く手段として、
・レコード
・CDプレイヤー
・スマホ
の三つが挙げられるが、

まず、レコードは好きな曲を聴けない。
レコードとして販売しているものは現代ではかなり少なく、その中から選ぶしかない。
一応オーダーメイドみたいなこともできるのだろうが、もちろん資金が足りない。

次にCDプレイヤー。
レコード厨ほど音質を求めるわけでもないし、CDなら供給も多い。
ダビングして自分の好きな音楽を入れることも可能、、、だが、
考えると、わざわざダビングなんて面倒なこと私がするだろうか、いや、しない。

というか、現代人のほとんどが考えることなくスマホで聞く、という手段に食いつくだろう。
音楽サブスクを契約して、月数百円で聞き放題だ。

しかし、この問題点は選べ過ぎてしまうことにある。
まず、自身でプレイリストを作れる時点で詰んでいる。

この世にある幾億の曲の中から数曲を選んで一塊にする?
しかも曲数も縛られていないのに?

凝り性の私は当然のように、一日に数時間プレイリストを弄り続けるマシンに成り下がるだろう。
(もし、プレイリスト25曲までなら無料でCM無しなんてアプリがあればいいのに)

自由過ぎるのだ。縛りがあるからこそ創造性とアイデンティティが生まれるのであって、それがなければ皆同じような愚物を造り続けるだけだ。

、、、ということで悩んでいたのだが、まず私が音楽を聴くタイミングがどこかを考えよう。

勤務中は当然聴けないし、通勤中も自転車なので聴けない。
あと、ジムにいる間は基本Podcastを聞いていて、やる気を出したい時だけ曲を聴く。ほとんど昔のボカロだ。

あとは家に帰ってから。
しかし、平日に家にいる間、音楽を聴く暇なんてあるか?いや、ない。

今の生活に無理に音楽を入れても、ただ生活の焦りが加速されるだけだ。

では、無理ではない音楽の入れ方とは?

休日に、こうしてnoteを書いている時か、本を読んでいる時にBGMが欲しい。

邪魔にならない程度の、穏やかで静かな、CMが入らないもの。

、、、解決。

CMの流れない、好きなジャンル(東方やポケモン)の、長時間のBGMなんてYoutubeに溢れている。

それを流しておけばいいのだ。
高いスピーカーも、新しい器具も、サブスクもいらない。

まずは、BGMを流すことを習慣化しろ。以上。


細かく夢を持てば変わるのか?


最近、生活が楽しくない。
まあ仕事が原因の98%くらいを締めているのだが。

運が悪かった。一年目から残業の多い部署(係)で何故か先輩社員に「俺、親でも殺しましたか?」ってくらい嫌われている。

で、財務関係のところに就いているので、四半期というものが存在する。
内部に居なければ分からないことだが、四半期はあり得ないくらい忙しい。特にうちの係は。

外部に出す役員会用の資料が通常の月の倍に増えるし、その他の雑務も容赦なく増える。それもあまり意義の感じられないもの達ばかり。

意義を感じられるか、人間関係がいいか、残業が少なければもう少し日常は楽しいだろうに、その3コンボを食らって私の精神はボロボロである。

奴隷にされても幸福を失わなかったかのエピクロスも、現代社会に生きて、果たして幸せに生きることはできるのだろうか。

親のコネとか、本人の能力とか、その他諸々の変数を抜きにして、常人にもできる方法で確実に幸せになる方法など、存在するのだろうか?

これは「そんなのがあるなら今頃広まってみんな幸せな筈だろ」とかいうものではない。フェルマーの最終定理やポアンカレ予想のように、寄ってたかって何年も考えて、答えがないかのように思われていたが、実際にはあった、というものなのか、そうでないのかということだ。

、、話が横道にそれ過ぎた。まあ端的に言えば生活が楽しくない。
お金のために仕事をして、そのストレスのためにお金を消費する(まだ甚大な被害は出ていないが)生活に嫌気が差した。

何と言うか、進んでいる感じがしない。
働いて、家に帰って、寝て、それをいつか繰り返せば休日、その間に買い物でストレスを発散し、また平日へ、、。このループに飽きたのである。
進んでいる感がない。

ゲームで言えば、装備はどんどん強くなっているのに、キャラクター自体の性能は全く上がっていない感じ。

お気に入りのモノは幾分か増えたが、自分が何か進化したかと言われれば、、うーん、、。

いや、無いわけではない。
例えばジムに入って、明らかに入る前よりも体は進化している。
仕事上でも知識がついたり効率が上がったことを自認している。
村上春樹の小説だって何周かして、本当の意味で味わうことができるようになった気がする。

しかし、そこには目標もゴールもない。
ただ歩いているだけだ。

ポケモンは「ポケモンマスターになる」という夢を持ったサトシが冒険をしているから魅力的なのであって、なんとなく「強くなりてえなあ」という主人公のどこに魅力があるだろうか。

というわけで、夢を持とう。
といっても、大きな夢ではない。

(ちなみに私の大きな夢は「隠居をする」ことである)

日常の中で、指針となる小さな夢。

ポケモンで言えばジムリーダー、ワンピースで言えば新たなる大地である。

なんかこんなこと昔書いたような、、。

・スミスマシンで150㎏を10回上げる
・背中のやつで○○㎏上げる
・定番のウイスキーを見つける

・タングドラムで「酔花」を弾く。

自分の美学を言語化する





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