生の短さについて
結構シリアスな文章を書くので、その前に伝達事項(?)を書いておきます。
実家で飼っていた犬が死にました。
主観的には苦しむことなく逝けたのだと思っています。
悔いはありません。
「生きてるうちにこうしておけばよかった」とかはないです。
その時その時で、出来る限りの愛情を注いでいました。
それでも死んだのは悲しいです。
今でも思い出すたび、不思議なくらい涙が出ます。
分かっています。
もうテディはいないのだから、悲しんでも意味はありません。
もし霊的なものがあったとしても、悲しむより笑顔で居てほしいはずです。
また、「死ぬこと=悲しいこと」という認識もおかしなものです。
「生きること=幸せなこと」ではなく、
生きることとはただ存在していることなのです。
であれば、「死ぬこと=存在しないこと」となり、
そこに悲しいも不謹慎もありません。
それでも、悲しいのはどうしてなのでしょうね。
本当なら、全てを忘れてテディのことだけ考え続けていたいです。
弔う、というのでしょうか。彼との思い出に浸っていたいです。
他にも、私には祖父母もいます。
この間、母方のおじいちゃんとおばあちゃんの家に、恋人を連れて行きました。
父方のおばあちゃんとは食事に行きました。
私は祖父母の昔話を聞くのが大好きです。
「この海岸からの景色が綺麗で、よく遊びに行ってた」とか、
「この時の会社の社長にはよく世話になった」とか、
そういう、ゴシップ的なのが無い、澄んだ話を聞くのが好きです。
でも、きっとそんな祖父母の昔話を、全て聞くことはできないのでしょう。
時間は限られているのです。
また、父母も。
父は、今でも一番のあこがれの人物です。
やっとこの歳になって、体格では越すことができたでしょうか。
でも、男らしさ や 人間性 等々……そういったところで、まだまだ追いつける気がしません。
自分が40代50代になるころには、あのように大きく成れているのでしょうか。
母がいなければ、そもそもここに私はいません。
0歳のころから今でも、ずっと我儘を言い、甘え続けています。
大学生の間、かなりの時間母と過ごしましたが、それでも話が尽きることはありませんでした。
22歳まで実家で居ましたが、家のご飯を「不味い」と思ったことは一度もありません。
(外食してもなかなか「美味しい」と思えないのが難点ですが)
姉も、友人も、恋人も、
本当に飽きるまで、一緒に居たいです。
そして、独りの時間も欲しいです。
(もう書き出すと止まらないので、ここでは割愛)
ですが、私たちには寿命というものがあります。
約80年。それが私たちの人生です。
ライフハックだとか時間術などで仕事の時間を減らしても、
寿命を無限に延ばすことはできません。
いくら寿命を有効活用しても、
テディのことを考えて、祖父母とずっと一緒にいて、父母とずっと一緒にいて、友人たち全員とずっと、、、というのは不可能です。
それがなんというか、、、残念でならない。
でも仕方ない。
それが人生なのです。
だからせめて、皆に幸せであってほしいです。
なんかもう、純粋に幸せであってほしい。それだけです。
心からそう願っています。
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