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エディンバラ留学#7 一学期目の終わり

ちょうど昨日、図書館の地下一階で最後のエッセイを提出した。

その瞬間をもって、2学期あるうちの1つが終わった。

一学期目が終わったけれど、どうだっただろうか?

この12週間強の中で、僕はなにを経験したのだろうか?

なにと出会い、なにを学び、なにを忘れ、なにが出来るようになり、なにが出来なくなったのだろう?

友人とのフランス・スペイン旅行に向かう前に、空港のバーガーキングのすみっこの席で、少し振り返ってまとめておこう。

眠たい

率直かつ情動的な反応としては、「思ってたのと違った」という気持ちがある。

ここにはポジティブ・ネガティブ色んなニュアンスが込められている。具体的になにがどう思っていたものと違ったのだろうか。

少しずつ分けて考えてみよう。


授業

まずは授業について。

自分の授業への姿勢を含めて、全体的な満足度としては40点くらいである。

赤点。

結論としては、週を重ねるごとに授業にはどんどん行かなかくなったし、期末のレポートに至っては全然ちゃんと出さなかった。出せなかった。

強制送還されても、まぁ文句は言えない程度には「怠惰な学生」であった。

期末期間に一週間まるまる病気して寝込んだ、とか、たまたまその課題だけは提出期限の延長が許されていないものだった、とか沢山言い訳はある。しかし結局のところは、モチベーションの枯渇という問題が根底にある。

今学期に取った授業が全て1~2年生向けの授業であったことが、自分の中では大きなミスだったと思う。

選ぶのミスったかもね、簡単すぎた。

いや、「簡単だった」は適切ではないかもしれない。

むしろ、毎週のリーディングは大変だったし、内容は面白いし、考える内容は沢山あった。

しかしながら、(例外は稀にあるものの)授業で扱われるその全てが「既になんとなく知ってること」だったのである。

これまで自分が見ていた世界・持っていた認識をひっくり返された時の衝撃と楽しさ、ワクワクする気持ち。

何となく自分がもやもや持っていた感情・思考に言葉を与えてもらうという、嬉しさ、誇らしさ、力強さ。

それらの繋がりが明示的ではない点と点が、思ってみなかった所で繋がった時の気持ち良さ。

それらに出会うことが、期待していた以上に少なかった。

もちろん、リーディング等の準備をして、授業に行かなきゃ出会えるのも出会えないし、自分の努力不足であるのは十分に承知である。

それでも、入門編の授業で多様な問題・話題の表面を撫でていくだけの12週間はどうしてもそそられないし、ワクワクも出来なかった。

1学期目は生活に慣れることが第一優先であると考えて、履修する時に授業を少し簡単なものに抑えたのだが、その自分の選択に後悔が無いとは言えない。

必死こいてもギリギリ追いつけるかどうか程度の難易度の方が、点数へのプレッシャーが正規生よりは少ない留学生としてちょうど良いのかもしれない。

2学期目はもう少し学問的に背伸びしてみようかしらん。

加えて、他の学生とディスカッションするときに絶妙に痛い障壁となるのが文化的・社会的背景である。

「文化的・社会的背景」と言えるのかすら怪しいほどの彼・彼女らにとっての「前提」を、僕は持っていない事の方が多い。

説明しなくとも、その言葉をつかえばどのような意味合い・文脈・ニュアンスで用いているのかが瞬時に伝わる人物・団体・出来事・本・事象などなど

それら自体を問われることを全くもって想定されていない、ある種の暴力性を孕んだディスカッションの進め方は精神的に結構食らってしまう。

知らんねん、それ。

それが分からなければ文脈が掴めないほど重要でありながら、同時にあまりに根本的であるが故に凄まじいスピードで僕の前を通り過ぎて意味を運ぶ「それ」の存在。

ディスカッションに心が折れる時は大体これが原因である。

それでも、ある程度の精神的コンディションのもと、大縄跳びくらい難しいタイミングをうまく見計らって「知らない。それなに?」と聞けた日はそれだけで満足感に浸るのである。

