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エディンバラ留学#2能動的に「落ち着く」こと

エディンバラに着いてから、5日が経った。

え、まだ5日なん、マジか。

5日なんて、夏休み中だったら体感2日くらいで溶かせるじゃん。「着いてから、はや〇日が過ぎた」的な雰囲気で書くつもりだったんだけど。まだ5日か、少し無理あるな。

寮の近くの"Arther’s seat"という丘。良い名前。

って書いてから色々してたら、もう6日目の夜になっちゃった。

あれ、もう慣れちゃったかも。いやそんなはずは・・・?

この街は本当にすごい。建物や石畳の道など美しい街並みを歩くだけで、街に満ちた「歴史」に自分も包み込まれていくような感覚が得られる。

寮に続く小道、Robertson's close 
高いところから見下ろせば街を包み込む「歴史」が見て取れる

街の「歴史」だけではない。当然、海外なのだから「生きる」ことに関するシステム全てが日本とは異なる。

横断歩道の渡り方、知らない人との小さなコミュケーション、スーパーの買い物かごやその他のルールなどなど、挙げだしたらキリがない。

ここの救急車バカうるさい。
隣で急に音出し始めた時、ほんとに飛び上がった。

つまりここでは、街それ自体も、「街で生きる」という行為にまつわる全ても、これまで馴染みのあったものと大きく異なるということが言いたいのである。

にも関わらず、なぜか「もう・・・うん・・・・なんか、慣れたな」なんて思ってしまう自分がいるのだから驚きである。

何故かは全く分からない。

でも街中も意外と徒歩で何処へでも行けるし、山の上の城や大聖堂など目印になる建物が多いお陰で、マップを見なくても割と歩けるようになってきた。それに、本当にどこでもカードが使えたり、セルフレジがどこにでもあって、生きる上でのシステムはもはや日本にいた時のそれよりも圧倒的に便利になっている。

日本の家屋やビルとは似ても似つかない建物に囲まれ、異なる言語に囲まれ、異なる様式で生きているのに、それに対する情動的な反応はもう自分の中からは湧いてこない。あんなにでっかくて平べったい丘なんて、これまでの人生で見たこと無いし、ましてその丘が住んでるとこから徒歩5分にあるのに。(あ、スコティッシュアクセントだけは普通に無理。分からん。これが分からない、というだけで自分の英語力にまつわる自信がかなり削られる。)

別に、「あ~エディンバラ生活ってこんな感じね、おけおけ。よゆ~」なんて高を括っている訳では決してない。むしろ、知らない・理解していない事の方が圧倒的に多いはずなのに、「慣れ」なんかを感じちゃっている自分に焦っているのだ。

これは僕の防衛本能の働き、もしくはある種のcoping mechanismなのだろうか(そうであって欲しい)。急速かつ大幅な環境の変化と、それに付随し得る様々な心の波を予期して、前もって心が「はい、いや、もう適応しましたよ、モーマンタイですよ。」と主張しているだけに違いない。

もっとドキドキしたい。もっと目をキラキラさせて、街の全てから刺激を受けたい。もっと色んなことに好奇心を持ちながら、街を生きたい。

自分は、それが人よりできるという変な自覚があったのだが、どうにもうまく働いてくれない。変に落ち着き払っている自分がいることが、「理想と現実の乖離」という意味においてどうにも居心地悪い。そして怖い。このまま、何となくここで生きることに「慣れた」つもりで、しゃなりしゃなり生きて終わることになってしまわないだろうか。

「知る」ということをもっとしていけば、その中で好奇心の根源に出会えるのかもしれない。

本当の意味でここに生きることに慣れたら、あの好奇心は息を吹き返すのだろうか。分からない。でも今はそうであることを願って、とりあえず一か月が経過するまではこのまま生きてみることにしよう。自分が戻ってきたい場所を忘れないようにしながら。


能動的に「落ち着く」ことと、それでも持ち続けたい積極性

新しい環境に生きることは、精神的な摩耗がつきものだ。

知らない場所を歩き、知らない人と出会い、知らない言葉を聞いて話し、知らない生活様式に自分の身体を従わせていく。

その中で、現実が自分の理想と全く同じ通りになることなんてあり得ない。

だからこそ、自分の身体を追い抜く程に、心が焦りに駆られてしまいそうになる時がある。

お友達作らなきゃ。
他の人達はもう仲いいのかな。
前ちょっと話した時、変に思われなかったかな。
あの時勇気出してちゃんとお喋り出来たらよかったな。
早く居場所作らなきゃ。
必要な手続きは、全部済んでるのかな。
存在すら知らない手続きとかないよね。
メール多すぎてわかんないよ。
参加したいイベントいっぱいあるけど、どうしよう。
いざ行くってなると怖くなっちゃうな。
うわ~行ったは良いけど、すぐ帰ってきちゃったな。
授業の準備はいつから?どうやって始めよう。

こうして焦った時にこそ、人間は一番しちゃいけない事をする。すなわち「他人と比べる」ことである。そうして更に加速していく複合的な「焦り」が心と身体を占領して、何も出来なくなってしまいそうになる時がある。

だからこそ、能動的に自分を落ち着かせる、という作業が必要なのだ。

自分が大学一年生だった時を思い出せば良い。分からない事だらけで、不安に飲み込まれていた一年生のはじめ。大学始まって二週間のタイミングで英語の先生に半泣きで「友達が出来ない」「social batteryがすぐ切れちゃう」と相談しにいった思い出。

