エディンバラ留学#3 無いはずの「留学の正解」
この街に着いてから、もう二週間が経った。
前にnote書いた時は、着いてから5・6日目とかで「え~もう??はやっ!」って感じだったけど、そこから一週間が経っているのか。
どうも、この時間に対しての感覚が持つ相対性というか伸縮性というか、時間がびよびよと伸び縮みする感じには慣れない。酔っちゃう。
この一週間があっという間に過ぎ去っていったのと同様に、一か月、三か月、半年と、どんどん時間はその速度を増して僕の指の間から砂のように落ちていくのだろうか。ここではせめてその重力に抗おう。
授業の一週目が終わった。
いや~疲れた、ホント。
初日が一番辛かった(1週間の振り返り)
いやほんとに。
取っている授業が月曜日に固まっていたせいで、開始早々いきなり3つも講義があった。
初回だから、この授業では何をどんなスケジュールで学んでいくのか、的な内容の話だけで頭は殆ど使わなかったけれど、それでも大変だった。
エディンバラの街に微妙な距離感で散らばった建物を移動しながら、教室をめぐる。どの授業も100人以上の規模だから教室はパッツパツだったし、隣り合った人とのsmall talkにも微かに、それでも確実に心が削れる。
あと、単なる気のせい、もしくは人数が多いだけなのかもしれないけれど、何故か文学の授業だけ皆ちょーーーー咳する。ほんとに。科目とは何の関係も無いと思うけど。1時間の授業時間の中で「誰も咳をしていない時間」が一瞬たりともない。
タバコなのか、freshers' fluと呼ばれるものなのか分からないけど、痰の絡んだ、4・5回連続の、何なら一回途中で大きく息継ぎ挟まっちゃうようなやつ。常に2人以上がへほげほ言っている。何なん。
「咳ごときで・・・」って感じだけど、一回気になったらどんどん自分の中で強調されてしまうし、単純に先生の言葉が聞こえないのが少し大変。文学の授業は、スライドには情報が少なくて先生が僕があまり得意じゃないアクセントでつらつら原稿読むだけだから、なおさら。
そんなことでも神経をすり減らしながら、授業が終わったら次は何分後にどこどこに行かなきゃ、なんてことを朝の9時から夕方まで続けていたらそりゃ疲れる。
ちなみに一番最初に受けた授業の教室はかっこよすぎて、とてもテンションが上がった。
そして、授業が全部終わった後には興味のあるソサイエティが開催するイベントにも参加したことで、僕の心は完全に終わった。
自分の全く分からないサブカルチャーについてのディスカッションで何のこっちゃ分からない&同じグループの人達は自分以外みんな知り合いという複合的なアウェーさがあった。その頃には心が踏ん張る余白すら残っておらず、途中で帰ってしまった。
理由の不明確な自己嫌悪が、肉体的な疲れと上手に絡み合ったせいで心が沈み過ぎていたので、とりあえずその感情をアウトプットだけして月曜日は寝た。
寝て起きてもまだ心が下の方にいたので、近くの広い公園でウクレレを1時間位ひいて歌って自分のご機嫌を取った。
そんな火曜日以降は、スケジュールも余裕があったし調子が良かった。
・大学近くの本屋さんで、歴史の中にクィアの存在を再発見する試みをされている人の話を聞けるイベントに参加した。「自認」という主観に対しての絶対的な尊重と不可侵が重要視されるこの話題において、歴史上の人に対してクィアのラベルを付していく(正確にはその可能性を探り、提示するだけに留まるが)ことの矛盾とその価値・必要性。その作業に求められる姿勢と難しさ。何とも興味深く、色々考えるきっかけをもらえた。
・月曜に心が折れたのとは、また別のソサエティのディスカッションイベントにも別の日に参加して、これもとても面白かった。映画・ドラマの中で描かれる世界は常に「男性目線」のものである、という批判から考えていくメディアの世界。逆に「女性目線」「クィア目線」から描かれる作品の在り方とその限界。フェミニズム的理想は、市場経済の中で必ずしも成功するものでは無い。バランスを取りながら、あくまで少しづつ「攪拌」していこうとするその姿勢がやっぱり大切なんだね。