24時間空いてるメインの図書館
少し休憩のために外に出て、自分がさっきまでいた建物を見ると
約2300人の学生が缶詰になっているのを外から眺められる

ここで生きること

既に書いたけど、ここで生きることに慣れる、もしくは「慣れているフリをする」ことにエネルギーの殆どを消費した三か月だったと思う。

しかし、余裕と慣れが生まれると今度は、余裕がありすぎるのも少し退屈かも、という思いに駆られる。

ないものねだりな人間である。

元来、生き方もしくは時間の使い方として、時間に余白があるとそこに新しいものを入れ込むのではなく、既にある何かを必要以上に伸ばしてその余白を埋めてしまう傾向が僕にはある。

完全に自由な3時間があれば、10分で終わる課題でもぴったり3時間かけてしまうのである。

でも30分後に外出の予定があればちゃんと10分で終わらせられる。

このように、それぞれに使える時間を強制的に制限してくれる何かしらがあれば、それぞれの時間にメリハリが生まれるのかもしれない。

でもどれかのソサイエティに参加するのは面倒なんだよな~

このしがらみの無さとそれによる気楽さは、1年生の頭から学生団体に所属して常に授業以外の何かしらに追われていた自分にとって、そう簡単に手放せるものでは無い。

旅行でウィスキーの聖地として知られるアイラ島に行ってきた
炭を丸のみしたor喉と鼻の中を炭でこすられてるんかって程に
炭の香ばしさに包まれて本当に衝撃な味わいだった。

政治化されてる?

ソサイエティに参加するのは面倒くさいとは言いつつもの、この問いには余り胸を張って答えることが今の僕にはできない。

なぜならその答えがnoだからである。

今自分は社会について考えられているのだろうか?

問題意識を持って、政治的な主体として行動出来ているのだろうか?

上野千鶴子が、「問題とはあなたをつかんで離さないもの」と言っていた。

僕を掴んで離さないものに、今の僕は目を向けられているのだろうか。

う~ん・・・noだね。うん。

少し寂しいし、そうはありたくないとは思う。まだ真面目に授業に出ていたころに、教授が言っていた「大学はあなたが政治化される場所だ」という言葉が心に刺さって抜けない。

でも、さっき書いた通り、気楽は気楽なのである。

社会・世界に対しての無責任さはとても心地よく気楽なものである。であるが故にそうして「無責任でいられること」の特権性をうっかり忘れてしまいそうになる。

そうなんだよね、自分という人間は本質的には物凄く世俗的な人間で、そのほとんどはただの背伸びと願望なのだ。

いかんいかん、何とかそこら辺もちゃんとしていきたい。

幸運なことに、今度キプロスにフィールドトリップに行く素敵な機会を頂いたので、その準備の過程の中でしばらく離れていた「政治化」のプロセスに自分を放り込みたい。

フラットの皆でクリスマスデコレーションをお金を出し合って準備した
かわいい

英語の上達度

「英語上達した実感ある?」

「ねぇな、英語に対する反応速度は上がったかもしれないけど」

先日友人とそんな会話をした。

「英語力」の意味するところによるが、自分から発されるボキャブラリーが豊かになったりなど、安直な形で「英語上手くなってる!」という自覚はあまりない。

それよりも、「英語で話す」「英語で話される」ということそれ自体への慣れや、日常的な色んなシーンで急に話しかけられた時に対応できるスピードが上がったことを実感することの方が多い。

高校生の語学留学じゃあるまいし、そこら辺の延び具合はより穏やかかつ緩やかなものなのだろう。

そうした緩やかな慣れに加えて、英語を話すうえで無意識下での重大な要素が自分にとって存在すると最近気が付いた。すなわち、自分が英語を話すその相手との関係性と相手に対しての感情である。

単純に言ってしまえば、その相手に対して心を開いているのかということである。

自分が言っていることが伝わらないかもしれないという漠然とした不安感が根底にありながらも、「それでもこのひとは大丈夫、分かろうとしてくれる。伝えられなくても僕もまたチャレンジできる。」という思いを無意識的に抱けるのか。

