エディンバラ留学#4あれ?帰りたいかも。いやそんなはずは・・・
9月が終わった。
授業も本格的に始まりだして、少し体調を崩した。
あ、そうか、大学って「自分のサイクル」を見つける作業が必須だったわ。と突然思いだす。
毎週末に二日間図書館に籠って、次の週の準備全部やっても良いんだけど、それだと本当にずっと大学と寮の往復で終わってしまう。
街も沢山探検したいし、別の街にも行ってみたい。だったら平日頑張らなきゃね。
バランス感覚
エディンバラでも日本語に触れる機会は意外と多くある。
大学には日本語学部もあり、クラスによっては先生のお手伝いとして授業に参加することもできる。実際に僕も3つ、それぞれレベルの異なるクラスでの授業でお手伝いをしている。
日本語学部じゃなくても日本語を学ぶ学生はいるし、日本人のソサイエティもある。僕みたいな、日本からの留学生も意外と沢山いる。
英語圏に留学に来ると、改めて「日本語が話せる空間」の貴重さと重要さが身に沁みる。脳みその思考が、何のブレーキも精査も必要とせずアウトプットできることの心地よさと快適さは絶大である。
日本にいる頃、友人と話していて何かの流れで「僕、日本語好きなんよね」とポロっと言ったことがある。それを口に出すその瞬間まで、そんなこと考えたことも無かったが今になって振り返ると大きく納得する部分がある。
とにかく日本語の中を漂っていられる空間は、ある種のコンフォートゾーンとしてとても貴重だと思う。特に日本からの留学生とのコミュニティでは、似た状況にいる人達と、色々な文脈からの「不安」や「心細さ」を互いの共通点として何となく認識しながら繋がっていくことが出来る。
たとえその「不安」の全てを言語化して伝えなくても、「似た状況なんだろうな」という想定が誰かに対して出来る、というだけでも大きく救われるのだ。
ただ大事なのは見出しにもある、バランス感覚である。
自分の良くないクセの一つとして、一回見つけたコンフォートゾーンから中々出ないというものがある。
しかしながら、この「借りぐらし」は何ともヘンテコで、貴重な機会なハズである。急にこの街に出現して住み着き、9か月したら帰るという変な条件と共に今を生きている僕には、その「変さ」と同時に特権が与えられている。
すなわち根無し草として誰とでも関係性を作れるし、誰とでも関係性をぶった切れるということだ。
何をしていたって9か月経てば、街は僕が住んでいたという事実を完全に忘れてしまう。この「根無し草性」とでもいうべきか、そんな自分のヘンテコなこの状況は最大限楽しむべきであろう。
もちろん、気分によってはこの根無し草性は「関係性を築かない選択」の理由にもなり得るのだが。
とにかく簡単に言ってしまえば、コンフォートゾーンも持ちつつ、この特異な存在の仕方を楽しんでいきたいね、という話である。
ずっと迷っている
とは言いつつも、前回のnoteから引き続き、自分の中でずっと色々な思考と感情が行ったり来たりしているのも事実である。
自分がここで「どう生きたいのか」という理想は常に揺れ動き、今「どう生きているのか」に関しての認識と評価も、その時の心身の状況に依って大きく変わる。
今、自分の部屋で夜中これを書くこの瞬間は、先の「根無し草性を楽しみたいな」という結論に行き着けたからワクワクしているけれど、今日の昼とかはそんなんじゃなくて、もっとネガティブな視線を自分に対して持っていたのを鮮明に覚えている。
どうありたいんだっけ。
何がしたいんだっけ。
何をすればいいんだろう。
何をどの程度すればいいんだろう。
どこまでが「自分を大切にする」で、どこからが「自分を甘やかす」ことなんだろうか。
どこまでが「挑戦」で、どこからが「自分らしさからはみ出た無茶」なんだろうか。
自己採点をしない生き方と、目的合理的な生き方が矛盾しない所を見つけたいけど、そんなの可能なのだろうか。
こんな、一回始めたらきりが無いような思考の迷走に、心を占領されてしまう時が多々ある。この迷走はきっと、この先ずーっとついて回るものなのだろう。
そして頭の斜め後ろでもう一人の自分が隙あらば採点しようとしてくるこのストレスとも、上手に生きていく術を見つけていく必要がありそうである。
こんな騒がしい迷走を常にしているせいで、それに付き合う体力・気力がゼロの時は、真っ白な心の底からふわぁ~っとこの考えがぼんやりかつ純粋な形で浮かんでくる。それがすなわち、
あれ?帰りたいかも。いやそんなはずは・・・
という感情である。
このパートは書くことそれ自体に少し勇気がいる。恥ずかしいのもあるし、何故か書くべきじゃない気がするからである。でも、いつか思いだせなくなるこの瞬間を可能な限り正確に残すのがこのnoteの第一の目的であるから、言語化しておく。