・色んな言語を練習したい人が集まるソサエティのイベントに何となく行った。パブでお酒が飲みたかったのも60%くらいあるが。そこでも知的で、世界に対しての好奇心にあふれる素敵な人に数人出会えた。また今度会う予定があるから楽しみである。
それ以外にも少しづつ、人との出会いに繋がりそうな方向へと能動的に色々動いてみたりした。
授業以外での「学び」にも積極性を持ちながら、無理ない範囲で人と出会って、繋がりを少しづつ作っていく。
そんなことが出来た、と思える過ごし方の1週間だった。
無いはずの「留学の正解」
月曜日に心が完全に終了した時以外にも、心が少し落ち込むことはこの一週間の中で何度かあった。
その時を思い返すと、いつだって漠然とした「留学しに来たならこうあるべき」のような理想像が自分の中にあることに気が付く。「留学の正解」とでも呼ぼうか。
常に外向的で、人見知りせず、誰に対しても明るく、どんな会話にも積極的に混ざっていく。そんな姿が、なんとなく自分の中に「留学の正解」として固定されている。
この理想像は、これまでの色んな人との関わりの中で作り上げられたものなのだろう。気分が何となく乗らず会話に積極的になれない時、ふと「あの人だったら笑顔で話しかけて、素敵な話するんだろうな」なんて誰かの架空のシチュエーションを想起し、自分と比較しまうのである。
だが、当たり前のことだが、留学において「こうするべき」なんてことは存在しない。(留学とか以前に「生きる」という行為において目指すべき正解は無いはずなのである。)
僕は僕で、「あの人」じゃない。
正解とか間違いとかそんな評価の対象としてでは無くて、ただ自分の生がそこにあるだけなのだ。日本から来た留学生としての短い9か月の人生を、今この瞬間を、自分はどう構築してくかを考えるべきなのである。
そんなこと言っても、なんとなく「ありたい自分像」は人間だれしも持ってる訳で。だからこそ、「自分の目指すもの」と「なんとなく抱いてる根拠のない理想」の区別が必要なのだと、ここまで書いて考えるようになった。
この発見は、次の内容に大きく関わる。
何をしに、ここまで来たのだろうか
ある授業で、「何のためにこの授業を取りましたか?この授業はあなたにとってどんな位置付けですか?目標達成のためにどんなことをしますか?」という質問に答える、というプチ課題があった。
その課題を進める中で、「僕は何のためにこの留学に来たのだろうか」と考えるようになった。あまりにも遅いが。
元来「目標を立てる」ということが大の苦手なので、留学前のオリエンで「目標を持ち、適宜それを見直すこと」の重要性が説かれている時でも、割と右から左へと受け流していた。というのも、自分が何をしたいかはその瞬間にならないと分からないし、予め何かを決めてそこに向かって行くなんて「現在」という瞬間の否定だ、と子供じみた考えに未だに憑りつかれているからである。
それでも、言葉にしてこなかっただけで、なんとなく目的意識じみたものは持ってはいる。それを明確にしてこなかったからこそ、先の「留学の正解」という幻想に翻弄されるのではなかろうか。
じゃあやっぱり、明確に持つべきものもあるのだろう。でもそれは「ここでの生活を通じて一年後こうなりたい!」といった目標ではない。あくまで「ここに何をしにきたのか」という目的である。
やはり、「学問をしに来た」というのが最大かつ唯一の目的だ。日本では学べない事、学びきれないことをここで学び自分のものにするために、ここに来たのだ。既に知っている事も、もう一度英語で丁寧に学び直して、より中身の詰まった自分の道具としていく。大学院に行くとか、働くとかはまだ分からないから、どこにこの「学び」が活かされるかは知ったこっちゃない。でも少なくとも、生きる上で大切にしていたい「考える」という行為をより豊かにしてくれることは確かで、今の僕にはそれで十分である。
正直、他に目的が無い。
もちろん人との繋がりを作って、それが連れて行ってくれる「どこか」を楽しむこともしたいけれど、それはあくまで偶発的なものだ。結果を得て初めて振り返って味わうものであって、本質的な目的でもなければ、それを目指して目的合理的に行動するものでもない。そんな出会いによる「自分の変化・成長」に関しても同様である。
うううう~んんん??
