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生の短さについて


結構シリアスな文章を書くので、その前に伝達事項(?)を書いておきます。

・ミニマリストは続けています。というか生き方が自然とそうなんです。
・筋トレも続けています。懸垂バーを手に入れて捗っています。
・就職しました。
・地元を離れ一人暮らし中。
・村上春樹にハマりました。
・生きています。


実家で飼っていた犬が死にました。

テディって名前です。かわいいでしょ。

主観的には苦しむことなく逝けたのだと思っています。

悔いはありません。
「生きてるうちにこうしておけばよかった」とかはないです。

その時その時で、出来る限りの愛情を注いでいました。


それでも死んだのは悲しいです。
今でも思い出すたび、不思議なくらい涙が出ます。

分かっています。
もうテディはいないのだから、悲しんでも意味はありません。

もし霊的なものがあったとしても、悲しむより笑顔で居てほしいはずです。


また、「死ぬこと=悲しいこと」という認識もおかしなものです。

「生きること=幸せなこと」ではなく、
生きることとはただ存在していることなのです。

であれば、「死ぬこと=存在しないこと」となり、
そこに悲しいも不謹慎もありません。

それでも、悲しいのはどうしてなのでしょうね。


本当なら、全てを忘れてテディのことだけ考え続けていたいです。
弔う、というのでしょうか。彼との思い出に浸っていたいです。



他にも、私には祖父母もいます。

この間、母方のおじいちゃんとおばあちゃんの家に、恋人を連れて行きました。
父方のおばあちゃんとは食事に行きました。

私は祖父母の昔話を聞くのが大好きです。

「この海岸からの景色が綺麗で、よく遊びに行ってた」とか、
「この時の会社の社長にはよく世話になった」とか、

そういう、ゴシップ的なのが無い、澄んだ話を聞くのが好きです。

でも、きっとそんな祖父母の昔話を、全て聞くことはできないのでしょう。

時間は限られているのです。



また、父母も。

父は、今でも一番のあこがれの人物です。

やっとこの歳になって、体格では越すことができたでしょうか。

でも、男らしさ や 人間性 等々……そういったところで、まだまだ追いつける気がしません。

自分が40代50代になるころには、あのように大きく成れているのでしょうか。


母がいなければ、そもそもここに私はいません。

0歳のころから今でも、ずっと我儘を言い、甘え続けています。

大学生の間、かなりの時間母と過ごしましたが、それでも話が尽きることはありませんでした。

22歳まで実家で居ましたが、家のご飯を「不味い」と思ったことは一度もありません。
(外食してもなかなか「美味しい」と思えないのが難点ですが)


姉も、友人も、恋人も、
本当に飽きるまで、一緒に居たいです。

そして、独りの時間も欲しいです。

(もう書き出すと止まらないので、ここでは割愛)



ですが、私たちには寿命というものがあります。

約80年。それが私たちの人生です。

ライフハックだとか時間術などで仕事の時間を減らしても、
寿命を無限に延ばすことはできません。


いくら寿命を有効活用しても、

テディのことを考えて、祖父母とずっと一緒にいて、父母とずっと一緒にいて、友人たち全員とずっと、、、というのは不可能です。

それがなんというか、、、残念でならない。
でも仕方ない。
それが人生なのです。


だからせめて、皆に幸せであってほしいです。

なんかもう、純粋に幸せであってほしい。それだけです。

心からそう願っています。



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