先のパートで書いた沢山の「迷い」に付き合いきれない程に心身が疲れた時、ふと純粋な感情として「帰りたさ」もしくは「この留学が終わる25年6月を待ち遠しく思う気持ち」が湧いてくる。
なんてもったいない感情だろうか、せっかく貴重な機会を得てここまで来れたのに。
いや分かっている。もちろん。自分でもかなり驚いているし、戸惑ってもいる。
でも、疲れてぼーっと寮まで歩いている時とかに、理性より先にこれらの感情がごく自然な形で浮かんでくるのである。
そうして湧き出る気持ちを、慌てて「いや流石に・・・ねぇ、んなこと思ったって、ここにはあと8ヶ月いるんだから限られた時間に目を向けなきゃ」と理性で押さえつける。
思うに、これは純粋な形での「ホームシック」ではない。むしろ、「今よりもそっちの方が楽だから」という理由での羨望の眼差しなのである。
すなわち「帰りたさ」ではなく、「逃げたさ」なのだと思う。
「この街における生」についての色んな悩みの渦から逃げたくなった時に、僕の脳みそはその「逃げたさ」を「帰りたさ」に変換しているのだと思う。
そうと分かればも少し付き合い方も変わって来るかもしれないね。
分かんない、単純にめちゃめちゃ日本の諸々が恋しいだけなのかもね。どっちが先かはそこまで明確なものでは無いんだろう。
誰しもがempowerされた空間づくり
エディンバラ大学で僕が取っている授業は、それぞれ3コマある(1コマが1時間)。そのうち2コマが講義で、もう1コマはチュートリアルと呼ばれるものである。
チュートリアルでは、その授業を取っている学生が大体10人単位でグループに振り分けられる。そして各グループにそれぞれ大学院生や4年生がチューターとして付き、授業で学んだことや、リーディングの内容を発展させてディスカッションをしていく。
講義とは異なり、チュートリアルは学生を主体に置かれている。そのため、学生間の対話や意見交換が主な要素として想定されており、チューターはあくまでディスカッションを仕切る存在に留まる。
先週からこのチュートリアルが始まったが、どのチュートリアルでも何よりもまず、「チュートリアルでは教室の全員が安心できて、empowerされている実感を持てるべき」という話をされたのが印象的だった。
「empowerされる」と日本語から逃げたが、言葉のニュアンスとしては「自分は種々の権利(話す・聞く・尊重される等)を持っているという自覚と、それに伴う全体に対しての自己効力感」だと僕は理解している。
とにかく、そんな感覚のために、初回で説明することも山ほどあるのに、まずはみんなで「このチュートリアルでのルールを決める」話し合いをしたのも印象的だった。
正直、どのチュートリアルでも「あるある」なルール(誰の発言も遮らない・聞いた内容を外で話さない・全体で話し合いが出来るように話す量を意識する)に落ち着くのだが、自分たちで決めたというその過程と、その自覚が重要なのだと思う。要は民主主義だ。
とにかく、自分含む全員が居心地よい空間であるために何ができるか、という話し合いをするという経験は、時間としては10分くらいしか無かったけれど何だか暖かい感じがして嬉しかった。
大学は自分を「政治化」するための場所
ジェンダーの授業で教授が言っていた言葉が心に刺さった。
大学の一つ部署としてジェンダー系の研究やプロジェクトを行う部署を紹介し、興味があれば積極的にそうした場所に関わりに行くことを促す中での言葉だった。
また僕の勝手な理解になるが、ここでの政治化とはすなわち「社会の一個人として、何かしらの思想・イデオロギーを体現する政治的主体となること」だと思う。
これまで持っていた大学の存在意義と価値に関しての「なんとなくの理解」を、思いがけず言語化してもらった気がして痺れた。
そう、そうなんだよね!って感じ。
問題意識や責任感、罪悪感、正義感、知的好奇心、それらが混じり合った「何か」に突き動かされて学び、その学びが自分と自分の思考を形作っていくその実感。そしてその変化が、様々な次元において身の周りの変革に向けた「主体的行為」として表出していく。
そんな話をしたこと無い人に、勇気を出して自分の問題意識について話してみることから始まり、勉強会を開いてみたり、署名を集めたり、記者会見に出たり、その全てが「政治的主体」としての歩みなのである。
自分の通過してきた経験や、周りの刺激的かつ素敵な人達がしていることに、新たな理解をもらった気がして何だか高揚した。
それが「社会のためにならない」「知性の無駄遣い」なら、僕は喜んでそうしていたいと改めて思えた。