ここまで書くとかなり無目的にふらふらっと来て、ぬる~っと生きてる感じがするけれど、意外と別にそうでもないのだ。
まぁまだ始まったばかりだし、「目的」という一側面のみで生を描写しきれる訳は無いし、授業も授業準備のリーディングも楽しいからそこで充実している実感がある、ということで納得しておこう。
「間」と生きられない
とまぁこんな感じで、心も頭も常に何かがぐるぐる回っている状況であるからこそ、「何もない」瞬間に耐えられない自分がいる。
図書館で勉強し終わって、スーパーに寄ってから寮に帰る夜道。
ただ歩いてるだけだと、「留学の正解」との比較とか、今日の反省とか、はたまた何の根拠も無いネガティブな何かに占領されてしまうから、ただ脳みそを使わずにいられる動画や好きな芸人のラジオに逃げてしまう。
部屋にいる時も、「自分と一人っきり」になるのが耐えられないから、Youtubeなどで時間を消費することに逃げてしまう。
授業に出たり、人と会ったり、勉強したりする時間のそれぞれの隙間に存在する、「間」を味わう余裕が今はまだないのである。
でも、人生が持つ美しさの一つは、日常のごくありふれた呆れるまでの「平凡さ」を大切に見つめて味わうことにあると僕は思う。
朝に、コーヒーを入れたマグカップに口を近づけて、ふーっと息を吹きかけて自分の顔を湯気の温かみで包む心地よさ。
子供たちが仲良さそうに歩く少し後ろで、嬉しそうに子供たちの背中にスマホを構えるおばあちゃんの微笑ましさ。
赤信号でも、一人が渡ればわらわらと続く人間臭さ。
そんな、何でもないことを大事に見つめながら生きたいな、なんてここ数年は思って生きてきたからこそ今の状況は少し嬉しくない。
早く日常の「何もなさ」を味わえる位に、この生活に慣れて余裕を持ちたいな。
そんな願いを込めて、木曜日には少し無理してただ窓を眺めながら洗濯物を畳んだ。自分と一人きりで。
そーやって洗濯物を畳む間に、次の言葉が頭の中に浮かんできて急いでノートにメモした。
「上手くいった日/上手くいかなかった日」の二分法の外へ
さっきの「留学の正解」の話とかなり被るが、毎日を「上手くいった日」「上手くいかなかった日」のどちらかで評価するような姿勢を改めたい。
日本にいた時は別に毎日をそんな採点することはしていなかった。単純にその日を生きて、味わえていたはずなのに。つまり今の状況だからこその行動ということになる。
ここには、やっぱり評価基準としての漠然とした「留学の正解」がある。でも「上手くいった」って、何を持ってそう言えるんだろうか。とても曖昧なものだ。
外国で様々なしがらみを一時離脱して自由に借りぐらしするという経験は、「上手くいった」「上手くいかなかった」の二分法に収まるはずもないし、収めようともするべきでもない。
その日をただそれ自体で味わえるようになるには、ここでもやっぱり「慣れ」が必要なのだろうか。(少し「慣れ」に期待しすぎかな?分からん。)
紅茶派への改宗
フラットメイトの半分がUKの人で、みんな本当に良く紅茶を飲む。
寮に来てからの数日間、キッチンの棚を見る度に増えていく紅茶の箱に驚いたのを覚えている。皆3種類くらいづつ「マイ紅茶」を持ってる。
僕は元々コーヒーをよく飲んでいたので、最初の方はインスタントコーヒーを飲んでいた。でもせっかくUKにいるんだし、と試しに自分でもティーバッグを買って飲むようにしたらこれまた秒でハマった。
いや、丁度良い。
今は食後に毎回飲んで、寝る前のこれを書く今も飲んでいる。
コーヒーって自分の好みがはっきりしているから、その分「当たりはずれ」が大きい(と自分の中では思っている)。その反面、紅茶ってコーヒー程に味のパンチがある訳ではないから、良い意味で当たり障りが無いのである。
朝のサンドイッチをもぐもぐしながら流し込むように飲んでも、ちゃんとサンドイッチの色んな味が混ざった風味を残してくれる。コーヒーだと、全てを上書きして「コーヒーー!」に口をしていくから少し過剰に感じてしまう時もある。
別の刺激で上書きすることなく食後に少し落ち着くことが出来るのは、これまで知らなかった心地よさがある。
もちろん、ケーキとか甘いのはコーヒーと食べるのがやっぱり美味しいんだけれども。あとシャッキリしたい時とかはやっぱコーヒーかな。
色んな種類の紅茶を試して自分の好みを見つけたり、紅茶にまつわる「自分のこだわり」発現させたいな、楽しみ。