そうした要素が、僕が英語をスムーズに話せる時と、話せない/うまく出て来ない時の境目に存在していることに気が付いた。

それとは別の軸として、相手が母国語ではない言語でコミュニケーションをすることの難しさを自らの経験を持って知っているかという点も大きく関わって来る。

自分が現在進行形で味わっているこのもどかしさをこの人は知っている、という想定はある意味で気楽でいられるし、実際そうではない人と話している時と比べて比較的すらすらと英語が出てくる。

そうした意味において、他の留学生とは英語でも話しやすいんだろうし(あんまりそのコミュニティで知り合いいないけど)、特に最近仲良くしてくれる日本語学生らに対しても同じことが言える。

反対に、そこまで知らないネイティブに対しての根拠不明な負い目は未だに強敵である。精神的な部分で英語の話せる具合が変わるというのは何とも不思議な話だし、自分も最近まで気が付かなかった。

でも今の感覚としてはそうした気付きがあるのでここで残しておく。

ちなみに、学問的なディスカッションにおいては全くの別問題である。もっとそれ用の語句・表現の仕方を知る必要がある。あらたまって覚えたりする勉強は苦手なので、それらのボキャブラリーに自らを晒しながら少しづつ自分の中に取り込んでいきたい。

城から見下ろす街並み。とてつもなく美しかった
誰かがエディンバラに来たらまず最初に連れて行く所リスト入り

留学ってなんのためにするんだろ

ここに来る前までは、「授業での学び」が留学における唯一かつ一番重大な目的だと思っていた。

三か月経過した今、そうは思わない。

人それぞれあるのは大前提として、「遊び」や「自分を深めるための旅」、「モラトリアム期間」、「次の進路への準備期間」など意味合いは様々である。

それらを見ていて同じ「留学」という行為でも多様な在り方があることにようやっと気が付かされ、その豊かさに目を向けることが出来た。

(ただ単に今学期の授業に真剣になれなかっただけかもだけれど)僕にとっては今のところ「漂うこと」それ自体が留学なのかもしれない。

全く右も左もわからない状態から、少しづつ自分の根を広げていくその作業。広げたと思った根が、気が付いていたら無くなっている時もあれば、種をまいた覚えのないところに根が張っていたり。

そんな試行錯誤の中で行う、主体的なのか受動的なのか曖昧な時間の過ごし方はこれまで経験してこなかった類の不思議な楽しさがある。

お友達もできて、ご飯もおいしいし、一人暮らしの気楽さと、期限付きで社会的な文脈から切断されることの気楽さはとても大きい。

思っていた以上に、もしくは期待していた以上に、僕が与えられたこの時間はコチコチな「学び」ではないのかもしれない。

いや、もちろんそっちの方がカッコいいし、自分でもそうありたいと思うからこれからも色んな形で学んで生きていたいけれど。

他者の留学を傍から見ていて作り上げられた、「この時間、学んで過ごさなきゃ」という強迫観念からは少し解放された。

特に、日本に留学に来ていたこっちの学生たちの話を聞くと、「留学」というもの自体の意味合いが日本から来る我々のそれとは大きく異なることに気が付かされる。

日本語を勉強しに行くことが第一目標であるが故に、英語「で」学ぶことが目的の我々とは違っていて当然なんだけれども。

それでも彼・彼女らの日本で留学していた時の話を聞くことは、学ぶことへのプレッシャーや「こうあらなきゃいけない」という観念を多様な意味合いで解きほぐしてくれる。

旅行中のフランスで訪れたエッフェル塔
美しさと迫力に圧倒されて
「すげえな」と繰り返し言うしかなかった


とりあえずは残りの旅行を楽しもう。フランスの南に今はいるのだが、日照時間の長さにただただ感動している。

このあとのバルセロナも楽しみである。

24/12/14
@トゥールーズのエアビの床

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