あの時も、あんなに怖かったけどいざ通過してみれば何でもなかったし、意外とどうにかなった。時間はかかったけど居場所も出来たし、自分のリズムをどうにか持つことが出来た。大切な人達に出会えた。

だから今回も大丈夫なはず。焦らなくて大丈夫。こーゆーのは時間かかんねん。長期的な目で生きていこう。

そんな能動的な「落ち着かせ」をどれだけ出来るか、が留学生活において「自分を大切にすること」に直結していると思う。

それでも、全てはバランスである。

この「落ち着かせ」を、何もしない事の正当化に使うことがあってはいけない。

自分を落ち着かせながら、それでも積極性を持ち続けながら。

そんな、矛盾しているようなしてないような、難しいバランスを上手に取っていきたいね。

自分の身体との「再接続」

今回の留学が、僕にとって「自分一人で生活する」初めての機会である。

家計簿を細かく付けながら、自分で自分のご飯を準備して、その「ご飯の準備」のための準備(買い物・洗い物・食器の調達)もして、洗濯するタイミングを迷ったりして。

そんな状況に置かれて初めて、「これ程までに自分の空腹という状況に自覚的になったのは初めてだ」という感想が湧いた。

自分をケアできる・するのは自分だけだから、嫌でも自分の身体や感覚に常に向き合う必要がある。

もうすぐお腹すきそうだな。
とか
今日は夜何時くらいに食べようかな。
とか
お腹空いてきたけど、今はまだ早いな
とか。

気付けばどのタイミングでもご飯のことを考えている。

他にも、慣れない気候に身を置いているからこそ寒さや湿気など、自分の身体に関わることにとても敏感になっているのを感じる。

なんか元気出ないな、すぐ疲れちゃうなと感じて、そこで初めて2日以上タンパク質をちゃんと取ってないことに気が付いて慌てて鶏肉食べてみたり。食べるもののバランスなどに関しても、ここまで気を使ったことが無かった。

様々な意味で自分の身体とその感覚が、「自分」と再接続されていくのを感じる。不思議で、少し面倒くさいこの感覚。これは別にいい意味でも悪い意味でもなく、ただ感じるというだけだが。


この街に合う曲が見つからない(一部を除いて)

一番しょーも無いけど、一番喫緊の課題でもある。

この街を歩いていたり、二階建てバスに乗りながらプレイリストを色々漁るけれど、景色・空気・自分のバイブスとぱっちりハマるものがない。

邦楽は景色と合わない。星野源を聴くには道が広すぎるし、サザンを聴くには建物がカクカクしすぎている。サンボマスターを聴くには太陽の光が少ない。

いつも聴くHIPHOPは空気と合わない。EminemもNotorious B.I.G.も、日本で聴いてるときは、絶対的に異なる世界だからこそ気分を乗せられたけど、ここでは色んな意味でそうはいかない。

そんな中で、数少ないながらに「お、しっくりくるかも」ってなるのはどれもUKのアーティストだというのは、とても不思議である。

UKのラッパーの作品って、なんであんな影のある雰囲気ばかりなんだろう、と思っていたけど、いざ現地に来てみればその訳も少しわかる気がする。
何と言うか、レンガの黄色みががった背の高い街並みに囲まれて、ぼこぼこしてて少し歩きにくい黒い石畳の道を歩けば、こんな雰囲気の世界が表現されるだろうな、と自分の中ではかなりしっくり来ている。言語化は全然上手にできないけど。

あとはやっぱり大好きhard life。マジで、彼らの曲だけは全部この街にドンズバで合う。ボーカルMurrayのUKアクセントと、どこか遠くを虚ろに眺めるような声の雰囲気(?)と、明示的では無いけどどこかに感じる力強さがとてもしっくり来る。好き。

でも、このままだと彼らの曲しか聴かないことになっちゃうので、適度に新しいアーティストを探しつつ、これまでのプレイリストも遡りつつ、そんな感じで生きていこう。

授業はじまれ~

図書館で来週から始まる授業のリーディングをコピーした時に、久々に思いだしたあの感覚。

うわ、この社会、理解してない事しかないじゃん。えぐ、知りた。

そういえば学問しにきたんだった。6月末からずっと夏休みしてたから全然忘れてた、めっちゃ楽しみ。まぁ始まったらぶち殺されるんだろうけど。結局人間は無いものねだりな生き物なんでしょう。

今学期は文学・社会学・ジェンダーの3つの授業を取る。3つがフル単。日本の感覚だとかなり少ない。しかも授業時間も全部合わせて週5時間位しかない。

その授業を構成する要素の割合の円グラフ(シラバスより)

81,5%という圧倒的に多い割合を占めるのは簡単に言ってしまえば「自習」である。教授が話してそれを聞く、といういわゆる「授業」なんてそのクラスにおける「学び」の11%でしかない。

それだけ、ここでの学びは自分が「何を」「どう」「どれだけ」するか、にかかっているということだ。リーディング頑張らないと。今は楽しみ。

新入生歓迎イベントが溢れかえる今週は、「自分を無理やりsocializeに駆り立てる」以外にやることが特に無かったので精神的に少し疲れている自覚がある。その意味でも、授業が始まるのは楽しみだ。

本来の目的も見据えつつ、人との繋がりもゆっくり作りつつ、学問的にも沢山成長してやるんだいっ。

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